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リアムが、新しい勤務先の病院の今日から同僚になる人たちに自己紹介をし、半数の大歓迎と半数の胡乱な目でそれなりに歓迎された事を知ったのは、月曜日の朝一番だった。
大歓迎の目は恐らくはパートナーを探しているシングルの男女で、胡乱な目はリアムの鍛えられている肉体に対するものだった。
身体を鍛えているからと言って暴力的な訳でも無ければ何かあればすぐに腕力で解決するような筋肉バカでもないが、良く知らない間は大体いつも同じ様な事を思われている為、気にすることなく宜しくと絵に描いたような白い歯を見せると、歯医者のCMに出れるんじゃないかと、好意とやっかみ半々の声が掛かり、それも悪くないと笑って周囲に苦笑の輪を広げる。
嫌味をぶつけられても受け流せる様になったのは最近だが、そのスキルが今も役に立った様で、嫌味を言った人間がバツの悪そうな顔で視線を逸らせた為、全く気にする素振りを見せずに大股に踏み出してその手を握ると、慌てながらも握手を返してくれる同僚によろしくと伝える。
敵になるかもしれない存在に自ら近付き、その可能性を潰したリアムは、今週末に小児科のスタッフ達と飲み会に行くが参加しないかと、嫌味をぶつけて来た同じ医師から誘われ、少し考え込んだフリをした後、小さく笑みを浮かべて少しだけなら参加すると答える。
「リアムが参加するそうだ」
「やった」
「楽しみだわ」
朝のミーティングが終わった為にそれぞれが己の持ち場へと向かう背中に、その医師―名前をジュリアン・ハードスタッフと言い、ああ、色々な意味でハードなんだろうとリアムが胸中で苦笑するが、嫌味を躱されたことで内に飛び込もうと決めたのか、親しげに肩に手を乗せて来た事も笑顔で受け入れ、その飲み会が楽しみだと笑って今日から己が働く病棟に看護師とともに向かう為、ミーティングをしていた部屋から出て行くのだった。
午前中は病棟の患者ではなく外来に受診で来ていた子供達を泣き止ませながら診察していたリアムだったが、ランチタイムになり、看護師から良かったら一緒に食べないかと誘われたのを、持って来ているし天気がいいから裏庭で食べると誘いを断って裏庭に出る。
朝一番に作った今日のランチはチキンのハーブ焼きと葉物野菜を挟んだサンドイッチで、それを病院の裏庭のベンチで食べていると、午後から一緒に病棟を回る事になっている看護師が探していたと姿を見せる。
「ああ、悪いね、ここでランチを食べていた」
「ランチって・・・もしかして家で作ってきたんですか、先生?」
リアムの横にはリアムの体格からすれば小さ過ぎるほどのランチボックスがあり、一日一食は自炊をしないと落ち着かないと笑ってそれを袋に無造作にしまう。
「良いんじゃないですか、自炊も」
ここの食堂も悪くはないけれど、自炊できるのであればそれが一番だと、リアムの両親と変わらない年頃に見える看護師の言葉に素直に頷き、身体を鍛えることと自炊が趣味かもしれないなぁと呑気に晴れ渡る青空を見上げる。
「午後からはエミリアの診察をお願いします」
「・・・ああ、分かった。後でカルテに目を通しておくよ」
ありがとう、午後からもよろしくと看護師に笑顔で手を出すと、軽く驚きながらもその手をしっかりと握り返し、よろしくと踵を返す。
確か脳に腫瘍がある少女で、近いうちに手術があるはずと軽く聞かされた事を思い出しつつ、ランチに持ってきたサンドイッチの具について、明日はチキンではなくエビやアボカドにしようかと思案し、後ろ手で身体を支えつつ再度青空を振り仰いで眩しそうに目を細めるのだった。
