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買い物という名の「溺愛包囲網」から帰還した私は、自室のベッドの上に広げられた光景を見て、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
アビス様に贈られた、最高級のシルクや繊細なレースが幾重にも重なったドレスの山。
そして、箱を開けるたびに部屋の明かりを跳ね返す、溜息が出るほど見事な宝飾品の数々。
これまでは動きやすさだけを重視した、糊のきいた黒い侍女服が私のアイデンティティだったのに
今や視界に入るのは、触れることさえ罪悪感を覚えるような贅沢品ばかりだ。
「こんなに…幸せだと罰が当たりそうだけど…」
ポツリと溢した独り言が、がらんとした部屋に虚しく響く。
借金をすべて返し終え、今日からは清々しい自由の身になるはずだった。
それなのに、どうして自由になるどころか、重厚なダイヤモンドの指輪で繋ぎ止められているのだろう。
そんな私の不安や戸惑いを余所に、アビス様は休む間もなく、恐ろしいほど鮮やかで冷徹な手際で、次の一手を打ってきた。
◆◇◆◇
翌日の午後───…
屋敷の広大な庭園を見渡せる、真っ白な大理石のテラスには、これ以上ないほど贅沢な二人きりのティータイムが用意されていた。
降り注ぐ柔らかな陽光と、今を盛りと咲き誇る薔薇の甘い香り。
そこで、優雅な手つきで銀のスプーンを操り、スコーンにクロテッドクリームを乗せていた彼が
スッと差し出してきたのは、金箔で豪華に縁取られた重厚な一枚の招待状だった。
「三日後、王宮で夜会がある。エリス、君を俺の『パートナー』として招待したい」
「──っ!? 主様、何を仰っているのですか?!」
私は驚きのあまり、口に含んでいた紅茶を盛大に吹き出しそうになった。
ちなみにこの紅茶、中身は例の、私が街の雑貨屋で見つけてきた一箱数十円の安価なティーバッグだ。
アビス侯爵家の名にふさわしい、一客で平民が一年暮らせるような高級な銀器に注がれていても、味はいつもの慣れ親しんだ庶民の味。
それが今の私の、せめてものアイデンティティであり、ささやかな抵抗だった。
「パートナーというのは、普通、公認の婚約者や奥様が務めるものです…!私のような、つい昨日までただの使用人として立ち働いていた者が、そんな大役を務められるはずがありません。社交界の笑い者になりますよ」
「昨日、指輪を渡したはずだが? 答えはまだだと言われたが、俺の中では君はもう、俺の未来の妻だ。それに、俺が選んだ女を笑う者がいれば、その家は明日には潰れているだろう」
アビス様は、まるで「今日は絶好の散歩日和だ」とでも言うような平然とした
それでいて絶対的な自信に満ちた口調で言い放ち、カチャリと静かにティーカップを置いた。
そして、戸惑う私の手を、当然の権利であるかのようにごく自然に取ると
その白く細い指先、手の甲に深く、熱いキスを落とした。
吸い付くような唇の感触と、彼特有の低い体温が肌から伝わり、私の心臓はまたしても爆音を立て始める。
「社交界の連中は、空席のままの俺の妻の座を狙って、虎視眈々と隙をうかがっている」
「エリス、君が俺の隣に立って守ってくれないと、俺はまた、あの吐き気がするほど香水臭い令嬢たちに囲まれて不快な思いをすることになるんだ。……俺を助けてはくれないか?」
彼はわずかに眉を下げ、悲しげに縋るような視線を私に向けてくる。
あの、王宮で「氷の公爵」と恐れられ、一切の感情を排して政敵を蹴散らす男が
今、捨てられた仔犬のような、あるいは弱々しい病人のような目をして私に頼み込んでいるのだ。
「そ、それは……つまり、これまでのような、令嬢除けのガード役としての仕事、ということでしょうか?」
「ああ。形式上はそう思ってもらって構わない」
(……嘘だわ。この人、絶対に目が笑っているもの! 獲物を罠に追い詰めた猟師の目よ!)
