コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
わーんと泣きながら、髭、髭、肉と、お咲は転んだまま叫んでいる。
「いや、だから、髭なのか、肉なのか、お咲はっきりしなさい!」
岩崎が訳がわからんと、大きな声を出す。
たちまち、お咲は手足をばたつかせ、わーんとこれまた泣きわめいた。
「旦那様。お咲ちゃんを叱らないでください」
「いや、月子。私は何も叱ってはいないぞ」
「……やはり、神田のお宅へお戻りになるのがよろしいのでしょうか?あちらなら、転んでも、お咲もここまで痛がることはないでしょうしねぇ」
「いや?清子。お咲は痛がってはないだろう?」
「京介様。痛いから、グズっているのですよ……神田のお宅ならば、ぶつけてもたいしたことはないでしょうし……」
「ん?清子!ぶつけたら、かなり痛い!!たまらん!!」
大人たちは、喧喧囂囂、それぞれの意見を述べている。
そんな中、見かねた月子は、お咲を抱き起こそうと、側に行くべく歩み出すが、当然というべきか、慣れないドレスの裾を踏みつけて見事に転んでしまった。
「……あらまあ、やっぱり……」
お咲、月子と二人が痛がっている。
「い、いかん!こ、こんなところにいられるかっ!!月子!!大丈夫かっ!!安全な神田の家に戻るぞっ!!」
と、言うことで、転ぶと危ないからという訳のわからない理由から、岩崎達は神田旭町の家へ戻ることになった。
月子は、至急、ドレスを着替えている。
「本当に、なんだったのでしょうねぇ」
行ったり来たりも大変だと、清子に労りの言葉をかけられながら、月子は別室で着替えている。
「申し訳ありませんが、芳子様からお譲り頂いたお着物に……」
月子の着物ではなく、芳子の寸法直しをしたものを来てくれと清子が頭を下げてきた。
「ええ、上等すぎてもったいないのはよくわかります。ですが、月子様、奥様の顔もたてて頂きたいのです」
芳子なりに気を使っているのだから、男爵邸を出る時は芳子からの着物を着て欲しいとのことだった。
どうやら、不満、まではいかないが、芳子は月子が神田旭町の家からやって来た時、どうして自分の譲った着物を着ていないのかと不思議に感じたようで、それを耳にした清子は、月子へ助言したのだった。
言われ、月子もなるほどと思い清子が差し出す着物を纏った。
逆の立場なら、月子も同じようにあれこれ考えてしまうはずだ。
そうなると、芳子の場合は、周りになんやかやと問いたたすはずで、そのあたりの面倒さから逃れたいというのが、清子達使用人の本音なのだろうと、月子は理解した。
と、同時に、母のことを思う。
せっかく一緒にいられるのに、また離れてしまう。
しかし、一緒にいられるとはいえ、立派な部屋に世話係の梅子に、その他何かあれば、清子など女中達がすぐにやってくる。
正直、おちつかない環境であるのは間違いなかった。
岩崎が言っていた様に、見舞いに来るというのが、母の体調上も良いのではなかろうか。そんなことを考えている月子の側では、お咲が他の女中にあやしてもらっている。
お咲は泣き止み、ただ、ぶつけた頭の後ろが痛いと皆に訴えている。そして、どこか嬉しそうに岩崎の髭が無くなったのは、自分が抜いてしまったからだ、などなど、機嫌良く話している。
その隙に月子は手早く着替えた。
慣れないドレスから解放され、着物に戻れたことは嬉しかったが、こちらも、上質そのもの。肌触りがことのほか良い。
少し緊張しつつ、月子はある意味観念し、芳子の行為を受け入れた。神田旭町に戻れば、また、自分の着物に着替えるか、などと思いながら……。