そのリアムの姿を、裏庭を囲むように建っている病棟の二階からじっと見下ろす姿があったが、周囲に特に気を配っていないリアムがそれに気づくはずも無く、ただ今週末の飲み会について参加するものの楽しめるか、楽しむためには同僚達の誰と仲良くなっていれば良いかと思案するのだった。
昼の休憩が終わり、看護師―名前はジャスミンーと一緒にリアムが向かったのは、様々な理由から入院を余儀なくされている子供達のいる病棟で、愛する家族と離れていたり、中々思う様に面会ができなかったりと子供達の寂しい思いを少しでも紛らわせようとスタッフ達が壁にキャラクターの絵を描いたり、ぬいぐるみの友達がお見舞いにきた事を教える様に、ドアの窓枠にぬいぐるみを貼り付けたりと、色々気持ちを紛らわせる努力をしていた。
そんな努力の中にこの病院が積極的に取り入れているクリニクラウンの活動があり、定期的に小児病棟を訪れては、赤い大きな鼻をつけたクラウンーいわゆるピエロー達が患者である子供達だけではなくその家族やケアをするスタッフ達の心を和ませていた。
その訪れが間も無くある事をスタッフから聞かされたリアムは、以前から興味はあったが直接見聞きしたことがない小児病棟専門のクラウンの活動を見てみたいなと呟き、タイミングが合えば見れますよと頷かれて確かにそうだと笑い返し、一つのドアの前で足を止める。
この病室に入院しているのは5歳になるエミリアという女の子で、脳に小さなものだが放置できない腫瘍があり、明日それの摘出手術を行う事になっているのだ。
その子供の診察を前の担当医から引き継いだリアムは、初めて診察する子供がどの様な状態かを見るために病室に顔を出したのだが、ベッドの上で痛みや不快からくる不機嫌さを隠さないでシーツに包まる小さな身体が見え、ああと無意識に呟いてしまう。
そこにいるのは、時を遡ることが出来れば真っ先に顔を見せて励ましてやりたいと思っている子供と同じ顔をした子供で、不機嫌さに疲れを滲ませている母親に軽く会釈をして担当を引き継いだフーバーだと名乗ると、小ざっぱりとしたシャツの下に隠れている筋肉に気付いたらしい母親が一瞬目を見開くが、よろしくお願いしますと会釈を返してくれる。
「・・・エミリア? こんにちは」
柵が設けられているベッドの横のパイプ椅子に失礼と断りを入れて腰を下ろし、シーツの隙間から見つめてくる青い双眸に気付いたリアムは、前かがみになって可能な限り目線の高さを合わせると、こんにちはとゆっくりともう一度挨拶をする。
「・・・こんにちは」
「おー、今の気分はどうだ?」
良いかそれとも最低最悪かと問いかけるリアムを不思議そうに見下ろした母親と看護師が顔を見合わせ、前の担当とは違うタイプの医者なのかと互いの顔に同じ思いを見出してしまう。
「・・・最悪」
「そうか、最悪か。頭が痛いからか?」
「うん・・・頭痛いの。いや」
腫瘍が原因の頭痛が酷いと、涙を滲ませながら呟く子供の小さな手に大きな手をそっと重ねたリアムは、エミリアが顔を上げた事に気付き、特技と称された笑みを浮かべながら子供の手を太い指で撫でる。
「そうか、嫌だな。でもそれも明日になればきっと終わる」
明日の手術で頭を痛くしている病気はなくなると、明日の手術について少しだけ聞かされていた事を思い出しながら軽く目を伏せた後、恐怖に見開かれる目を真っ直ぐに見つめながら大丈夫と頷く。
「明日の執刀医は・・・ドクター・ユズ? だったっけ?」
母親の横で呆気に取られながら見つめていたジャスミンを振り仰いだリアムは、ユズなんて変わった名前のドクターだと笑いつつ、まだここにきて半日も経過していないが、信頼できるドクターだとの噂をいくつも聞いたから大丈夫だと頷き、今度は母親を振り仰いだかと思うと、エミリアをハグしても良いかと問いかけ、驚きと戸惑いを隠さない母親にもう一度いいかと問いかけて緊張気味に頷かれる。
