夜の王が倒れた後の世界は、想像していた“勝利の静けさ”とは少し違っていた。
闇が晴れたのではなく、むしろ――深まったのだ。
黒い霧は消えず、空には裂け目が残り、月は赤い線を引いたまま修復の途中で凍りついている。
まるで、世界そのものが「まだ終わっていない」と告げているようだった。
リリスはカイラスの胸に寄り添い、ようやく呼吸を整えた。
戦いの後の余韻は甘く、けれど、どこかに不安の影が差していた。
「世界……こんなに壊れてたんだね……」
リリスが呟く。
カイラスは彼女の肩に腕を回し、煙の立つ廃城を見つめた。
「王が死ねば、すべて終わると思ってた。でも……これは“始まり”だったのかもしれない」
「始まり……?」
「おまえが目覚めたことで、この世界は新しく形を変えようとしてる。血哭の乙女――“赤の巫女”リリスを中心に」
リリスの胸がかすかに痛む。
咬痕が脈打ち、赤い花弁が皮膚の下で揺れた。
「……私が、世界を変えてしまったの……?」
「違う」
カイラスは優しく笑った。
「変える“力を持ってしまった”だけだ」
その言葉に救われた気がした。
だけど、胸に小さく渦巻く不安までは完全に消えなかった。
二人は廃城を後にし、吸血種の都《ノクタ・ヴェイル》へ戻った。
王亡き都は静まり返り、空は黒い翳りを帯び、まるで全住民が息をひそめているかのようだった。
門をくぐると、城下の吸血種たちがざわめき始める。
その視線はカイラスへ、そして――リリスへ。
敵意ではなく、畏怖と歓喜が入り混じった混沌とした光が宿っていた。
一人の老吸血種が前に進み出る。
白い髪が風になびき、深紅の瞳が鋭い。
「……主よ。あなたが我らの王を討ったのか」
カイラスはわずかにためらった。
だが、嘘はつけない。
「俺と……リリスで倒した」
老吸血種の瞳が見開かれた。
ざわめきが一気に膨れあがる。
「血哭の乙女だ……!」
「本当に存在したのか……!」
「世界の終わりを導く赤の巫女……!」
恐れ、喜び、呪詛、祝福、そのすべてが混ざり合って街を覆った。
リリスは思わずカイラスの袖を掴んだ。
「みんな……怖い顔してる……」
「大丈夫だ。俺がいる」
カイラスは堂々と胸を張り、都の中心――夜の玉座のある広場へ進んだ。
広場の中央には、黒く巨大な石柱がそびえ立っていた。
それは吸血種の王座《ナイト・スロウン》。
座れば、世界に認められた“夜の王”となる象徴の席。
老吸血種が声を上げる。
「若き彼よ。血誓に選ばれし乙女と共に、王を討ち、夜を救った。ならば――新しき王として立つべきは、お前ではないのか?」
「…………」
カイラスは答えなかった。
しかし、全ての吸血種が彼の選択を待っていた。
リリスはそっと彼に寄り添う。
「カイラス……あなたはどうしたい?」
長い沈黙の後、カイラスは深く息を吐き、
「俺は……王になど興味はない」
と呟いた。
ざわめきが大きくなる。
だが、続く言葉がその全てを一瞬で塗り替えた。
「だけど――“リリスのための世界”を作るなら話は別だ」
リリスの心臓が跳ねた。
カイラスはナイト・スロウンへ歩み寄り、ゆっくり腰を下ろした。
その瞬間――。
空が震え、赤い光が都に降り注ぐ。
まるで世界が新たな王を迎える儀式を始めたかのようだった。
老吸血種は深く膝をつき、声をあげた。
「――ここに宣言する。新しき夜の王《ノクタ・レックス》。カイラス・ヴァーミリオンの即位を!!」
吸血種たちの歓呼が一斉に沸き上がる。
地鳴りのような叫びが城下全体に広がり、リリスは圧倒されて立ちすくむ。
カイラスは彼女に手を差し出した。
「おいで、リリス」
「え……私が……?」
「王の隣に立つのは、おまえしかいないだろ」
