コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
帰宅したらすぐに洗面所へと直行し、ホットクレンジングジェルでメイクを落とす。ついでに手洗いうがいも済ませる。この時期は風呂場でシャワーを浴びて部屋着に着替えることも多い。
洗面所にあるビッグサイズの化粧水でかるく全身の保湿をしてから、玄関でお待ちかねの、スーパーで買ってきた食材を次々冷蔵庫に入れる。
……とひとり留守番をする詠史への挨拶が遅れたり。或いは、お顔に乳液で蓋を忘れることも多々。
人間は、意志を決定する総量が決まっており、毎日決断をするたびにそれが削られるという。主婦が疲れるのも、毎日の献立をなににするのか。洗濯物は、お風呂は、子どもの宿題にいつ付き合うのか。決めなければならない物事が圧倒的に多いからだと思う。
物事を習慣化させるには、少ない労力で決断力で行えるルーティンを決めておくこと。無理のない範囲で。というのがポイントだそうだ。わたしも、健康維持のために毎日筋トレを続けてはいるが、色々試行錯誤した結果、筋トレアプリに落ち着いた。ユーチューブだと選択肢が多すぎてかえって困ってしまう。
独身の若い子と久々に飲み会で話したときに、その自由度の高さに驚いてしまった。うちの会社って、一課以外は残業してるひとが多いんだけど、若い子なんて全然自炊しない、お弁当も作らないって言っているし。
確かに。疲れてひとりで帰宅してご飯作るのなんて、よっぽど美意識や健康への意識が高いのでもない限り、無理ゲーだと思う。
昨日、炊飯器でバターチキンカレーを作っておいた。詠史には、別のささみのおかずを作り置きしてあるから、それを食べさせるだけだ。夕飯を今夜作らなくて済む。そんな些細なことがいっときわたしを楽にする。
詠史と夕飯を食べ終えて、シンクに溜まった皿を洗いながらふと……、考える。
才我さんのことを、下の名で呼んで抱きついてきたあの女性。才我さんは困ったように引き離してはいたが、要するに、元カノなのだろう。
じゃあわたしはこれで、と特に挨拶もせずにその場を去った。本カノなら自己紹介するとか、宣戦布告をするのが正義であろうが。……そんな気力は湧かなかった。
自分でも不思議だった。才我さんの気持ちは、その程度だったということか?
そんなふうには思っていなかった。わたしは、自分が、純粋に、才我さんを愛せていると――。
でも、明らかに若くて可愛い、独身に違いない女の子が現れたら、どうぞ、と譲れるわたしの神経。
才我さんに惹かれている、恋をしているのは確かなんだけれど。……もっと……ふさわしい女の子がいたら、譲るべきなのかなと、本能的に判断をくだしてしまった。
例えば。
才我さんは、詠史にやさしい。
ならば、自分にも子どもが、と思っても不思議ではない。
となると、四十三歳であるわたしでは、相応しくないのでは? と思えてしまう。
遠慮でもなんでもなく、本音だ。
尤もそれは、わたしひとりで決めるべきことではない。分かっている。話し合わなければ分からないと……思っているのに……逃げた自分。
そうしておいて、才我さんからの連絡を待っているのだから、勝手だ。いいわけくらいしてくれたっていいのに。ちぇ。シャ乱Qのあの曲のイントロが頭のなかで鳴り響いていた。ドラマも結構強烈だったのよね。中井貴一演ずる旦那が妻と子の留守中に女の子を家に連れ込んだりして。
あっこれ地雷だわ。
その晩、結局才我さんからの連絡はなかった。
* * *
「お先に失礼します」
とフロアのみなさんに挨拶をして、フロアを抜けてセキュリティカードをかざしてドアを開くとそこには。
「有香子。……ちょっと話そう」
「え……ちょっ……」こんな、誰が見ているかも分からない、フロアを出たビルの界隈にて。部下である人妻の手を引く行為はあまりに大胆過ぎる。
才我さんはずんずんとエレベーターホールを抜けて非常階段のほうへと進むとドアを開き、わたしを入れたと思ったら、
「……有香子……」
ドアの裏で、わたしをきつく抱擁する。
このひとの体温。匂いが、すごく好きだ。ときめいてしまう自分がいる。
「なんで……連絡……くれなかったの……」
弱々しい声で、わたしが言えば、才我さんは抱き締める手に力を込め、
「……有香子の顔を見てちゃんと話したかった……。
もしかして、妬いてる?」
いたずらに、わたしの顔を覗き込む才我さん。ふぬぅ! 憎たらしいくらいに綺麗だなぁ!!