頭痛がすると本人も言っていたが、体の辛さを幼いエミリアが表現するとなると、大人ほど言葉で表せるはずも無く、どうしても泣いて訴えるか不機嫌になるしかなかった。
入院中の娘の様子に心を痛めつつもどうすることもできなかった母は、不機嫌になるエミリアにかなり手を焼いていたのだ。
前の担当医も診察の度に不機嫌になるエミリアに手を焼いていたようで、診察が出来ない事を看護師に小さな声で愚痴っている程で、そんな医者の態度も母親にとっては疲労を積み重ねる原因になっていた。
だからその不安からどうぞと促した母にリアムが嬉しそうに笑みを浮かべて頷く。
「どうぞ」
「ありがとう」
礼を言いつつ立ち上がり、エミリアの顔を見下ろしながら再度手を撫でると、彼女が不安を感じつつもじっと見上げて来た為、ハグして良いかと問いかける。
「・・・うん」
エミリアのその返事に驚いたのは母親とジャスミンで、そうか、良いか、ありがとうと嬉しそうに頷いたリアムの大きな手がエミリアの手から繋がる点滴の管に注意しつつ軽々と抱き上げたかと思うと、不安そうに見つめる彼女の頬に頬を触れ合わせる。
「・・・くすぐったい」
「そうか?」
「うん。パパみたい」
エミリアの小さな声に母が最も驚き、無意識にジャスミンの腕を掴んでしまうが、パパは明日来てくれるんだろうと問いかけ、うんと頷く小さな頭を撫でたくなるが、頭痛があると言っていた事を思い出し、指の背で頬を撫でる。
「明日の手術、頑張れるか?」
「・・・こわい」
「怖いなぁ。でも、明日になれば頭の痛みは消える」
だから頑張れるだろうと目を覗き込みながら問いかけると不安が少しだけ和らぐが、それでもまだまだ恐怖の色は消えていないようで、エミリアのベッドにアニメの主役であるプリンセスやキャラクターのぬいぐるみや絵本があることに気付き、エミリアはプリンセスが好きかと問いかける。
「うん。好き」
「エミリアはプリンセスになりたい?」
その問いに女性二人が顔を見合わせ、一体何を思っての言葉かと様子を見守っていると、パパがプリンセスと呼んでくれるとエミリアが初めて笑みを浮かべ、リアムも釣られたように笑顔になる。
その笑顔は幼い彼女が答えてくれたことが嬉しいと思っている、ただそれだけのもののように思え、小児科医として若いながらも優秀だと評されているリアム自身が子供のように見えてしまう。
子供みたいな笑顔とよく言うそれを目の当たりにしたジャスミンとエミリアの母が顔を見合わせるが、その時、そっとドアが開いて人が入って来たことに気付かなかった。
二人が気付かなかった為か、エミリアとプリンセスの話題で盛り上がっていたリアムも当然ながら気付くことはなく、静かに入って来た人物がジャスミンの肩を軽く叩いて合図を送り、彼女が突然のそれに飛び上がりそうになる。
「静かに」
振り返ったジャスミンが見たのは、明日エミリアの手術の執刀医であるドクター・ユズこと杠慶一朗の穏やかな笑顔で、唇に立てた人差し指を軽く押し当てながら片目を閉じ、今日から勤務することになった小児科医とその患者の会話に耳を傾ける。
「エミリアはプリンセスかー。プリンセスっていろんな事を頑張っているのは知っているか?」
好きなプリンセスが出てくるアニメでも必ず誰かに辛い目に遭わされたりしているが、それにも負ける事なく彼女達は立ち向かっている、実は王子様達よりもずっとずっと勇敢で勇気のある女性達だと告げると、エミリアが目を丸くする。
「そうなの?」
「そうなんだ。本当は王子様の力なんて借りなくても自分の力で立ち上がれるんだ」
プリンセス達は本当に強い、エミリアもパパからプリンセスと呼ばれているのは、可愛くて強くて優しいからだと笑い、エミリアをボールか何かを扱うような気軽さで頭上に抱き上げると、驚いた顔で見下ろしてくる幼女に似たような笑みを見せる。
