粉雪が舞う空港まで見送りに来てくれた祖母と両親に、新しい勤務先の病院も条件は悪くないし何とかやっていけるだろうと心配させない為の笑顔を浮かべた、リアム・フーバーと言う名の青年は機上の人になり、中東の空港を経由しての長時間フライトの最中も退屈しないように持ち込んだ本も全て読み終え、機内サービスの映画も何本も見てしまって退屈に身を委ねていたが、母国での一時休暇から戻り、また今日から生きていく国の空の玄関口である空港に飛行機が着陸した時、やっと長い両手両足を伸ばせると安堵する。
飛び立った空港では粉雪が舞っていたが、到着した空港は真夏の乾燥した空気に包まれていて、着ていた薄手のジャケットを脱ぎ、仕事か観光かはたまた帰国しただけかは分からないが、この先の楽しみを思い浮かべている顔で通路に並ぶ人達の波に紛れて地上の人になる。
ビジネスクラスかファーストクラスかは不明だが、彼が乗ってきたエコノミーではないことは確実な通路から観光客やビジネスマンらが降りてくる中、くすんだ金髪を首筋の上で一つに束ねた青いピアスを両耳に一つずつ填めた男に肩がぶつかりそうになる。
「Entschuldigung!」
「Kein problem!」
失礼と蒼い双眸に謝られ、片手を挙げて問題ありませんと返すと、どうやら相手は電話をしていたようで、スマホの向こうに人にぶつかりそうになっただけと話していたが、何でそんなことを言うんだよ、オーヴェの意地悪、トイフェルと立て続けに罵った為、悪魔と罵る電話相手はどんな相手だと気になるが、少し先でどこかで見たような気がする厳しい顔の男が振り返り、早く来いと声を挙げる横を擦り抜けて入国審査に向かう通路を進む。
「あ、カンガルーがコアラを背負ってるぬいぐるみがある」
「まだこれから仕事がある事を分かっているのか?」
これを買えば一目で何処に行って来たかが分かるお土産だと笑うさっきぶつかりそうになった男の言葉に、到着したばかりでもう土産の話かと呆れたように威厳のある男が溜息を零すのを背中で聴きながら入国審査の列に並ぶと、さほど混み合っていない為と慣れた行為でもあるからかすぐに手続きが終わり、来週から新たな病院で勤務する為に母国とは季節が逆転している国にまた帰ってきたと小さな感慨を込め、到着ゲートから晴れ渡る青空が眩しい外に出た彼は、人待ち顔のタクシードライバーを見つけてタクシーに乗り込むと、シドニー市内にあるホテルに向かってくれと告げるのだった。
手術室がいくつか連なる病棟のエレベーターから、まるでお気に入りのアーティストのライブに向かうような顔で一見するだけでは年齢が分かりにくい青年と、そんな彼とは対照的に顔を強張らせた青年が降りてくる。
「ハイ、ドクター、今から手術?」
「おはよう、ジーン。ああ、一仕事終わらせてくるよ」
古くからこの病院で働くスタッフが気軽に声を掛け、それに笑顔で頷いた青年は、隣で緊張を隠し切れない青年が、何故たかが掃除スタッフにあんなにも気軽に返事をするのかと問いかけたいのを堪える顔で見つめてきた事に気付き、足を止めて緊張する顔を真正面から見つめる。
「・・・・・・何故、たかがメンテナンススタッフに声を掛けるかって?」
「・・・yes」
「俺が挨拶をしたいからだな」
あれがもし病院長であっても理事長であっても、挨拶をしたくない時はしないかなと、なんでもない事のように肩を竦めると、手術室の扉が開くのを待つ。
「今日の患者は学生か」
早く病巣を取り去って元気になってほしいなと笑い、開いた扉の中に入ると、スタンバイが終わっていたらしいスタッフらが一斉に扉へと顔を向け、口々におはようと声を掛ける。
「今日もやるか」
緊張気味の青年とは対照的な気軽さでスタッフに合図を送り、手術の準備を終えた青年は、手術台で麻酔をかけられて眠っている患者の顔をちらりと確認すると目を閉じる。
「────良し」
