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◻︎沙智の気持ち
「ただね…これは沙智さんが了承してくれたら、だからね。残していく息子が、愛人の家族と暮らすということをどう思うか?それが心配。だから、あなたからその話をしてくれない?もちろん、私もそこにいるから。今からでもね」
しばらく何かを考えていた夫は、決心したのか、うん、とうなづいた。
「香織、君はそれでいいのか?大輝は、その…夫の愛人の子だよ…」
「私は、あなたの妻だけど智之の母親なのよ。母親として智之に恥ずかしくないようにしたい、それだけ。今考えられる最善策は、それしか思いつかないから。何かあったらまた考えましょうよ」
「わかった、ありがとう。沙智に話そう。行こう」
なんでこんなことを思いついたのか、自分でも不思議だった。
ただ一つ確かなことは、大輝が一人になって施設に行くことになる、そのことだけはどうしても避けたいということだった。
___もしも智之がそんなことになったら…
想像するだけで、心臓が痛くなる思いだ。
コンコンコンとノックする。
薬のせいなのか、ぼんやりとしていた沙智に、夫が話しかける。
「沙智、聞こえる?」
「…あ、はい」
「香織から提案があるんだ、それを君に聞いてほしくて」
「…はい…」
「まず、大輝のことだけど。君にもしものことがあっても、施設には預けない」
「え…?」
「俺が、あ、俺と香織が育てる、うちの智之と一緒に。ちゃんと認知もする、そのことを了解してほしいんだ」
ぽかんとしている沙智。
「え、でも、そんな奥さんに…」
沙智が私を見る。
「私が言い出したのよ、このバカ夫じゃ、なんにも頭が回らないから。もちろん、沙智さんが元気になるなら、それにこしたことはないよ、そこは勘違いしないでね」
「…いいんですか?その…大輝はご主人の…」
私は思わず、はぁー、とため息をつく。
「愛人の子?だからなに?まず、その考え方もやめようか」
「え…?」
「大輝は大輝、そのことが大事であって、その両親が複雑なことは本人にはなんの責任もないんだよ、親がそこを気にしてたら本人はいつまでたっても、[愛人の子]という呪縛から逃れられないと思う」
夫も沙智も、不思議そうな目で私を見ている。
私の言うことが二人にとっては意外だったのだろう。
「もう一つ、勘違いしてほしくないのはね、私も離婚したらシングルで智之を育てる自信がないの、経済的にも精神的にも。だから、私にとっても離婚しないことはプラスなのよ。結構打算的な女で、頭では電卓をはじいてるんだから」
と、空で電卓を押す仕草をしてみせる。
「ね、ここ笑ってくれないかな?」
「「ぷっ!」」
と二人が笑った。
「私は、そんなに心が広いわけでも慈悲深いわけでもない、ただの女、だけどね、子供を持つ母親だから、沙智さんの気持ちがわかってしまうんだよね、強がっててもね…」
それは私の本心だった。
しばらく天井を見つめていた沙智の両目から、ツーっと涙がこぼれた。
「ありがとう…ござ…いま…す」
その姿をぼーっと見ている夫。
「ほら、ティッシュ、早く!あ!タオルの方がいいかな?」
私は急いでベッドの横にあったタオルで沙智の涙を拭いた。
「私、本当はとっても不安で…誰かにそんなふうに言って欲しかった…」
「ずっと泣きたかったのを我慢してたんでしょ?この人じゃ、そんなことわからないからね」
と夫に向かって、あかんべをする。
「奥様に会えてよかった…」
「あら、香織でいいわよ。実はね、私も最近まで泣けない女だったんだけどね。ある人たちと知り合って、素直になることができたから」
___そうだ、私がこんなふうに変われたのは、未希さんに話せたからなんだ
「そういえば、雰囲気変わったよね?香織…」
「いまごろ?ほんっとに遅いダメダメ夫ですね」
「ごめん!ブログもモデルもやめたみたいで、気にはなってたんだけど」
「気になってるなら、聞いてくれればいいのに、なんでそこんとこ、わからないのかなあ?この人は!」
「ごめん…」
時計を見たら、お昼になっていた。
「私、そろそろ帰るね。沙智さん、これで治療に専念することができるでしょ?応援してるからね」
「…はい、本当にありがとうございます…」
「じゃ…」
私は先に病室をあとにした。
お昼ご飯が運ばれて来ないことは、私の想像を暗くする。
___そんなこと、考えちゃいけない、元気になって、憎まれ口の一つも叩いてもらわないと
それから二週間後。
夫は大輝を連れてやってきた。
大輝の手には、お骨が入った小さな瓶があった。
沙智の意向で、お骨は無縁仏として市の施設に埋葬されることになっていた。
それでも…。
「ちょっとだけ、うちに連れておいでよ。大輝が寂しくないように」
そう言ったのは私。
それから日当たりのいい庭のすみに、八重桜の苗を植えてそこに沙智の小さな瓶を埋めた。
___なんでそんなことを?それは…
沙智からの手紙を大輝が書き留めていて、それをお通夜の日に受け取ったから。
ーー『私は身寄りがなく、ずっと一人でした。好きになった人にも家族があって。修二さんにお願いされて大輝を産みましたが、本当は私が血の繋がった家族がほしかったからなんです。
なのに、私はこんな病気になってしまい…。
遺して逝く大輝のことが不憫でならなかった。そんなとき、香織さんからの申し出があり、それは私には願ってもないことでした。
大輝には家族ができる、そう思ったんです。
これまでずっと一人だったような気がしていましたが、香織さんと話していたら、あの時は何故か家族といるような錯覚をしました。
(大輝はもちろん家族ですが)
戸籍もなんの血の繋がりもないのに、香織さんのことを、家族のように感じました。
私の人生の最期に、家族ができて幸せでした』ーーー