「プリンセス・エミリア、きみは優しくて勇敢な人だ。だから明日の手術も頑張れる。それに、きみにはずっといつもそばにいてくれるママがいる」
ここだけの話、ママも実はプリンセスなんだ、だからエミリアが頑張るのを応援してくれているんだと、エミリアを肩に座らせてくるりと振り返ったリアムだったが、そこに三人目の人物の姿を発見し、それが引越し先の隣の住人であり、ベーカリーで正面衝突しかけた青年であることに気付くと、思わずエミリアを落としそうになって慌ててしっかりと両腕で抱きしめる。
「え、な、ど、うしてここに・・・!?」
「・・・さて、どうしてでしょうか、Herr・Entschuldigung?」
初めて出会ったベーカリーでの事、その後引越し先を見に来たリアムがその家の玄関先で再会し、通行の邪魔になっている事を詫びた時、謝ってばかりだなと揶揄う言葉を笑み交じりに告げられた事を思い出し、それは言わないでくれと顔に熱を感じつつ呟くと、それは悪かったと意外なほどあっさりとリアムの願いを叶えるように頷き、リアムの腕の中で驚きながらも何かいつもと違う表情を浮かべるエミリアの顔を覗き込む。
「ハロゥ、リトル・プリンセス。ご機嫌はいかが?」
リアムの疑問には答えずにエミリアに笑いかけた慶一朗は、いつもならば不機嫌そうに頷くだけか顔を背けるだけの少女が、不安を感じつつも頷き、頭が痛いのと呟いた事に色素の薄い双眸を見開くが、ちらりとリアムを見上げた後、そうかと頷いて彼女の頬を撫でる。
「そうか。明日になればその痛みも消える────俺が消してあげる。だから明日エミリアも俺と一緒に頑張ろう」
その言葉に手術に不安と恐怖を感じていた少女が頷き、己の選択が間違っていない事を確かめようとリアムの顔をみると、ヘイゼルの双眸を限界まで見開き、口を開閉させながら驚くリアムがいて、その顔にビクッとしたエミリアが助けを求めるように母親に手を伸ばす。
「ママ・・・っ!」
間近で驚愕する男の顔などあまり見たことがない少女にとってはただ恐怖を感じるようなものだったのか、母親の腕の中に移動すると、リアムの顔を確かめるように振り返る。
「・・・え、きみ、が、ドクター・ユズ?」
「Yes.杠と呼びにくいだろう? だから省略してユズと皆が呼んでいる」
己の名前の呼びにくさについては理解しているつもりだと苦笑する慶一朗にリアムがふぅと溜息を零した後、なんだそうなのかと頭に手を当てて破顔一笑。
その笑顔に今度は慶一朗が目を見張ってしまうが、そんな彼の様子には気付かなかったのか、リアムがその笑顔のままエミリアに良かったな、ドクター・ユズが約束してくれたぞ、明日の手術を頑張れるなと何度も頷き、徐々に顔色を明るくする少女の頬をもう一度指の背で撫でると、言葉とスキンシップで小さなプリンセスを励まして部屋を出て行こうとする。
「・・・明日、エミリアの手術に立ち会うか?」
病室を出て行こうとする大きな背中に振り返りつつ呼びかけた慶一朗は、内心なぜその言葉を掛けたのかを疑問に感じつつも、出してしまった言葉は取り返せないとの想いから、どうすると振り返った顔に問いかける。
「良いのか?」
「もちろん。エミリアの家族とドクター・フーバーさえ良ければ?」
こちらとしては誰がそばにいようがいつも通りの手術をするだけだと肩を竦めると、一瞬で娘の不機嫌さを頑張りに転化させたリアムを信頼の目で見つめた母親が何度も頷き、それを見たリアムが嬉しそうに口の端を持ち上げれば慶一朗が一瞬息を飲むが、それは無意識の行為で、何を意味するものなのかも理解出来ないものだった。
「それは嬉しいな。・・・ジャスミン、明日の予定はどうだろうか」