「ドクター、今日の終わりは何をかけますか?」
最も集中しなければならないことが終わり、医師としては朝飯前の工程に進む際、気分の切り替えを図るのに音楽をかけることが多いが、今日は何を聞くと問われ、スタッフが自身の願望も込めて様々な曲名を口にする。
「どうしようかな」
気分はハードロックだと笑う青年がちらりと背後を振り返り、緊張の面持ちで見つめてくる後輩の医師に何が聞きたいと問いかけると、しどろもどろになりながら、もう解散しているが、イングランド出身のロックバンドの曲が好きと答えられ、色素の薄い双眸を瞬かせる。
「・・・兄弟の仲が悪くて解散したんだったか?」
「そ、それだけではないと思うけど・・・」
「ふぅん・・・誰か、アンディがお勧めしてくれたバンドの曲をあとで流してくれ」
手術室のスタッフに後輩がお勧めしてくれた曲を頼むと告げ、本人には肘で腕を軽く突いて感謝の気持ちを伝えると、目を閉じて深呼吸を三回繰り返し、手術台のすぐ側でいつも支えてくれているスタッフに顔を向けると、特に言葉を交わすこともなく定位置に立つ。
「お願いします、ドクター・ユズ」
女性スタッフのその声に青年、杠 慶一朗の顔から笑みが少し薄らぎ、双眸に剣呑さすら感じる光が浮かび、それを斜め後ろからアンディと呼ばれた後輩の医師が見守っているのだった。
執刀医であるドクター・ユズこと杠慶一朗が、同僚の医師達から羨望や嫉妬の眼差しを送られる要因を目の当たりにしたアンディは、手術で最も緊張を強いられる工程が終わり、後はどの医者でも出来る作業に掛かった時に手術室に大音量で流れ出したギターの音にとび上がってしまう。
「自分で勧めたんだろ、アンディ?」
その曲に驚いてどうするんだと笑いながら縫合をする慶一朗にアンディが突然聞こえたからと言い訳をするが、リズムを取るように爪先が床を叩き、縫合を進める手の動きも軽やかになるのに気付き、周囲を見回してみると、スタッフ達もそろそろ手術が終わりだと分かっている顔で己の作業の確認をし始める。
この病院でも有名な医師の執刀に立ち会える幸運に緊張していたアンディだったが、手術が終わりを迎えそうになった今、スタッフ達の間に少しの緊張の緩みが出たのか、来週から小児科に新しいドクターが来ると誰かが告げ、その話は聞いた、リアム・フーバーというそうだと別の誰かが返す。
「・・・ドイツ系?」
「名前からすればそうみたいですね」
縫合を難なく終えた慶一朗が疑問に感じたことを口にすると、皆が多分とだけ返した為か納得のいかない顔で肩を竦めるが、ドイツ系だったら兄貴の名前がノエルということはあり得ないかと笑い、皆が一瞬遅れた後に口々に笑い出す。
「兄弟の仲が悪かったりして?」
「可能性はあるだろうなぁ・・・。それにしても、なんてタイミングだろうな」
アンディが勧めてくれたバンドの中心メンバーである兄弟と、今話題になっている来週からやってくる小児科医のファーストネームが同じだなんてと肩を竦め、もっともリアムというファーストネームがウィリアムなどの省略形だったら話は別だと慶一朗が笑った時、アンディがリクエストした曲が終わりを迎える。
それに合わせてか慶一朗の手も動きが止まり、隣に立つスタッフに一言二言語りかけたかと思うと、アンディへと向き直り、終わったぞと満足そうな笑みを浮かべる。
「お疲れ様でした、ドクター」
「ああ、今回もありがとう」
スタッフの労いの言葉にありがとうと丁寧に返しつつアンディには顎で出て行く事を伝えた慶一朗は、手術室と廊下の間の部屋で汚れた手術着や手袋を脱ぎ捨てると、もたもたしている後輩に微苦笑し、今日は勉強になったかと問いかける。
「はい!」
ありがとうございましたと礼を言い、二人で肩を並べて廊下に出ると、手術室に入る前に言葉を交わしたメンテナンススタッフと出くわすが、今回は手をあげて笑みを浮かべるだけで特に言葉を交わすこともなく医局へと向かうのだった。