彼が「仕事」という、責任感の強い私が一番断りづらい言葉を盾にして
私を逃げ場のない袋小路に追い込んでいるのは明白だった。
けれど、あんなに切実な顔で───というより、すべてを完璧に計算し尽くした
ずるいくらいに甘えた顔で懇願されると、結局私は、毒気を抜かれたように頷くしかなかった。
そうして迎えた、運命の夜会当日──…
先日アビス様に選んでいただいた
透き通るような湖の底のような淡いブルーのドレスに身を包み、私は姿見の前に立った。
屋敷に住み込みで働くプロの侍女たちの手によって、数時間がかりで磨き上げられ、施された化粧と髪型。
鏡の中にいるのは、ギャンブル狂の父に振り回されて借金に追われていた没落令嬢でも、エプロン姿で膝をついて床を磨いていた使用人でもない。
誰が見ても見違えるほど輝く、高貴な香りを纏った一人の「貴婦人」だった。
「準備はいいか、エリス」
背後から、低く、どこか耳に心地よい振動を伴う声をかけられ振り返ると
そこには漆黒の第一礼装に身を包んだアビス様が立っていた。
いつも以上に凛々しく、王者のような威厳に満ちた彼の姿に、心臓が痛いほど脈打つ。
彼は一瞬、私を見たまま呼吸を止めたように言葉を失い
それから、壊れ物を扱うような
最上の宝物を愛でるような慈しみのこもった手つきで私の頬に触れ、満足げに目を細めた。
「……完璧だ。あまりに美しすぎて、正直、今この瞬間、屋敷から出したくなくなってきた」
「な、なんですかそれ…」
「どこか別の場所に連れ去って、他の男には指一本触れさせたくないくらいだ」
「主様!からかわないでください。私は心臓が口から出そうなほど緊張しているんです。今すぐ馬車から飛び降りて逃げ出したい……」
「案ずるな。君はただ、俺の腕にしがみついていればいい。他の有象無象を見る必要はない」
差し出された彼の逞しい腕に手を添え、私たちは王宮のダンスホールの巨大な扉の前へと立った。
重厚な扉が開かれ、会場に入った瞬間。
何百という貴族たちの視線が、物理的な衝撃を伴って一斉に私たちに突き刺さった。
あの「氷の公爵」が、これまで一度も女性を伴うことのなかった彼が、見たこともない女をエスコートしているのだから。
その衝撃は、華やかな弦楽器の演奏さえかき消し
豪華絢爛な会場を一瞬にして、墓場のような静寂に叩き落とすほどだった。
「あの方は、どこの隣国の王女かしら……?」
「まさか、あのアビス侯爵が、自ら女性を伴って現れるなんて……」
さざ波のように広がる驚愕の囁き声と、令嬢たちの嫉妬に満ちた視線。
アビス様はそれらを鼻先で笑い飛ばすように涼しい顔で受け流しながら、私の腰に回した手にグッと力を込め、私を自分の方へと強く引き寄せた。
そして、会場の隅々にまで届くような、低く、威厳に満ちた通る声で、高らかに宣言したのだ。
「諸君、紹介しよう。俺が愛し、ようやく隣に立つことを許された───最愛の婚約者、エリスだ」
「…………っ!?(こ、婚約者!?言わない約束じゃ…?!)」
初耳だ。
そんなこと、馬車の中でも、朝食の時でも、一言だって聞いていない。
驚愕のあまり、私は酸素を求めてパクパクと口を動かしながら彼を見上げた。
「あ、主様…!婚約者として紹介しない約束じゃ……!」
すると、アビス様は悪戯が完璧に成功した子供のように意地悪く
そしてこの上なく愛おしそうに私に微笑みかけ、髪に隠れた耳元で、甘く残酷な宣告を囁いた。
「それを言うなら、婚約者として紹介しないなんて一言も言ってないだろう?。……これで、君はもう誰にも渡さない。世界中に君の所有権を宣言したからな。もう、逃げ道はないぞ」
社交界という名の、二度と逃げ出すことのできない華やかな戦場で
私はついに、彼の手によって「妻」としての外堀を、コンクリートで固められるように完膚なきまでに埋められてしまったのだ。