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「そちらさん……」
「扇屋(おうぎや)と申します」
眉を顰(ひそ)めて問いかけたところ、先方は品のよい仕草で一礼を加えた。
見るからに紳士的な様相ではあるが、首筋から仄(ほの)かに漂う血臭を隠しきれていない。
「御遣よね? 見たところ」
「えぇ。 ご賢察を頂きまして痛み入ります」
「そういう感じいらんよ。 ケンカ売りに来たんでしょ?」
不躾(ぶしつけ)に投じると、男性はこれ見よがしに肩をすくめ、大仰な仕草で首を振ってみせた。
溜息に乗せて今にも“やれやれ”と聞こえそうな案配で、これが殊のほか葛葉の癇(かん)に障った。
他人(ひと)の神経を逆撫でする上手はいるが、先方がまさにそうした人種に当たるか。
単に、こちらの虫の居所が悪いだけという線も捨てきれない。
「狙いは?」
「狙い、ですか?」
「そう。 女引っかけに来たのか、それとも男の背中追っかけてきたのか」
ともかく、事を荒立てても仕様がない。
胸中で深呼吸を繰り返すようにして意気を均(なら)し、当面の足掛かりをさぐる。
相手の的(まと)が果たしてどちらであるか、ひとまずそれを判然とさせておく必要がある。
「……なに?」
「いや、失敬」
先の言い回しが思いのほか琴線に触れたようで、暫時くつくつと忍び笑いを手元に撒いた先方は、ややあって明言した。
「あなた様です。えぇ、私は遥々(はるばる)あなた様のご尊顔を拝したてまつ」
「そんなんいいっ言(つ)ったろ?」
身振り手振りがいちいち真に迫っており、まるでミュージカルのひと幕など眺めている気分だった。
こういう手合いのペースに巻き込まれては、後々が面倒だ。
「まぁ、それはご苦労さんだけど、やっぱり上役の命令で?」
「さて、守秘義務と申しましょうか」
「都合いいな、その言葉」
もっとも、その辺りは恐らく論ずるまでも無いだろう。
組織に属する人間にとって、独断専行はケガの元。 それを承知で事を起こすような気概が、男性のタイトな佇(たたず)まいからは感じられない。
「教科書通りってのは辛いよね? ちょっとだけ同情するよ」
「いえ、気楽なものですよ? なにも考えず、事に当たるというのは」
「それ、お人形って言うんだよ? 世間さんは」
先方の魂胆が知れた以上、長々と問答に費やしても仕方ないが、葛葉としては先頃の逡巡もあって、なるべく荒事は避けて通りたい。
そういった思いが通じたか、男性は徐(おもむろ)に得物を下げ、にこやかに提案した。
「すこし、お話しましょうか?」
「ほぉ……?」
願ってもないが、どうした弾みか。
意外と話の通じる相手。 そう判じるのは早計だ。
『気ぃつけろ姐御、ツラだけの男に陸(ろく)なのぁいねぇ』
早々と差料の心金に依った童が、敵意も露(あらわ)にそんな訓告をよこした。
これにやんわりと相槌を加え、胸の内でいくつか疑問を用立てる。
“どうやって私の居場所を?”
その辺りの事情については、何となく察しがつく。
組織とやらの情報網がどの程度の規模か知る由はないが、主要な町々に息の掛かった連絡員を配置している可能性が高い。
やっぱり、あんな派手な大会に出たのがマズかったか。
なけなしの義務感が、こうしてあらぬものを引き寄せてしまった。
私はいいが、少なくとも虎石っさんは逃亡者だ。 もう少し慎重になるべきだった。
ふと、胸の中ほどに焦燥らしきものが降って湧いた。
「ここへは、そちらさん一人で?」
「えぇ。 何かと身軽なほうが性分に合いますので」
最前の質問には穴がある。
彼の狙いがどちらであるか、そんなことは重要じゃない。
そもそも、居所が割れているという時点で
「ちょい用事思い出したんで、帰っていい?」
「ほぉ、それはどのような?」
「女の子に立ち入ったこと訊くんじゃないよ」
大丈夫とは思うが、急に宿の様子が心配になった。
この男に仲間がいたとして、もしも寝込みを襲われるような事態にでもなれば。
「ご心配なく、私はこの通り単身で参上いたしましたので。 えぇ、まことに」
「や……、信用できないんだわ」
諸手を開いて朗らかに笑んでみせる男性に対し、葛葉は眉根をひん曲げて応じた。
どうにも後手にまわっている気がしてならない。
というよりは、冷静な判断力を欠いている状態か。
やはり、ここ最近の己に対する不審が、道理に沿った思考の邪魔立てをしている嫌いがある。
不甲斐ない。
身軽な旅路であれば、そこまで拘(こだわ)る必要はなかった。
しかし仲間を連れ立ついま、こうした事態も起こり得るのだと、充分勘定に入れて動くべきだった。
「いずれにせよ──」
男性が謡うような口振りで言った。
決して武器とは言いがたい件(くだん)の得物が、ゆるゆると尖端をもたげ、こちらをまっすぐに指向した。
「いま少しだけお時間を頂けますか? 」
「それは、足止めのつもり?」
「滅相もない。 ですから私は」
「命は大事にした方がいいよ?」
ともかく、速やかに宿へ向かわないと。
それにはまず、この男を片付ける必要があるか。
無視するに越したことは無いが、先方も御遣である以上、どのように食い下がってくるか知れたものじゃない。
それなら手っとり早く黙らせた方がいい。
ふと思い立って、舌の面(おもて)に犬歯の先端をちくりと当てる。
大丈夫だ。
口内に錆臭を含んだ酸いものが瞬く間に広がったが、全然問題じゃない。
口の端から何か、生温かいものが滴(したた)る気配を感じたが、気に留める必要はない。
意気が逸(はや)っているのは確かだし、胸間が灼熱している自覚はある。
けれど、道理を弁(わきま)える能はまだ残ってる。
この場合はそう、悪意には悪意をもって応じる。 殺意には殺意をもって対する。
ただ、それだけの事だった。