己の勤務先の病院の同僚となる人達に名前について話題にされていることなど想像もできなかったリアムは、ホテルに荷物を降ろしてシャワーを浴びて着替えを済ませると、引越し先のフラットの鍵をもらうためにオーナーと待ち合わせているカフェに向かう準備をする。
母国に一時帰国する前に住んでいたフラットはシドニー市内の為に勤務先には近かったが家賃が割高で、しかも次の勤務先はシドニー市内から交通機関を利用して小一時間程郊外にある為、前の部屋では通勤に不便だった。
その為、ドイツで羽を伸ばしている時にも時間を見つけては引越し先の家を探していたのだが、病院から車で三十分程の距離にある住宅街のフラットに空きがある事を知り、オーナーに連絡を取ったのだ。
実際に家を見ることが出来ずに不安だったが、オーナーが丁寧にビデオ通話で室内を見せてくれ、間取りも男の一人暮らしには勿体ない程だったが、前に比べれば家賃もさほど変わらない為、契約を結んだのだ。
その家の鍵をこれから貰いに行くのだが、高校入学と同時にオーストラリアに留学をしたリアムも訪れた事のない町で、待ち合わせのカフェと住所をスマホで確かめ、地下鉄に乗り込んで新しく生活を始める町へと出向く。
夏の平日の日中、よほどのことがない限りは家を出たくないと思える暑さの中電車は心地よい振動でシドニーの中心部から緑が多くなる郊外へと進んで行く。
規則正しい揺れに眠気を誘われて大きく欠伸をしたリアムだったが、斜め前のシートでぐずりそうになっている子供を発見し、ついつい大きな手を広げて意識を向けさせてしまう。
母親の肩に後ろ向きに抱かれているからか、子供の母親は気づいていないようだったが、リアムが大きな手を広げたり閉じたりを繰り返すうちに子供の興味が向いたのか、泣きそうになっていた顔にじわじわと笑みが浮かび、満面の笑みになるにはさほど時間は掛からなかった。
前の病院でも称賛された子供の機嫌を取る特技をここでも披露し、目的の駅にまだ着かないのかと車窓を見ると、赤いレンガの倉庫が通り過ぎ、車内アナウンスが目的の駅に近づいた事を教えてくれる。
座っているのも飽きたとドア付近のスペースに立つと程なくして駅のプラットフォームに電車が滑り込み、ドアが開いて早く降りろと促してくる。
ドアに急かされるように電車を降り、階段を登って線路を跨ぐ通路を大股で歩くと、住宅街の中の駅である事を教えるように周囲に大小様々な家が立ち並ぶのが見える。
この一画に引越し先の家があるはずだと思いつつブラブラと駅から待ち合わせのカフェへと向かったリアムは、その後運命の出会いを果たすことになるのだが、当然ながら当人にそんなことなどわかるはずも無く、今日も暑いな、ドイツでは雪が降っていたのにと、燦々と輝く太陽をサングラス越しに見上げて眩しいと当たり前のことを呟くのだった。
「・・・お疲れー、ケイ。今から遊びに行かないか?」
キラキラと目を輝かせる後輩に無言で肩を竦めた後、今日はもう帰るから後は別の同僚について仕事を覚えろと笑って手を振り、今日は朝一番の手術が終われば休暇を取る予定だった為に今日一日の仕事を終えた慶一朗は、同じく仕事を終えたらしい同僚が遊びに行かないかと誘ってきたことに気付き、ロッカールームの前で足を止める。
「今日は予定があるから無理だな」
せっかく誘ってくれたけど次回にしてくれないかと肩を竦めると、同僚の顔に一瞬だけ不満そうな色が浮かぶが、次は必ず遊びに行くぞと念押しされてしまい、勿論と誰からも信頼される笑顔で頷く。
「またな、ケイ!」
「ああ、また誘ってくれ」
誘いを断られても次への期待を持たせるような返事をし、ひらひらと同僚に手を振ってロッカールームに入った彼は、自身のロッカーを開けて溜息を一つ零すと、ロッカーのドアについている小さな鏡に一瞬だけ無表情な顔を映すが、その己と視線を合わせて疲れたと溜息をもう一つ。