「妬いてますよ。なんで、その場で、違う、って言ってくれなかったの……元カノでしょ彼女?」
一瞬。
鼻を膨らませた才我さんがどんな反応をするかと思えば、いきなり笑い出した。それも、爆笑、といった類の。
「ちょっともう……」可笑しそうにひーひー言っている才我さんの背をさすった。このひとの背中は広くてたくましい。「なんで笑ってるのよ。気が気じゃなかったのよ? あのあと、ふたりは、銀座のバーでカウンター席で飲んでるのかなぁーって。カクテルグラス傾けたりなんかしながら」
「あはは。それはない。本当に、ない」笑いすぎて出た涙を拭うと才我さんは、からだを起こし、
「……あの子は、ぼくの姪っ子」
オーマイ。
てっきり、元カノかと……。
脱力したわたしを才我さんが支えてくれた。ひゃぁー。とんだ、勘違い。穴があったらズブズブに入りたい……。
「笑うのも無理ないっしょ?
でもごめんね。誤解させたまんまで。……彼女。みどり、って言うんだけどね……結構有名人なんだよ? アメリカ帰りで、フィットネスで頑張っていて。
有香子も鍛えているから知ってるかもと思ったんだけど。違った……みたいだね」
「んもう。それなら早く言ってよっ」
「だってきみは――」なにかを言いかけたがそれを飲み込んだ彼は、「もういい」
そんなふうに抱き締められてしまうと。こころが、もっと、もっとと、あなたを欲してしまうよ。
わたしたち……こんなことしてちゃいけないのに。
わたしがあなたの胸を押すと、あなたは、すこし、寂しそうに笑った。「そだよね。すべてが落ち着くまでは我慢我慢」
「うん。……ごめんね」
「いいよ。愛している」
えっ。
さらりと言うなぁこのひと。
「ぼくは、有香子が好きだよ。
だから、きみと戦うし、
……きみのことを待つ。
そして、まるごと受け止めてやる。有香子が抱えているもの全部全部」
「……才我さん……」
「会社では広岡課長って言いな?」
世界一やさしいデコピンを見舞う才我さんが愛おしくて、つい、じゃれ合いたくなっちゃう。「広岡課長だってわたしのことを、有香子って……」
「誰にも渡したくないんだもの」
しれーっと言うけどそれ、殺し文句。
はひー。心臓がいくつあっても足りない……。
「あ、みどりが、有香子とも話したいって言っていたよ? 誤解させたのも申し訳なく思ってるみたいで。……彼女、アメリカ歴が長いから、相手が誰でもハグするんだ」
そっか。
こちらこそ気を遣わせて申し訳ないですみどりさん。
「彼女、結婚してるし、勿論ぼくとはそんな感じじゃないよ。年の離れた妹感覚、かな……。
面倒見がいい子だから、もし、きみの計画に人手が必要なら、力を貸してくれるとは思うけれど?」
そっか。そういう手があったか。……わたし。
なにもかもを、ひとりで抱え込んで。解決しなきゃならない、と焦っていた。確たる証拠の見つからないまま、時間ばかりが過ぎて。
憎しみが胸のなかに広がっていて、そんな自分を認めたくなくて。
「録画した動画もチェックするのも大変でしょう?」とわたしの気持ちを読んだかのように、才我さんは、「彼女。忙しいは忙しいけれど、ま、自宅にいることが多いから時間はあるし。
会って話だけでもしてみる?」
そしてトントン拍子で、早速この週末に、みどりさんと会うことが決まったのだった。
* * *
「ひどい。ありえないです」
話を聞いたみどりさんはなんと……ほろほろと涙を流した。わたしは慌ててしまった。ハンカチを差し出せば、
「うちのダーリンがそんなにも長い間騙してたとしたら。あたしは絶対に許さないわ。パンチしてやる」
いかにもフィットネストレーナー的な、美人さんのみどりさんはアラサーらしく。同調してくれる。
「有香子さんは。話し合おうとは思わないんですか?」
「無駄だもの」と答えた。「だってあのひと、頭固い昭和の日本男児だから。こっちがギャーギャー言っていてもフルシカトよ。都合の悪い意見は全然耳に入れないの」
はぁ、とため息を吐いたみどりさんは、ひどいですね、と整った、愛嬌のある顔を歪める。