その手を取った瞬間――。
夜の都で一斉に灯りが点り、音楽が鳴り、吸血種たちが舞い踊り、
“永夜の祝祭(Feast of the Eternal Night)”が始まった。
それは千年続く闇の歴史において、初めて迎える“新しい夜”だった。
広場の中心には、黒い花弁が舞う魔法の舞台が現れ、
吸血種たちが美しい動きで踊り始めた。
血の香りが漂う。
狂気と祝福の入り混じった旋律が響く。
カイラスは静かにリリスの手を取り、目を細めた。
「踊るか?」
「わ、私、踊り方なんて全然……!」
「俺が全部教える」
そのまま腰へ手を回され、リリスの心臓は跳ね上がる。
カイラスの手の温度。
咬痕の疼き。
吸血種の王となった彼が発する圧倒的な支配の気配。
それらすべてが混ざり合い、リリスの中で甘い渇望を呼び起こした。
音楽が始まり、二人はゆっくりと旋回した。
舞踏の最中、カイラスが囁く。
「リリス。みんな、おまえを“恐れ”ている」
「……わかってる」
「でも同時に、“崇めてもいる”」
カイラスは彼女を引き寄せ、耳元に唇を寄せた。
「だから怖がらなくていい。おまえが望むなら、この世界のすべてをおまえのものにできる」
リリスは小さく首を振った。
「私が欲しいのは世界じゃない。あなたが……そばにいてくれること」
「……リリス」
カイラスの胸が熱くなる。
次の瞬間、彼は耐えきれずに彼女を抱きしめ、
咬痕へそっと口づけた。
「ッ……カイラス……!」
リリスの身体が震える。
咬痕が、強烈に、甘く、熱く脈打った。
その刺激に、彼女の吸血種としての本能が高まる。
「……本当に、おまえは俺を狂わせる」
カイラスは低く囁いた。
宴が続く中、突然、空に黒い稲光が走った。
月が震え、天に巨大な裂け目が広がる。
全員が踊りを止め、空を見上げる。
老吸血種が膝から崩れ落ちる。
「……まさか……“闇の予言”が……!」
「闇の予言?」
リリスが尋ねる。
老吸血種は震える声で言った。
「王を失った世界は、新たな王を迎えるまでに“闇の空白”が生まれる……その空白を狙い、千年前に封じられし“影喰らいの獣”が目覚める、と……!」
その言葉を聞いたとたん、カイラスの表情が険しくなる。
「影喰らい……だと……?」
「夜の王ですら敵わぬ存在。夜そのものを喰い尽くす怪物でございます……!」
空の裂け目から、黒い霧が落ちてきた。
それは王の影ではない。
もっと深く、もっと古い――世界の根源に近い闇。
リリスの咬痕が激しく疼き、息を呑んだ。
「これ……私……感じる……」
胸の奥の血が沸騰するような痛み。
カイラスが即座に彼女を抱き寄せた。
「リリス、下がれ! これは――」
その瞬間。
天から影が落ちてきて、世界を揺らした。
黒い獣の眼が開く。
その眼は、リリスを見た。
――“見つけた”――
声なき声が、直接魂へ突き刺さった。
リリスは震え、口を押さえる。
視界がぼやけ、膝が砕け落ちそうになる。
「リリス!」
カイラスが彼女を強く抱きとめる。
彼の視線は鋭く獣を睨む。
「……来いよ、化け物。今の俺たちを喰えると思うな」
影の獣が咆哮を上げ、空が裂ける。
そして――暗黒の光が二人めがけて降り注いだ。
リリスはカイラスの腕の中で、最後の瞬間のように目を閉じる。
咬痕が赤く輝く。
まるで、世界がこう告げているかのように――
“二人の運命の咬痕は、まだ終わっていない”
カイラスはリリスを抱きしめ、獣へ向けて牙を剥いた。
「リリス。俺は――何度でもおまえを守る」
そして暗黒の夜へ、二人は踏み込んだ。
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