職場で着ているジャケットから私服に着替えを済ませ、ロッカーを閉めて車のキーを指先に引っ掛けてくるりと回転させると、今日の午後と明日の休暇はどうする、行きつけの模型店に行くか、その店で知り合った同じ趣味を持つ人から教えられた店に行ってみようかと鼻歌交じりに廊下に出る。
先日完成させたジオラマにお気に入りの列車を走らせてみようか、それとも新たな風景を追加しようかと思案しつつ駐車場に停めてある愛車に乗り込みエンジンを掛けてアイドリングをしていると、身体の奥底に響く音からジオラマよりも本能的な何かに意識が向いてしまい、そういえば最近特定のパートナーがいないのと夜遊びも控えていた為、暇を持て余している可能性がある友人の名前を脳裏に浮かべるが、どうしようかとステアリングを意味もなく指先で撫でてしまう。
空腹を感じているし、自宅に戻った所で食べるものなどほぼないのだからどこかで食料品を調達しなければならず、それも面倒くさいからカフェかお気に入りのベーカリーで食べて帰っても良いかと天井を見上げた時、カーナビがスマホの着信を伝え、短く返事をするとスピーカーから見聞きする事の少ない日本語が聞こえてくる。
『今大丈夫か?』
「勿論、大丈夫」
スピーカーから聞こえてきた声はぶっきら棒なものだったが、彼にとっては当たり前のもので、電話相手に何か問題でもあったのかとの問いを返すこともなく大丈夫と返すと、フランクフルトで模型を買ったから家に送った、そろそろ届くはずだからと教えられ、無意識のうちに顔がにやついてしまう。
「何を買ってくれたんだ?」
『インターシティーのロゴとツバメのイラストが入っていたかな?』
はっきりとは忘れたから届いたら開けてみてくれ、同じものを持っていたら売るなりなんなり好きにして良いと、意識していない己の声と同じそれに苦笑気味に教えられて見えない相手に満面の笑みを浮かべてしまう。
『…嬉しそうだな』
「嬉しいに決まってるだろ?」
この電話で疲れや面倒臭さが全部吹っ飛んだ、本当に嬉しい、ああ、ありがとうと相手限定の素直な言葉を返した彼だったが、咳払いを一つしたあと、うんと頷いてステアリングに額を軽く押し当てる。
「…Danke,mein Bruder.」
『Bitte.』
日本で生まれ育ち大学の進学時にこの国に来た彼だったが、彼を育てた祖父母の影響か、心を激しく揺さぶられるような時に自然と出てくるのは中学に入るまでは何の疑問を持つこともなく使用していたドイツ語で、今も自然とドイツ語で礼を言うと、彼の癖をよく知る双子の兄も同じ言語で返してくれる。
遠く離れていても決して切れることのない兄弟の絆を無意識に感じつつ、本当に嬉しい、何かこちらの欲しいものはないかと口早に問いかけると、宇宙を飛んでいる望遠鏡の仕事の成果が見たいと言われ、分かったとだけ返した彼は、お前の恋人にも何か買って送るから有効活用しろと笑いかけると、フッと小さな満足そうな笑い声がスピーカーから聞こえ、兄の喜ぶ顔を脳裏に思い浮かべるとつられて笑みが深くなる。
『今日はもう仕事は終わったのか?』
「ああ。今日はジョーイの店に行くつもりだったけど、家でゆっくりしようかな」
お前からのプレゼントを心待ちにしていると笑い、小さく欠伸をした彼は、そろそろ帰ると告げてステアリングを一つノックする。
『気を付けて帰れよ、ケイ』
「Danke.お前は仕事だろ? 頑張って働いてこいよ、総一朗」
互いに相手を気遣う言葉をかけて通話を終えた彼は、近いうちに届く己の幸福の一端を担ってくれる贈り物を脳裏に思い浮かべ、早く届けと鼻歌を歌いそうになる。
ダンケ、総一朗とプレゼントを贈ってくれた兄にもう一度礼を言った慶一朗は、浮かれ気分でアクセルを踏み、カーナビに急発進をするなと注意をされてしまうが、プレゼントが嬉しすぎてその声も耳に入らなかったものの、家に食べるものがないことだけは思い出し、自宅近くのお気に入りのベーカリーに立ち寄るかカフェで何か食べて帰ろうと今度は抑えきれずに鼻歌を歌いながら病院の敷地から道路へと愛車を走らせるのだった。