「いまどきは夫婦平等が当たり前ですよ?」いかにもアメリカ帰りらしいアイデアをお披露目するみどりさんは、「……そんなひどい話があるなんて。……絶対に許せない……!! 有香子さんがやらないならあたしが旦那さんのことダルマにしてやりますっ」
ふっ、と笑えて気が楽になった。……ああ……この展開をきっと才我さんは予想してくれていたのだ。
土曜日なので詠史はお友達も予定が入っているらしく、お留守番かなどうしよう、と思っていたら、才我さんが、詠史くんはぼくに任せて、とシッター役を買って出てくれた。もはや、どちらがパパなのか本当に分からない。遊具のある公園に連れて行ってくれている。
お陰でみどりさんとゆっくり話せる。カフェのテラス席まで予約してくれていて。
「あたし、フリーランスなので比較的自由に動けるんです。なので、ご主人があやしいと思った日とか動けますよ?」
気さくにみどりさんは言ってくれる。けど。
「でも。みどりさんだってご結婚もされていてお忙しいんじゃ……」
「ううんうちのダーに話したらむしろ味方しろって絶対言うと思う!!」力説するみどりさん。「うちは夫婦分業なので、あたしが遅くなったら彼は自分で自分のことをするんです。結婚するときに、話し合って、そういうルールにするって決めたので。
……写真とかなにかあったりするんですか」
今日会ったばかりのひとにそこまで晒すのも。
と思ったのを読んだかのように、みどりさんは屈託なく言う。「あたしにとって。才我にーさんは、もう、兄貴的な存在なんです。あたし、アメリカで育った時期があって……日本だと浮くことが結構あって。向こうってむしろ、自己主張しないとやってけないですから。
あたしがフィットネスの道に進むことを親が反対したとき。才我にーさんは、間に入ってくれたんです……。あたしの動画見せて、どれだけ数字が伸びてるかとかファンがついてるかとか将来性のこととか教えてくれて。
そんな恩人である、才我にーさんの大切なかたが困ってらっしゃるんだから。……力になりたいんです」
「……室内に置いたカメラで撮影した動画と。友人知人のSNSのアカウントなら分かるけれど。いまのところは材料はそれだけ……なの」
自信なさげにわたしが言えば、それでも、みどりさんは目を輝かせて、分かりました、と言ってのける。
「SNSが分かるのなら。動画と照らし合わせて、なにか、証拠が見つかるかもしれません」とみどりさんは、むしろ、自信のある印象だ。
「不倫なんかする連中って、案外自己顕示欲が強いんで。SNSで匂わせてたりするんですよね。……大丈夫です。……なんか証拠が見つかる気がします」
そして彼女に任せて三日後。驚きの事実が判明したのだ。平日だったが、帰宅後、ビデオ通話でみどりさんと話した。
「スクショして送ったんですけど。……この拡大した写真で分かりますかね。
この女。赤い石のついたの指輪をしているんですけど……でこっちが、彼女のアカウントで投稿された写真で」
驚いた。
うちに上がり込んだ金髪の女のつけていた指輪と、《《彼女》》のある日のディナーでつけていた指輪が一致したのだ。
つまり。《《彼女》》が夫の浮気相手……。
しかも、指輪のスクショは、見事に撮れていて、とてもわたしには出来ない加工がされていた。カメラは遠目に小さくしか撮れていないのに、ズームアップで、かたちがはっきり分かるものとなっている。
指輪にはハートのデザインが施されており、嫌悪感が湧いた。
「どうします?」とみどりさん。「証拠としてはすこし、……決定打に欠けるかもしれませんが。揺さぶりをかけることは可能かと思います。
ディナーで意味深に、自分の手のアップの写真を撮っているじゃないですかこの女」
わたしじゃなくてみどりさんが怒っている。
「腹立ちますねー。だってこのひと。有香子さんの友達のフリをしておいてこんなこと――」
だよね。
許せないよね。
決定的な証拠とまでは言い切れないが、ひとまず、この間、わたしに会った後、彼女はわたしの夫と浮気をしたということだ。……前々からずっとその関係が続いていたのなら、益々許せない。
「会って――はっきりさせたい」
わたしは言い切った。
「少なくとも彼女が、うちにあがったのは事実なんだから。Xデーはまだ先だけれど、ケリをつけたい」
