テラーノベル
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夜。日下部の家は静かだった。テレビの音も、音楽もない。
台所には食器が二人分、無言のまま重ねられている。
遥はソファに背を預け、丸くなって座っていた。
腕にはいくつかの薄青い痣、脚の内側には擦れた痕。
それらが皮膚の奥に沈んでいくのを感じながら、息を止めていた。
誰も何も言わない。
日下部は隣の部屋で何かしているらしく、遥の視界には入ってこない。
そのことが、妙に不安だった。
──今、何してるんだろ。
──怒ってるのか。呆れてるのか。
──それとも、もうオレのことなんて……?
考えないようにしても、思考は勝手に巡る。
頭の中でぐるぐると、空白が音を立てて増殖していく。
何もされないことが、恐ろしかった。
誰にも触れられず、怒られず、命令もされない。
朝も昼も夜も、“誰かの手”が自分を支配していた。
痛みでも、怒鳴り声でも、蹴りでも──それが、輪郭だった。
それがないと、自分の形がわからなかった。
「……気持ち悪ぃな」
遥はぽつりと呟いた。
自分の声が他人のもののようだった。
「オレ、マジで壊れてんのか……?」
その言葉も、壁に吸い込まれて返ってこなかった。
無音。無人。無視。
こんなの──
「こんなの、一番きついだろ……ッ」
声が震えた。
嗚咽ではなく、怒りでもなく。
ただ、泣きそうになるのを、必死に唇で食い止めていた。
そのとき、不意に廊下で音がした。
遥はびくりと肩を揺らす。
ゆっくりと開いたドアの向こうから、日下部が入ってきた。
何も言わない。
ただ、遥の顔をちらりと見て、少しだけ眉を動かした。
「……なんか、食うか?」
「いらねぇよ……」
即答だった。
そう返した自分の声に、自分で苛立つ。
“そう言うしかない”とでも言うように。
日下部は頷きもせず、部屋の隅に腰を下ろした。
一定の距離を保ったまま、何も言わない。
その沈黙が、遥には異様に耐えがたかった。
「なあ」
遥がぽつりと口を開いた。
「オレ……このまま何もされないなら、たぶん、壊れる」
日下部は目を細めるだけで、応えない。
「なあ、何か言えよ……怒れよ……バカって言えよ……! なんでもいいから、言ってくれよ……!」
声が震え、喉が焼けるように痛んだ。
泣いているわけじゃない。
けど、涙の出ない泣き声が、室内に滲んでいった。
日下部は、ようやく一言、返した。
「──お前さ、欲しがり方が間違ってんだよ」
遥は、何も言えなかった。
わかってる。
そんなつもりじゃない。
でも、本当は──
「……違う。そんなこと、言いたかったんじゃ……」
「じゃあ黙ってろ」
日下部の声は、冷たいのではなく、淡々としていた。
でも、その静けさが、今の遥には刃物だった。
遥は唇を噛んで、視線をそらした。
けど、どこを見ても、部屋のどこにも“居場所”はなかった。
目を閉じた。
眠るためじゃない。
消えるためでもない。
ただ、何かを遮断しなければ、自分が自分を保てない気がした。
──何もされない夜が、こんなにも痛いなんて。
──こんなにも、“生きているのが苦しい”なんて。
この夜は、あまりに静かすぎた。
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