まだ今日ここに来たばかりで診察の流れなど把握していないが、エミリアの手術に立ち会うことは可能だろうかと、長年働いている看護師であるジャスミンに問いかけると、大丈夫だと思うが最終確認は後でしますと慌てながら返されて微苦笑交じりによろしくと頼み、明日の手術に立ち会う事がほぼ決定するのだった。
いつもより少しだけ何かが違う心でエミリアの手術に臨んだドクター・ユズこと、杠慶一朗は、手術に集中しつつも何故そんな気持ちになるのかに、脳味噌の思考回路の一部を提供していた。
何をどう考えようとも思い当たるのは昨日彼女の病室で見た、隣に引っ越して来た同僚のリアム・フーバーの笑顔だった。
あの時慶一朗が見た笑顔は、抱き上げている少女と同等のもののように感じ、今まで生きて来た中で子供のような笑顔と称されるそれに相応しいものを浮かべられる人に出会ったのは片手で足りるほどで、その中に隣の小児科医も入った事に気付く。
前の病院での評判は悪いものではなく、技術や地位を高めたいからと野心丸出しでこの病院に転職して来たわけでもなさそうだったが、慶一朗の職業繋がりで耳にした噂は、怒ったところを殆ど見たことがない心優しいマッチョマンという、褒めているのか貶しているのか微妙な評判だった。
隣に引っ越して来たマッチョマンは、子供相手を苦にすることもなく出来る力量の持ち主のようで、いつもほとんど言葉を交わすことができなかったエミリアとも当たり前のように言葉を交わし、あまつさえ彼女の笑顔も引き出していたほどだった。
それを目の当たりにした慶一朗は、彼女と手術を一緒に頑張ろうと励ましつつも内心には驚きと関心が溢れていたのだ。
その心が滲み出した結果が手術の見学をするかとの言葉で、嬉しそうに頷かれてはしまったと思っても取り消すことができなかった。
今、邪魔にならない場所で恐るべき集中力を発揮している顔で慶一朗の手元を映し出すモニターを見つめているリアムへと少しだけ視線を向けた慶一朗は、今あの脳味噌を覗いてみたら何が見えるのか、感情や記憶など人の思考や行動を司る部分のどこが一番反応しているのかを知りたくなり、我に返って意識を手元に集中させる。
人に話せば必ず同情されるか疑われるようなある意味劣悪な家庭環境で育った慶一朗が医師になる事を決意したのは、その環境から救い出してくれた双子の兄に将来のことを問われて何となく返した為だったが、その兄と今までとの暮らしと天と地ほどの開きもある暮らしをする中でその思いは徐々に固まり、中高一貫教育の学校で進路相談の際に、医者になる事を教師や兄に宣言した事で己がその道以外へ進む未来が消滅したのだ。
英語の教師がオーストラリア出身で、中学に入るまで当たり前のように使っていたドイツ語にも近い為、医者になる為にオーストラリアに留学したい事を兄に告げ、詳しい話は聞かせて貰えなかったが、高校の卒業と同時にオーストラリアに留学でき、以降ここで脳神経外科医として生きて来たのだ。
その中で様々な人と出会い別れを経験して来たが、リアムのような存在は今まで付き合ったことがなく、俄然興味が湧いた慶一朗が浮かれ気味に一つ口笛を吹く。
「ドクター?」
「・・・何でもない」
訝る目で見つめられて少しばかりバツが悪くなった慶一朗が一つ肩を竦め、さて、ラストスパートだと口にすると、周囲のスタッフ達もあと少しだけ集中する事とその終わりが見えて来た安堵に口々に返事をするのだった。
そして、緊張と集中の後のある意味弛緩する時間、事故等も発生しやすいから気分転換も兼ねて音楽を聴くことが慶一朗のやり方だったが、今日は先日同じように見学していた後輩のように緊張でガチガチになることもなく、落ち着き払った様子でモニターを見つめていたリアムを振り返った慶一朗は、何か聞きたい音楽は無いかと問いかけ、少し考え込んだ後に、プリンセスが出てくる有名なアニメの曲がいいと返されて手を止めてしまう。