そしてその日のうちに《《彼女》》と連絡を取って、週末の土曜日に、彼女と会うことに決めた。
* * *
どきどきする……。
こんなかたちで彼女に会うだなんて。
ショックというか、まだ実感が湧かない。
彼女には、インスタで見た指輪が素敵だね、とだけ伝えて、仔細は会ってから話そうと決めていた。
都内の喫茶店を指定し、からん、とドアベルを鳴らして店に入ってきたのは、
「おー有香子。相変わらず気合入ってんねえ」
顎先までのボブにきつくパーマをかけた髪型が印象的で。今日もアヴァンギャルドなファッションに身を包む、水萌《みなも》だった。
* * *
一対一で。
しかし、隣のテーブルに、みどりさんに居て貰っている。彼女は、vlog用カメラがこんなかたちで役に立つなんてね、と複雑そうな表情をした。そのカメラで、証拠が出たときのために、録画と録音をしている。
わたしの話を聞いた水萌は、口をあーんぐりと開けた。
「……いや、なに言ってんの? はぁ? あたしがあんたの旦那と浮気なんか――」
「だってこの指輪が」
「いや、これ……」写真を見た水萌は当惑の表情を見せた。バツの悪そうな表情に変わり、「実は。こないだ、うちらでお茶した店にもう一回ひとりで行ったんだ。そしたら、化粧室に誰かが置き忘れていて。
届けよう、と思ったんだけど……なんか素敵なデザインで。無性に惹きつけられるものがあったんだよね。もいっぺんトイレ行ってもまだあって。だったら貰っちゃおう、と思って……」
なんということだ。
話を整理すると、わたしが水萌や真由佳、朝枝と会った直後に、金髪の女は、うちに上がり込んで夫と浮気をした。
それから間もなく、水萌たちと会った店を水萌が再訪し、水萌が、金髪の女がしていた指輪を盗んだ、ということになる。
かつ、水萌は、ひとりでバーに行ったときに写真を撮ったという。
「うち、バツイチだからさ」とため息を吐く水萌。「この年になって新しい出会いもなーんもないってわけ。昔みたくバーで飲んでても声をかけてくる男ひとりもいなくって。寂しくなってヤケクソで、写真投稿したの。
あたし、手は綺麗だからさぁ。
食いついてくる男いないかなぁって。
……いなかったけどね……」
自嘲的に笑う水萌はわたしの知らない闇を抱えていた。
カクテルグラスを傾ける女の優美な指先。バーと思われる瀟洒な場所で、水萌のプライドが。赤い石の指輪が、輝いている。
「……この間は、管理職なんて言ったけどさ……」一度弱音を吐くと人間、止まらなくなるらしい。この前会ったときよりも、水萌は、随分と疲れて見えた。「あれ。大嘘。本当は、仕事でポカやらかして、窓際族やってんの。暇で暇で。一日中、ボーっとしたり、コピー取ったりしてんのよ」
インスタは、虚構の場だと言われている。みなが見栄をはり、美しく着飾る場所。汚くて醜い嘘なんかいらない。きらびやかな虚構の世界。
そんな世界に迷い込んだ水萌は、とびきりの見栄をはりたくなった。その象徴が、あの指輪だということだ。
水萌は同じ大学の同じゼミを受講していて。一緒に切磋琢磨した仲間だ。
そんな大切な友達を疑うなんて。とさっきまでの自分を殴ってやりたい気持ちもあるし。
一方で、水萌の抱え持つ孤独は相当なものなのだと……悲しみを抱いてしまう自分もいる。
それから、水萌とは世間話をして別れた。わざわざ休みの日に時間を作って、お子さんは実家に預けてまで来てくれたのだ。そのことに礼も言った。
水萌が帰るとみどりさんはこちらにやってきて、シロですね、とつぶやいた。
「……でも。有香子さんと水萌さんと朝枝さんと真由佳さんの四人が集まったカフェでわざわざ金髪の女が指輪を洗面所にこれ見よがしに忘れていくなんて。意図的なものも感じます。
正直言って、有香子さんの大学の仲間のなかに浮気相手がいる気はするんですが……」
「仲間を疑うのは気が引けるけれど。だからもうすこし、証拠を集めてから動くことにするわ。水萌にも悪いことをしたし……」友達なのに。疑った。話したくもない話を暴露させて。水萌のつけていた大切な仮面を剥がしたのだ。そのことに、罪悪を感じている、それが本音だった。「金髪の女は、水萌の隠し持つ闇を知る人物に違いないわ。分かっていてわざと、水萌に指輪を盗ませた。水萌の事情に詳しい人物ね。社内での立ち位置も分かっているのかもしれない」
