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帰宅は、わざと遅くした。空腹はとっくに通り過ぎていて、もう何も感じなかった。
ただ、“誰かが眠っていればいい”と願いながら、靴を脱ぐ。
家の中は、いつも通り静かだった。
でも、それが安心にはつながらない。
リビングの明かりは落ちている。
けれど、テレビの電源ランプが赤く点いていた。
つまり──誰かが「起きている」可能性があるということ。
(……沙耶香か、玲央菜か、あるいは)
階段を上がる。音を立てないように。
けれど、2階の廊下の先、自分の部屋の前には──
もう、颯馬が立っていた。
「遅かったね、遥」
その声は、笑っていた。
けれどその笑顔は、遥にとって「扉が閉まる音」に等しかった。
「……どいて」
「なんで? 兄弟の部屋に来ただけじゃん」
にじり寄ってくるような、柔らかい声音。
でも、遥は知っている。この声の直後に何が起きるのかを。
「邪魔。どけよ」
無表情を崩さずに言う。
演技ではない。もう、それが“生きる手段”だから。
颯馬は笑ったまま、遥の頬を指先でなぞる。
「……おまえ、泣いた?」
触れられた瞬間、遥の背中に冷たい汗がにじむ。
「違う。風邪だよ」
無感情に返す。鼻声を演じる。
「へぇ……。でも、目、真っ赤だったけど?」
颯馬の指が、顎から喉元へと滑っていく。
「誰の前で泣いたの? ……ねぇ、“誰に見せたの”?」
その問いに、遥は何も言わない。
言えば壊される。
言わなくても壊される。
なら、せめて「誰にも渡さない」と思わせるしかない。
「……兄貴らには、言ってないよ。安心して」
そう言いながら、颯馬は遥の部屋のドアを、勝手に開けた。
──鍵など、最初から存在しない。
部屋に“境界”という概念はない。
ベッドに押し込まれる寸前、遥は壁を見つめた。
そこには、無数の傷がある。
引っかいた爪痕。蹴られた時の破れ。
何度も同じ場所を壊され、また貼り直されてきた薄い壁紙。
何も変わらない。
誰も助けない。
声を上げれば「挑発した」と言われる。
黙っていれば「受け入れている」と決めつけられる。
どちらでも、壊される。
(……昨日、なにもされなかった)
その「優しさの記憶」が、今、遥を引き裂いていた。
──日下部の部屋では、触れられなかった。
ただ毛布を出され、静かに放っておかれた。
喉が渇いていると察して、水を置いていかれた。
それだけ。
それだけのはずなのに。
(……あれが、“優しさ”だったのか)
わからなかった。
けれど、今、頬に這う手と、胸元に入り込む指との違いが、あまりに絶望的すぎた。
「なあ、遥。誰といたの?」
問いかけは優しげだ。
でも──口元が笑っているのに、目がまるで笑っていない。
「……一人だよ」
嘘をついた。
その嘘はすぐに見破られるとわかっている。
でも、吐くしかない。壊されたくないものが、たった一つだけあるから。
日下部の目。
あの、壊さないまなざしだけが。
「──へぇ。そっか。……じゃあ、確かめていい?」
そう言って、頬に舌を這わせてくる弟に、遥は何も言えなかった。
言えば、日下部まで巻き込まれる。
言わなければ、自分だけが、地獄の奥に落ちていけばいい。
(壊れんなよ……)
自分に言ってるのか、日下部に言ってるのか、もうわからなかった。
ただ──この夜は、長く、冷たく、
遥の中で何かが確実に「戻れない側」へとひしゃげていった。