「・・・アニメ? ドクター・フーバーが好きなのか?」
「いや、エミリアが好きなアニメだ」
アニメの曲をかけてくれというリクエストは初めてで、いつも慶一朗の気分でハードロックやヘヴィメタルなど腹の底に響くような曲をかける為、ストックがあるかとスタッフを見れば、何とかなりますと苦笑される。
「・・・麻酔で聞こえていないだろうけど、手術を頑張ったエミリアの為に掛けて欲しい」
こんな小さな身体で病と必死に戦い、今まさに勝利を収めようとしている少女の為にリアム自身見たことのないアニメの曲を何故と、慶一朗の顔に好奇心からの疑問が浮かぶが、肩を竦めつつ何でもないことのように答えられ、ああ、人のために何かが出来る男なんだなという言葉がすとんと胸の中へ落ちてくる。
行動の根幹に人への優しさ、思いがある人だとも気づいた慶一朗の目元に淡い笑みが浮かび、それを目撃したリアムが呆然としてしまうが、慶一朗が口笛をマスクの下で軽く吹くと同時に心やさしきマッチョマンが希望した曲が流れ出す。
「────見たことがない世界、か」
手術への恐怖に立ち向かったリトル・プリンセスに相応しいご褒美だなと笑い、いつもとは少し違った心持ちで手術を終えた慶一朗は、この時のこの曲がリアムと自分にとっても見たことがない世界への扉になる事に気付けず、ただたまにはアニメも悪くないなと満足そうにリアムを見て頷いただけだった。
手術の手際の良さ、鮮やかさにただただ感心していたリアムは、最後に気分転換のために音楽をかけることを教えられ、エミリアの為にとアニメの曲を依頼したのだが、まさか車内で見たあの笑顔に近しいものが見れるとは思わず、目を擦りたくなるのを我慢して何度も瞬きを繰り返す。
その瞬きに合わせるように鼓動も早くなり、一体どうした、何があったと自問するが、明確な答えは返ってこず、マスクで顔半分を覆った為に無様な表情を見せずに済むと胸をなでおろすが、満足そうな溜息を零しながら手術が終わり、あとはスタッフに任せたと告げて近づいてくる慶一朗に気付いて小首を傾げる。
「終わったな」
「昨日一日ドクター・ユズの噂を聞いていたが、その通りだったな」
尊敬すると、素直にその言葉通りの目で慶一朗をまっすぐに見つめたリアムに少しだけ目を左右に泳がせた慶一朗だったが、他の誰かに褒められた時よりも言葉の裏を探っていない己に気づき、また一つリアム・フーバーという男に興味を持つ。
「どんな噂がきみの耳に入っていたのか気になるな」
だから、きみが良ければ今日の仕事終わりに食事でもどうだと、手術後の慶一朗にしては珍しくリアムを食事に誘い、隣に引っ越して来たお近付きも兼ねてとも伝えると、リアムの短く整えられているハニーブロンドの頭が何度か上下し、もちろんという言葉が流れ出す。
「良かった。仕事が終われば車で待っている。食事が楽しみだなんて久しぶりで嬉しいよ、隣のマッチョマン」
「マッチョマンって・・・おかしなあだ名を付けないでほしいな」
俺の車はもう知っているだろうとも笑う慶一朗に困惑気味に上目遣いになるが、それでも不愉快な気持ちにはならなかった為に頷いたリアムは、この後エミリアの両親に術後の説明をしなければならないから一緒に行こうと腰に拳を軽くぶつけられ、昨日他の同僚に親しげに肩に手を乗せられた時とはまた違う気持ちでそれを受け止めるのだった。
家が隣同士だけではなく職場も同じ病院だった二人は、この日から急速に仲が良くなりーそこには互いに対する仕事へのリスペクトがあったー、リアムが広い病院内で迷子になることもなくなる頃には、小児科と脳神経外科という科の違いを超えた友人として二人の仲が周囲に認知されるのだった。