「プールで有香子さんの足を引っ張ったのと、キャンプで有香子さんを遭難させかけた人物が別だとしたら。この一連の事件に関わっている人間は三人、ということになりますね。……おそらく二人以上いるのは確実ですが。
怪しいのは、有香子さんの大学時代の仲間。鷹取家の面々。それから、会社のメンバーとなりますね」
「そうね。……かつ」当の才我さんは、本日はまたも、詠史をレジャーに連れて行ってくれている。水分補給もこまめにと、ひえひえの水筒を持たせた。「……うちひとりは、なにかしらの執着心を広岡さんに抱いている……かつ、わたしに嫉妬している人物ね」
すると心配そうにみどりさんが、「……有香子さん。大丈夫なんですか? ガードとかつけなくて」
「ううん。……犯人の読みが大体分かってきたから」さらりと、アイスコーヒーを飲みわたしは言った。「ひとりは、激しくわたしに嫉妬しているのよ。広岡さんとプールに出かけたわたしを尾行してまで、わたしを追い込みたかった。つまり、この人間Aは、広岡さんとわたしがいるところが面白くないのよ。広岡さんのいる前で、わたしを痛めつける必要がある。裏を返すと、広岡さんといちゃいちゃしない限りは、わたしは無事、ということよ」
そしてそのAが〇〇さんという可能性も捨てきれない。ううむ。こちらもなにか、確固たる証拠が欲しいところではある。
「あたし、これでも、フィットネスのプロなので。……有香子さんが提供してくださった写真と、改めて、動画に映っている金髪の女との体格が似ているかどうか。そっちの方面からも探ってみますね。……まぁ、身長160cm前後の女なんて珍しくもないのですが」
そうなんだよね。自宅のカメラだと遠すぎてよく分からない。「にしても奇抜なファッションで金髪のウィッグまで被るなんて。このひと、相当の変わり者よ。……かつ」
手元のグラスが濡れている。その水滴を手で包みながらわたしは、
「わたしに見られると困る人物。――わたしに近い人間、ということよ」
* * *
以降は、平穏無事に過ごせた。
というのは、休みの日は、最近ずっと、お出かけや調査が続いていたので、すこし、骨休みを入れようと思ったのだ。
才我さんと一緒に出掛けることさえしなければ、主犯Aは手を出してこない。――この読みは当たっていた。
一日中詠史とトランプをして過ごしたり。近くの公園で、バドミントンをしたり。一緒にネトフリで映画を見たり。穏やかで……落ち着いた時間。
こんな時間を過ごすのは久しぶりだと思った。
でも。この平和が長く続かないことをわたしは知っている。
夏休み、ぼっち気味で暇を持て余していた詠史は、学校に戻ると疲れ気味ではあったが、やはり、生き生きとしていた。同級生の男の子にわがままでいつも女子たちをいじめる子がいて大変だとこぼす。スルーするスキルを身につけなさい、とわたしは教えた。
「いちいちまともに取り合っていたらきりがないわよ。詠史が噛みつくから相手も噛みつき返してくるのよ。
ぎゃんぎゃん言い返すのではなく。へー、そう。そうなんだー。
……なんて相槌を打てば、相手はびっくりするわよ。詠史をからかうのがつまらなくなってやめる」
でも、と詠史は、表情を変えずに静かに言った。「鷹取の家ではそれが通用しないよ」
「……ごめんね」息子の肩を抱いた。わたしがしてあげられることはあまりに少ない。「鷹取の家に行くのはお盆が最後で。うちにみんなを集めるのはクリスマスイヴだから。もう、鷹取の家に行くことはないわ。母さんが約束する。……いままで辛い想いをさせてごめんなさい……」
「母さん泣かないで」息子に涙を拭われる始末だ。「これも人生経験のひとつだから。何事も経験経験」
これではどちらが親だか分からない。母を諭す詠史が頼もしかった。
* * *
「……九月の終わりに詠史の運動会があるんだけど。
あなた、予定は空けているわよね?」
「はぁ? 何日?」
