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気づいたら、会社に向かう電車のホームと反対方向に立っていた。
線路を跨いだ向こうには、サラリーマンやOLが青白い顔でスマホを弄りながら次の電車の到着を待っている。私も昨日まではあの群れの中の一人だった。いつもと同じ時刻、同じホーム、同じ顔ぶれ。みんな同じ方向を向いて、同じ電車を待って、同じ会社へ向かう。まるでレールの上を滑るように、毎日同じ軌道を繰り返す。
でも今日は違う。足が、勝手に反対側へ向かった。改札を出て、階段を降りて、反対ホームの端っこに立ってる。心臓が少し速く鳴ってるけど、不思議と怖くない。むしろ、静かだ。向こうのホームの人たちは誰もこっちを見ていない。誰も気づいていない。私がここにいることすら。昨日までと同じ制服、同じカバン、同じ疲れた表情。でも、私の目はもう、あの群れと同じじゃない。
昨日、デスクの引き出しで埃をかぶっていた退職届を久しぶりに取り出した。
白い封筒を握ったら、手が震えなかった。3ヶ月間、触るのも怖かったのに、ただの紙切れみたいに軽かった。エナジードリンクの空き缶がゴミ箱に転がってた部屋で、初めて「明日でいいかも」って思った。明日でいい。明日で終わりにしてもいい。会社に行かなくたって、世界は止まらない。
課長の「お前はコピーとお茶汲みしかできない」も、チーフの「当然だろ」も、今日の朝礼で誰かが遅刻しても、誰も私の不在に気づかないかもしれない。
それでいい。気づかれないくらい、私の存在が薄かったってことだ。
線路の向こうで、電車が到着する音が響く。ドアが開いて、人がどっと降りて、どっと乗る。いつもの風景。でも私は動かない。スマホの画面を見たら、会社のグループチャットに未読が溜まってる。既読スルーして、電源を切った。風が少し冷たい。秋の匂いがする。会社に向かう電車が発車して、ホームが少し静かになる。反対方向の電車が近づいてくる音が聞こえる。
私は東京駅で、ステンドグラスの屋根を仰ぎ見た。心が洗われるように美しく、これからの人生に燈を灯すようだった。券売機の行列に並び、北陸新幹線の切符を買う。この息苦しい空間から、私は逃げるように新幹線に飛び乗った。行き先は石川県、祖母の家がある山間の白山市河内村を目指す。
車窓に流れるビル群がだんだん低くなって、郊外の住宅街が広がり、やがて田んぼと山の稜線が見え始めた。シートに深く沈み込んで、スマホの電源を切ったままにする。会社からの未読通知がどれだけ溜まってるかなんて、もうどうでもいい。今日の朝、反対ホームに立った瞬間から、私の時間は私のものになったんだ。
新幹線がトンネルを抜けるたび、耳が少し痛むけど、それが心地いい。東京の喧騒が遠ざかる音みたいに。白山市河内村。祖母の家は、子供の頃に夏休みで通った懐かしい場所。畳の匂い、縁側から見える山の緑、夜になると聞こえる虫の声。祖母はもういないけど、あの家はまだ残ってる。鍵は玄関先の植木鉢の下にあるって、母が言ってた。
何年ぶりだろう。会社に縛られて、休みを取るのも罪悪感で、帰省なんて夢のまた夢だった。退職届は結局渡せなかったけど、それでいい。渡すより、ただいなくなる方が、私らしいのかもしれない。資料の山も、課長の毒舌も、チーフの理不尽も、全部置いてきた。
金沢を過ぎて、車窓が本格的に山深くなる。雪の気配がまだ残る山肌、川の流れ、点在する小さな集落。心臓の鼓動が少しずつ落ち着いてくる。エナジードリンクの苦味じゃなく、ただの空気の味がする。
白山が見えてきた。遠くに白く霞む山頂。あそこに登った記憶はないけど、子供の頃、祖母が「白山は見守ってくれるよ」って言ってたっけ。加賀温泉郷を過ぎて、次第に列車が減速する。終点じゃないけど、ここで降りる。白山市の小さな駅。タクシーを拾って、細い山道を登る。木々が密集して、日差しが斑に落ちる道。
祖母の家に着いたら、まず縁側に座って、深呼吸するつもり。埃っぽい空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出して。それから、バッグの中の退職届を、燃やすか、捨てるか、それともそのまま置いておくか。決めてない。
でも、もう急がない。
ここでは時間が、私のペースで流れるから。きっと山の風が自然に迎えてくれるから。
「ありがとうございました」
タクシードライバーにチップを渡し、車を降りる。
懐かしい草の匂い、無機質なアスファルトではなく、蟻が行列を作る砂利の坂道を上る。私はあの蟻だ。毎日、同じことの繰り返し――もう疲れた。坂道の両側に生えたススキが風に揺れて、さらさらと音を立てる。子供の頃はこの音が大好きで、祖母と一緒に縁側で耳を澄ませてたっけ。足元で小石がカツカツと転がる感触が、妙にリアルで、東京のコンクリートの上を歩いてた自分が遠い記憶みたいに感じる。
坂を上りきると、古い木造の家が姿を現す。屋根の瓦が少し剥がれてて、雨樋に苔がびっしり。庭の柿の木は実が落ちきって、地面に赤黒い斑点を作ってる。鍵は母が教えてくれた通り、玄関脇の植木鉢の下に隠してあった。錆びた鍵を回すと、ガチャリと重い音がして、ドアがゆっくり開く。中は埃っぽくて、少しカビの匂いが混じるけど、それが逆に懐かしい。