オーナーから鍵を受け取り、本来なら部屋を案内してもらえる予定だったが、何やら急用が入った為、もう契約は済んでいるから自由にしてくれて良い、何か連絡があればメールでもくれと、慌てながら謝罪をされてしまったリアムは、テーブルの上にポツンと乗っている家の鍵とガレージへのゲートを開ける為のリモコンキーを見下ろすが、呆然としていても仕方がないと肩を竦めて気分を切り替えると、その二つをジャケットのポケットに入れ、カフェを出て店の前のアーケード越しの太陽に眩しいと文句を言いそうになる。
だが太陽に文句を言っても仕方がないと再度気分を切り替えると、教えられた家への道とは逆方向へと歩き出す。
リアムが向かった先にはカフェの店員がお勧めしてくれた美味しいパン屋さんがあるらしく、明日のパンを買って帰っても良いし、何なら今夜ホテルで食べる為に買って帰っても良いと期待に胸を膨らませ、反対側の通りにあるベーカリーを発見し、信号が変わるのを待つ。
その時、ベーカリーの前に止まっていた赤いスポーツタイプのセダンに気付き、何と無く視線を流してしまう。
ひと目見ただけでメーカーが判別できる程車に詳しくないが、大切に乗っていることが分かるボディの綺麗さに一瞬見惚れ、その運転席で何やら楽しげな顔で口を開閉させている男の横顔に気付いて何となく見つめてしまう。
窓越しだからはっきりとは分からないが、整った横顔と浮かぶ笑顔が印象的で、ステアリングをなぞる指先が男にしてはやけに綺麗との印象も脳裏に刻まれる。
重い物など持ったことがないのではと質問したくなるような繊細な手と、まるで子供のような笑みを浮かべる顔に目が惹きつけられるが、信号が変わったことに気付いて慌てて渡り切ると、お昼時だからか色々な種類のパンが売られているさして広くはない店内に入り、ぐるりと店内を見回す。
「こんにちは、今日も暑いね」
「ああ、こんにちは。暑いな」
美味しそうなパンが沢山ある、これから毎日のパンには困らないなと、自然と浮かぶ笑顔で素直な思いを伝えると、出迎えてくれた女性が目を丸くする。
「ここは初めて?」
「ああ、そうなんだ。引っ越して来たばかりなんだ」
だから今どんな店があるのか探していたんだが、ここのベーカリーを見つけられたのは幸運だったと笑い、バゲットを二本と手作りらしきジャムのボトルを一つと注文する。
「ありがとうね」
パンの味を気に入って買いに来てくれると嬉しいと笑う女性に笑顔で頷いたリアムは、バゲットが入っている紙袋を小脇に抱えて踵を返すが、不意に視界の下半分に明るい茶色の髪が見え、入って来た人にぶつかりそうになったことに気付いて片手を上げて失礼とぶつかりかけたことを詫びる。
「大丈夫ですよ」
何とか正面衝突を避けられた頭半分ほど低い位置にある顔を見下ろせば、ついさっき己が見惚れてしまった端正な顔の男で、申し訳ないと詫びれば、何も問題はないとその顔に小さな笑みが浮かぶが、その笑みが、先程車内で見た子供のようなものとは掛け離れた不自然なもののように思え、軽く驚いて目を見張ってしまう。
さっき見た笑顔は一体なんだったのか。
己が仕事で接する機会が多い子供達、その彼らに負けないような笑顔だったのにと思いつつ心なしか呆然としていると、何かまだ言いたいことがあるのかと言わんばかりの目で見つめられ、何でもないと思わず口走ってしまう。
「は?」
「ああ、いえ、失礼」
重ね重ね失礼なことをと、後で振り返ればどうしてあんなにもパニックになったのか不思議に思ってしまうほど慌てながら咄嗟にドイツ語で失礼しましたと呟いてしまう。
「どういたしまして」
