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「俺、日本に戻ります。」
意を決して告げたというのに、当の本人はなんて事ない様子で俺を見返した。
暗く、雨の日特有の青白さを伴った部屋の中、窓際に立つ彼の横顔は生気がないようにも見える。
夣か現か。その境界線が、この部屋でぐにゃりと歪んでいるみたいだ。
「戻って、あっちのリーグに入るってこと?」
「はい。」
「チームは決まってるの?」
「サンバーズに。塁と同じとこです。」
「…そっか。」
ぐ、と何かを飲み込んだように押し黙ってしまった。
きっとその飲み込んだ言葉は、俺が言おうと構えていることを問うものに違いなかった。
ひとつ、呼吸を置いて震える声を絞り出す。
「…結婚、しようかって。」
しん、と世界中の音が連れ去られてしまったように静けさが広がった。
彼の背後では未だに大雨粒が打ち付けているのに、その音さえ靄がかかったように耳を掠め大したノイズにさえならない。
結婚。この言葉を、彼以外の人を相手に使うとは。
今この瞬間でさえ実感が持てずある種の違和感が胸を掻き立てる。
じっと神経を尖らせて彼を見つめた。
彼の視線の先にあるのは、流れ落ちていく無数の水滴。
俺は、祐希さんにとって、その水滴みたいにありふれた存在だったのだろうか。
「…そう、なんだ。」
静けさを破ったのは、たった一言。
感情がこもっているのかなんて読み取れなかった。
その事実に、また胸が傷んで。
俺はちっとも彼のことを分かっていやしない。
「だから、祐希さん…俺たち、戻れますか?」
「…いつに?」
「ただの、仲が良い、先輩と後輩やった時に。」
嘘だ、こんなのは建前にすぎない。
ただの関係だったことなんて無かったのだから、戻ることなど有り得ないし、出来ない。
それをわかった上でこんな言葉を選ぶ自分が一層ずるくて憎かった。
ふ、と微かに笑ったのが分かって、そろりと窺うような視線を寄越す。
相変わらず見えるのは青白く照らされた筋の通った綺麗な横顔。
その造形の美しさが、今は何故か怖いと思った。
「そんな時、あった?」
「さぁ、あったんやないですか?」
精一杯の虚勢も、彼の前では意図も簡単に崩れてしまう。
「…俺は忘れたよ、そんなの。」
とくり、と「忘れた」という言葉に胸が高鳴った。
もしかしたら、彼も。
そこまで考えたところで、キーン、と沈黙に特有の耳鳴りが思考にブレーキをかけた。
違う、そんなわけが無い。
「もしかしたら」が有り得たならば、俺は今、こんなことを話しているはずがない。
ひたりと冷たい感触が背中を伝った。
それと同時に、喉から嗚咽のような声が漏れだした。
「…俺もですよ。だから、困っとる。」
「お前が言い出したのに?こんな時まで笑わせるんだな」
間髪入れずに突き返された返答に、喉がぎゅうっと締まり呼吸が細くなる。
ホメオスタシスを何がなんでも保とうとする身体は、当然脈拍数を上げようと心臓を懸命に動かし始めた。
その鼓動を大袈裟なくらいに感じながら、細く長くゆっくりと、酸素を取り入れた。
その呼吸と同時に、彼が振り向く。
微かな外界の光を宿している瞳が、乱れたベッドを滑るように追っていくのが分かった。
先程までの時間の形骸が、俺の心を蝕む。
歪む表情を抑えきれない俺は、まだまだ彼に比べたらガキに過ぎないようだ。
ぎしり、とスプリングが悲鳴を上げた。
隣にあるはずの温もりが、今の俺には熱すぎて、冷たすぎて、触れたら火傷してしまいそうだ。
「藍は、俺が誰とでもこんな事すると思ってるの?」
「…」
ふるふると首を降るので精一杯。
顔を上げればきっと、情けなさを詰め込んだ表情をしているに違いない。
攻めてもの抵抗にと俯いていた。
はぁ、とため息をひとつ。
大袈裟なくらいに肩が揺れた。
放り出していた左手に、祐希さんの手が重ねられた。
じんわりと、人間らしい温かさが伝わってくる。
そこでふと、彼の指が俺の薬指をなぞっている事に気づいた。
その指は、もうすぐシルバーの指環が鎮座するであろう場所だ。
どうしてそこを、と思った瞬間に顎を捕まれ、次の瞬間には視界いっぱいに彼がいて唇を塞がれていた。
「っん、…」
はくりと、息を失い意識が遠のく。
酸素が足りないと体がSOSを出している。
それをわかっていながら見殺しにしてまでも彼を求めてしまう俺は、救いようがない。
祐希さんは俺にとって、甘い毒だったんだろう。
全身を甘美な痺れで包み込み、酸素さえも奪っていってしまう。
俺も、祐希さんも、毒に犯されていただけだったのだ。
銀色の糸が切れ、二人の間に張り詰めていた緊張が解ける。
肩にもたれかかってきた彼の頭に手を伸ばしかけて、その手を引っ込めた。
対照的に、彼の腕が俺の背中を抱きしめる。
「…今日、何曜日だっけ?」
「え?えっと、…月曜、やなくてもう火曜日ですね」
「…そっかぁ。」
突拍子もない言葉に、思わず上擦った声が出てしまった。
急に、どうしたんだろうか。
火曜日に意味があるのだろうか。
怪訝な顔を隠そうともしない俺を見て、祐希さんはゆっくりと破顔した。
何、その顔。俺の知らない顔だ。
俺たちはきっと、わかった振りをし続けていたんだろう。共に過ごす時間が長くなればなるほど似てきていただけだったことを、都合良く心に落とし込んでいたのかも、なんて。
「…そうだね、藍。戻ろうか」
「…」
何も言えなかった。言いたくなかった。
自分が言い出したことなのに、嫌だ、嫌だ、と駄々をこねる自分が消えない。
涙が重力に逆らえず落ちていく。
しゃくり上げるように必死で酸素を吸って、肩を揺らした。
深海のような雨の世界に浮かぶここで、流れ落ちていくのは雨雫だけではなかった。
ーーー月曜日は、週の始まりって感じだから好きじゃない。その次の日の、火曜日が好きだ。
いつかのインタビューで、彼がそう答えていたのを後に知った。
もしも、もう一度あの日のように言葉を交わすことが出来たならこう言いたい。
ーーーねぇ、祐希さん。俺は火曜日が嫌いになりましたよ。
あなたがいないところで、俺は結婚式を挙げました。その日はあの日以来の土砂降りの火曜日やったんです。
きっと俺達は、運命の赤い糸じゃない何かで繋がっているのかもしれませんね。
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前作「Last Tuesday」と同じセリフを使って12視点ver.を書きました。 ふたりの思惑の違いを擦り合わせるようにして、読んでくださる人がそれぞれなりの答え合わせができたらおもしろいかなぁと。
fin.
⚠️本作品のセリフやストーリー、言い回し等の盗作はお止め下さい。