靴を脱いで上がり座敷に座り込む。畳の感触が足の裏に伝わって、会社で履いてたパンプスの痛みが嘘みたいに消える。静かだ。虫の声と、遠くの川の音だけ。
スマホはまだ電源切ったまま。会社からの着信やLINEの通知がどれだけ来てるかなんて、知りたくもない。バッグから退職届の封筒を取り出す。3ヶ月以上眠ってた白い紙が、少し黄ばんでる。封を開けて中身を見る。自分の字で書いた「退職願」の文字が、妙に小さく見える。ペンを取って、最後に日付を入れる。今日の日付。伊藤里奈、令和8年9月1日。ここで、ようやく終わり。
封筒を閉じて、祖母が昔使ってた小さな火鉢にそっと置く。マッチを擦って、火を移す。紙がゆっくり燃え始めて、炎が揺れる。灰になるまで見届けて、窓を開ける。煙が外へ流れていく。胸の奥に溜まってた重いものが、少しだけ軽くなった気がする。縁側に出て、座る。山の空気が冷たくて、頰を撫でる。白山のシルエットが夕焼けに染まって、ぼんやり浮かんでる。祖母の言葉がよみがえる。「白山は見守ってくれるよ」。本当かな。でも、今は信じたい。蟻の行列から抜け出して、ただここにいる。それだけでいい。
「おばあちゃん!私、この家に住むよ!」
そこには誰もいないのに、宣言した。私はその足で村の役場に行き、移住の手続きのパンフレットをもらった。
「ほぇぇ、転入すると援助金が出るのか!」
東京23区に在住、または通勤していた人が白山市に転入し、就業・起業・テレワークを行う場合に60万円が支給される。これなら引越し代の心配もいらない。いや、家具は全て処分しよう。東京のワンルームにあったものはほとんどが会社生活の残骸だ。無印のシンプルな棚、IKEAのベッドフレーム、使い古したデスク。あれら全部、社畜時代の私を思い出させるだけ。処分してしまえば、頭の中の埃も一緒に捨てられる気がする。
役場の窓口でパンフレットを広げながら、職員さんが優しく説明してくれる。
「テレワーク枠なら、オンラインで申請できますよ。まずは住民票の転出届を東京で出してからですね」
「分かりました。ありがとうございます」
縁側に座ったまま、スマホの電源を入れる。久しぶりに画面が明るくなって、通知が一気に溢れ出す。未読のLINE、メール、社内チャットの赤い数字が山のように積み上がってる。でも、もう怖くない。むしろ、ちょっと楽しい。会社グループのチャットを開いて、田辺チーフの名前を探す。いつも「おい、伊藤!」って呼び捨てだった人。今日の朝から「伊藤どこだ」「資料は」「会議が始まるぞ」って連投されてる。笑っちゃう。いつもみたいに「了解です」って返事しないで、既読スルー。
次に、退職届の写真を撮っておく。火鉢で燃やした灰はもう残ってないけど、原本はスキャンしてクラウドに上げてあった。PDFを添付して、件名「退職届提出のお知らせ」。本文はシンプルに。
「本日付で退職いたします。伊藤里奈」
理由は書かない。書く必要なんてない。送信ボタンを押す前に、ちょっとだけ迷う。でも、指は止まらない。
ポチッ。送信完了。
すぐに既読がつく。1分もしないうちに、田辺チーフから電話が鳴る。無視。次はメール。「伊藤、何の冗談だ。すぐに連絡しろ」。無視。続けて、課長からも「資料はどうなってるんだ!会議が台無しだぞ!」って着信。無視。罰金とかないよね?
スマホの画面を眺めていると「伊藤!今月の給料なしだぞ!」と田辺チーフが脅してきた。そう来たか。
「労働基準局に相談しますよ……っと」
すると怒涛のメールがぴたりと止まった。労働基準局に提出されちゃ困る、思い当たる節があるのだろう。その証拠資料は私の手元にあるからね……と、内心ほくそ笑む。まあ、未払い残業の請求は後で弁護士に相談すればいいか。
スマホをサイレントにして、縁側に置く。
「はぁ、スッキリした!」
パンフレットに書いてある支援制度をもう一度読む。60万円の移住支援金に加えて、空き家バンクでこの祖母の家を登録すれば、リフォーム補助も出るらしい。屋根の瓦、雨樋、畳の張り替え……全部やってもらえるかも。わくわくしてきた。山間のこの家を、少しずつ自分の色に変えていく。縁側にハンモック吊るして、朝は白山を見ながらコーヒー淹れて、昼はパソコン開いて何か仕事探して、夜は虫の声聞きながら寝る。そんな生活。
会社でエナジードリンク飲みながら徹夜してた頃とは全然違う。
外に出ると、夕焼けが柔らかく坂道を照らしてる。砂利を踏む音が軽い。蟻の行列はもういない。私一人で歩いてる。家に帰ったら、まず庭の草むしりから始めよう。柿の木の下に落ちた実を拾って、祖母が昔作ってくれた干し柿みたいに干してみるのもいいかも。スマホの電源を入れる。
通知が鳴るけど、全部無視。
代わりに、移住支援のサイトをブックマークして、テレワークの求人サイトを開く。ライターとか、データ入力とか、なんでもいい。東京の給料の半分でも、ここなら生きていける。60万円の支援金があれば、半年は余裕で持つ。ゆっくり探せばいいんだ。
「おばあちゃん、見ててね。私、ここでちゃんと生きていくから」
誰もいないのに、もう一度宣言した。今度は声に出して、ちゃんと。伊藤里奈の新しい人生は、ここから始まる。社畜の抜け殻は東京に置いてきた。山の空気が、私の新しい肺になる。