ドイツ語の呟きに一瞬相手も呆然としたようだったが、クスリと小さく笑みを浮かべた後、唇が綺麗な形を描いてどういたしましてとドイツ語で返してくる。
まさかここでドイツ語を耳にするなんてと思うが、これ以上不審がられるのも避けたい為、顔に熱を感じつつ店を出て行く。
その背中に、女性のありがとうねという声と、微苦笑混じりに店員にホットサンドを作ってくれと注文する声が届き、ホットサンドもあるのかと、楽しみが増えた事に気付きながら店の前に停車している赤いセダンを横目に、新しく住む家に向けて歩き出すのだった。
新しい家の間取りはオーナーがビデオチャットで見せてくれていた為にある程度は理解していたが、外観は所謂オールダースタイルと呼ばれる形式で、建物の中央に階段があり、その階段から左右に廊下が伸びていて、それぞれ左右に二つのドアがあった為、この建物全体で家は四軒あるだけだった。
地上階はシャッター付きのガレージで、玄関は階段を登った1階にあり、室内を一通り見て回って満足したリアムは、友人に連絡を取り、市内のホテルに戻ってその友人に預けてある家財道具をここに運ぶ算段をするべきか思案しつつ玄関の鍵を掛けドアの外にあるの鉄のフェンスの鍵も閉めた時、ポケットのスマホが着信を教える音楽を流した為、肩と頬でスマホを挟んで返事をする。
「ハロー」
『リアムか? さっき電話をくれたってことはもうシドニーに帰ってきたのか?』
「ああ、今日帰ってきた。今引っ越し先の家にいる」
玄関先で通話をしているリアムの耳には入らなかったが、階段を登る足音が聞こえたかと思うと、左の耳に友人の英語が、右の耳に微苦笑混じりのドイツ語が聞こえてきて驚きに顔を振り向ける。
「失礼、通してもらってもいいかな?」
そのドイツ語はネイティブのリアムですらも流暢と思えるもので、己が玄関先で立ち尽くしている事で通れないと暗に伝えられて目を見張り、ああ、失礼したと詫びつつ身を引く。
「さっきもだが、ありがとう」
「ど、ういたしまして」
リアムの前を通り過ぎたのは、少し前にベーカリーで正面衝突しそうになった綺麗な顔立ちの男で、驚きつつ彼の行動を見つめていると、ポケットから鍵を取り出してグリーンの鉄製のフェンスと玄関の鍵を慣れた手付きで開ける。
その事から、彼が己の隣のフラットの住人であることに気付いたリアムは、友人の訝るような声に返事することも出来ずにただ呆然としてしまう。
「・・・もしかして、隣に引っ越しを?」
「え? え、ええ、隣に引っ越してきたフーバーです」
どうぞ宜しくと、驚きとそれ以外の今は名付けられない感情に呆然としつつ返事をして名乗ったリアムは、フェンスの取っ手を掴んだまま軽く目を見張り、フーバーと口の中で小さく己の名を呟く彼の手がやはり男にしては細く綺麗な事に目を奪われ、杠ですと名乗られた事に気付けなかった。
「・・・あ、失礼しました」
「さっきベーカリーで会った時もだったけど、失礼しましたと言ってばかりだな」
何故こんなにも慌てふためき日頃の冷静さを失ってしまうのかが理解出来ず、些か情け無い顔で頭に手をあてがうと、端正な顔に小さな笑みが浮かび、Herr・Entschuldigungと笑われて思わず顔を赤らめてしまう。
「鍵はしっかりとかけた方がいいですよ」
治安はそこそこ良いものの何があるか分からないからと笑って手を振り、ドアを開けて中に入っていく背中を見送ったリアムは、友人が若干キレ気味に返事をしろ、バカリアムと怒鳴るのをどこか遠い世界の事のように聞いているのだった。
これが、リアム・フーバーと杠慶一朗の出会いで、初めての出会いを人に聞かれる度にリアムが不審者だとからかわれる事になるのだが、二人で思い出話に花を咲かせる時には慶一朗がHerr・Entschuldigungとからかい、赤面したリアムに睨まれるのだった。
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