テラーノベル
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来週の月曜、区役所で転出届を出して、住民票を移す。それで正式にここが私の住所になる。60万円の支援金が入ったら、まずは屋根の修理と畳の張り替え。家具は東京の部屋から全部処分して、必要最低限だけ送るか、それすら買わずに、地元の古道具屋で探すのもいいかも。
棚にあった真新しいタオルと、風呂場にあったバケツを持って、家屋の脇を流れる川で水を汲む。手を入れると冷たくて、「ヒヤッ」と思わず声が漏れた。カエルが鳴きやみ、ピョンと跳ねて草むらに姿を消す。ススキの穂が騒めく。タオルをギュッと絞ると、緩んでいた気が引き締まった。
「よーい、どん!」
シャツの袖を捲り、髪をゴムで1つに結え、縁側の廊下を雑巾掛けする。真っ白いタオルはあっという間に煤で黒くなった。バケツの中で洗い、柱を拭く。気持ちがいい。これまで押し殺してきた、不満や我慢を丁寧に拭き取ってゆく。畳の拭き掃除もしたいところだけど、ガスも電気も通っていない。
「今日は帰ろう、うん」
最寄りのタクシー会社に電話した。迎えに30分ほどかかると言った。東京では考えられない……一抹の不安を覚えつつ、縁側に座ってタクシーの到着を待つ。虫の音や風の音を聴きながら、黒い稜線と、紺色のグラデーションに染まった夕暮れの空を見ていた。一番星が瞬く。頬を撫でる風は、懐かしい秋の匂いがした。
暗闇に白い線が上下し、ヘッドライトが砂利の音を踏み締めて止まった。
「あんたが伊藤さんかい?」
「……あ、はい」
「金沢駅まで行くんけ?」
「お願いします、最終のかがやきに乗りたいんです。間に合いますか?」
「大丈夫や」
タクシーのドライバーも気さくといえば聞こえは良いが、言葉遣いは東京のタクシードライバーとは比べ物にならない。それに、車内には、課長がカラオケで歌う演歌が流れ、居心地が悪かった。助手席のシートが少し沈んで、シートベルトのバックルがカチッと鳴る。窓の外はもう真っ暗で、ヘッドライトが細い山道を照らすだけ。カーブごとに車体が揺れて、胃が少し浮く感覚がする。演歌の歌詞が「別れの酒を……」とか言ってて、なんだか皮肉っぽい。
「東京から来たんかい?」
ドライバーがルームミラー越しにこっちを見てくる。
「はい……しばらく東京にいて」
「ふーん。都会は大変やろなあ。こっちはのんびりしとるけど」
のんびり、か。東京のオフィスでは、のんびりなんて言葉は死語だった。残業の山、未読の通知、課長の毒舌、チーフの理不尽。全部が「当然」って押し付けられて、息をするのも忙しかった。
「都会の人は、みんな忙しそうやなあ。俺の息子も東京行って、もう5年帰ってこんわ」
「……そうなんですか」
「まあ、仕事が大事なんやろな。けど、たまには帰ってこいって思うわ」
言葉が胸に刺さる。祖母の家に帰ってきたのは、逃げただけかもしれない。でも、逃げた先で、初めて自分のペースで息ができる。
車が国道に出て、少しスピードが上がる。演歌が次の曲に変わって、今度は「津軽海峡・冬景色」。課長が酔っぱらって熱唱してた曲だ。思わず苦笑いが出る。
「この曲、嫌いじゃないんですけど……ちょっと懐かしいというか」
「はは、俺は好きやけどなあ。人生、いろいろあるさけ」
山道を抜けて、街の灯りがちらほら見え始める。金沢駅に近づくにつれて、胸のざわつきが少しずつ収まる。最終の「かがやき」に間に合う。東京に戻って、区役所で転出届を出して、……それで終わり。
駅のロータリーに着いて、タクシーが止まる。
「いくらですか?」
「4600円や。気をつけて帰りな」
小銭を渡して、ドアを開ける。冷たい夜風が顔に当たる。駅の明かりが眩しくて、少し目を細める。改札を通って、ホームへ。かがやきの到着案内が電光掲示板に映ってる。あと15分。ベンチに座って、スマホを開く。会社からの着信はもう100件近く超えてる。メールも山。全部無視して、再度、退職届の新規メールを作成。
――作成しようとした。
そこで、人事部からのメールが目に止まった。
「社会保障の手続きがありますので、よろしくお願いします」
やはり会社に行かなければならないのか……溜め息が漏れる。画面をスクロールしても、その件名が頭から離れない。退職届を送ったばかりなのに、もうこんなメールが来るなんて。社会保険の資格喪失手続き、年金の手続き、雇用保険の離職票……全部、会社側が手続きしないと終わらないやつだ。無断欠勤で自然消滅させたかったのに、結局、最後に顔を出さなきゃいけないのか。
新幹線の座席で、窓に額を押しつける。外は真っ暗で、トンネルの中を走ってるから自分の顔しか映らない。疲れた目、乱れた髪、会社員の仮面が剥がれかけた顔。
「はあ……」
声に出してため息をついたら、隣の席の人がチラッとこっちを見た。慌ててスマホを伏せる。人事からのメールを開いて本文を読む。
「伊藤様。退職のご連絡をいただきました。退職日を本日付と認識しておりますが、社会保険・雇用保険等の手続きのため、最終出社日または必要書類の郵送・来社をお願いいたします。詳細は添付ファイルをご確認ください。人事部」
添付ファイルを開くと、退職手続きチェックリスト。離職票の発行、健康保険証の返却、社員証の返却、PC・携帯の返却……。全部、会社に行かないとできない項目が並んでる。
「最悪……」
指が震えて、スマホを膝に置く。山の家で縁側に座って、退職届を送信した瞬間は、すごくスッキリしたのに。これで本当に終わったと思ったのに。まだ鎖が繋がってる。
会社に行って、田辺チーフの顔を見て、課長の毒舌を聞かなきゃいけない。最後に意地を見せようと思ってたけど、こんな形で顔を合わせるなんて、想像しただけで胃が痛くなる。
でも、逃げたらもっと面倒なことになる。離職票が出ないと、失業保険ももらえないし、健康保険の切り替えも遅れる。支援金60万円が入るまでのつなぎに、失業保険は必要だ。
ため息をもう一度吐いて、深呼吸する。……わかった。行くよ。でも、ただ行くんじゃない。最後の出社にする。PCと社員証と健康保険証を持って、総務に全部返却して、離職票を受け取って、退職届の控えに「受理済み」のハンコをもらう。それで終わり。
チーフや課長に会ったら、笑顔で一言だけ言う。
「これで、お世話になりました」
それだけ。
もう、謝らない。
もう、作り笑いしない。
新幹線がトンネルを抜けて、東京の夜景が広がる。ビル群の灯りが、遠くでキラキラしてるけど、もうあの光の中に戻る気はない。ただ、手続きを済ませて、荷物をまとめて、山に帰るだけ。スマホを握りしめて、人事への返信を作成する。
件名:退職手続きについて
本文:
お世話になっております。伊藤里奈です。
退職手続きのため、来週月曜日に最終出社いたします。
必要な書類等は持参しますので、ご対応よろしくお願いいたします。
伊藤里奈
送信。既読がつく前に、電源を切る。窓の外に、自分の顔が映ってる。少しだけ、目が強くなった気がする。あと少し。あと少しだけ、あのオフィスに顔を出して、完全に鎖を切る。それで、本当に自由になる。伊藤里奈の逆襲は、まだ終わってない。最後の締めくくりを、きっちりつけてやる。
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