「30日。土曜日の午前」
……小学校の予定なんて。年間行事予定表が発表された四月に即、わたしはスマホのスケジュール管理アプリに入れている。だから絶対に空けているのに。平日になにか行事があっても休むのは必ずわたしだ。繁忙期もあるが調整をしている。前日に残業をするなどして。
なのに。面倒くさそうにこのひとは、ぼりぼりと頭を掻きながら、ソファーでだらだらと、
「……その日、サッカーがあるから、無理」
どこの世界に、自分の愛する息子よりも、サッカー観戦ごときを優先する親がいるというのか。――いや、ここにいる。
冷えた気持ちで夫を眺めた。もう、このひとの顔をまともに長く見ていない。
「ふぅん。そうなんだ。……別にサッカーなんて後で動画見ればいいじゃない」
「年間チケット買ってるし。勿体ないだろ。金払ってんのはおれだぞ。文句あんのか」
白けた気持ちでわたしはそれでも、「……詠史が悲しむでしょうね」と抗ってはみたが、無駄だった。
「詠史だっておれの情熱を分かってくれているさ。東京。東京東京~」
チャント(応援しているサッカーチームの応援歌)を歌い出す夫を置き去りにしてわたしはスーパーへと向かった。
* * *
「あらま。……じゃ、ビデオ撮影とかどうすんの?」
「……ひとりでなんとか……」
「だって写真撮るひととビデオ撮影がいないと駄目でしょう? ぼくが行くよ」
え。それは流石に……。
昼休み。非常階段にて秘密の話をしている。キスしたい気持ちは我慢。メッ。
ドアの前に立ち、いちごミルク入りのパックをストローでちゅうちゅう吸いながら才我さんは、
「予行演習」
と微笑みかけた。
「ぼくがもし、きみと一緒になったら、詠史くんのパパにもならなきゃならないんだ。上手く行くかどうか――練習してみてもいいんじゃないかな? いまのところ関係は良好だし」
……まぁ、小学校に別に知り合いもいないし。いても、声をかける間柄でもないし。
こうして、詠史の運動会には、わたしと才我さんが一緒に向かうことが確定した。夫へは一応報告したが、は、またあいつか? と顔も知らないのにあいつ呼ばわりだった。そもそも自分が行かないからいけないんじゃん。他人をディスってる場合かよ。自分のせいだろこん畜生が。
思うところはあれど、才我さんと詠史とまた三人で一緒に過ごせる……と思うと素直に嬉しかった。
詠史は詠史で、気持ちの整理をつける時間が必要だと思うし、ふたりの様子を見る限り、お互いがお互いを尊重しているのがよく分かる。パパ相手には絶対に見せない顔を詠史が見せることもある。真剣な顔つきでトランプをしたり、或いは、ジョークを言ったり。
詠史のなかでどんどん、才我さんの存在が大きくなっているのだろう。
そして無事、運動会の日を迎えた。当日は晴天で。コロナ禍であったがゆえにこれまでは少人数参加、ひと家族参加は父母のふたりまで、と制限がかかっていたが、今年からは比較的自由に行事が行われている。
やってきたのは、――
「おはようございます。わざわざありがとうございます。広岡さんも。――みどりさんも」
なお、みどりさんの旦那さんは、みどりさんがするフィットネスの企画運営立案を行っている多忙なおかたであるが、本日、うちの夫を尾行してくれている。写真を撮りまくってやります、と意気込んでいた。
――許せませんね。
とビデオ通話でお会いしたときに彼は言った。
「同じ男としてそれは許せません。有香子さん。ぼくも力になります」
と応援を申し出てくれたのだった。
才我さんは、黒のTシャツにデニムのパンツ。みどりさんは、アメスリのタンクにぴっちりとしたレギンスにシアーシャツを羽織ったスタイルで日焼け対策にと、ちゃんとキャップも被っていた。
みどりさんも入れたほうがいいだろう、と提案したのは才我さんだ。「きみとぼくがふたりきりになると、また、やらかすやつがいる。危険だ。もし、当日きみを見張るやつがいれば、みどりを入れれば相手はあれっ? と思うに違いない」
詠史は既に運動着姿で登校し、時間になったらこのグラウンドに姿を現す。楽しみに、そのときを、保護者席でカメラを抱えながら待った。
*