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離婚している人間とそうでない人間の違いはなにか。その答えを鈴原《すずはら》水萌は知っている。
レスだの旦那が粗大ゴミだの子どもが言うことを聞かないだの文句をつけながらも結局――満たされている。
このあたしの胸に空いた深い暗い穴は、なにをどうしたって生涯満たされない、と水萌は思う。それこそ、新しい男でも出来ない限りは。
会社では居場所がなく。娘は、小学生ながらに既に反抗期に入っており、小遣いをくれるばあばに懐いているところが憎らしい。だいたい、娘は、パパにそっくりだ。もう、過去の人だが。
離婚をしたと打ち明けるとだいたい、男が浮気したことを疑われるのだが、水萌の場合は双方――だった。
気づいたときにはばあばに娘を預け、ふたりとも浮気していたのだ。
元夫は、結局、浮気相手とは結ばれなかったらしく。また、水萌の場合は、社内の若手社員が相手であり、水萌は、上司の立場であった。露見したときに会社は、水萌を暇な部署へ追いやり、一方、男性社員は営業に回されることになったが。――水萌は、自分だけが損をした気がしている。相手の男の営業成績は上々だと聞き、それまた水萌には面白くない。
また、コロナ禍に入ったタイミングで浮気したのもまずかった。友人知人には真実を伏せてはいるが、会社にいるみなは知っている。鈴原さん、若い子に手を出して、下手こいたと。よりによってあんなにみんなが我慢していた時期に。
結果、水萌は益々くさくさした気分になった。コロナ禍で、飲み会に行けないのもうんざりだったし――時々ばあばに娘を預け、彼と、恋人同士のようにバーで酒を飲むのが気分転換だったのに……。
あの男は水萌の話をずっと聞いてくれていた。
なのに。
彼には、別れさえ伝えられなかった。ある日突然全社員宛にメールが来て、そして、人事部や上司に呼ばれた水萌は正直に打ち明けた。
メールには写真が添付されており、もう、隠せないと思ったのだ。隠しても無駄だと。子を育て、正義を諭す自分は、自分に素直であるべきだと思ったのだ。
それが間違いだったと知らずに。
正直者が馬鹿を見る世の中だ。水萌と彼は別々に呼び出され、それからまともに顔を合わせることもなく、水萌は、段ボールを手に、閑職へと追いやられた。
あのまま行けば部長も夢ではなかった。
悔しい。――苦しい……。
自分が悪いということくらい分かっている。けれど。
何故。傷めつけられるのはいつも女のほうなのだろう。
母親が不倫をすれば、子どもを放置して、と必ず母親が叩かれるが。一方、男が浮気をしたときには父親が育児を放棄してとか、男がシンパパでもない限りは、そんなことは言われない。いかに、日本の子育てのしわ寄せが母親に集まっているか。その証左であろう。
会社では冷ややかな目線を浴び、母からも娘からも、どことなく、距離のある対応をされ、水萌は、気持ちの行きどころがなかった。苦しんでいた。
そんな日々に耐えていたある日、旧友から、久しぶりにみんなで集まらない? とお誘いがあった。会社に行けばいまだに視線が突き刺さる。誰からも責められている気分の水萌は、気乗りはしなかったが、ただ……自分の不祥事を知らない誰かに無性に会いたかった。汚れのない自分を取り戻したかった。
されど、その友人との交流が、知らず、更に、水萌を追い詰めることとなる。
* * *
浴びるように酒を飲んだ。
そしてそんな水萌に声をかける者は誰もいなかった。
つい、十五年前であれば、絶対に、声をかけてくる男なんざごろごろいたはずなのに。
オワコン、という単語が脳内をよぎる。……そうか……自分は終わったひとなのか……。
旧友との親交をあたためるべきお茶会では、みじめな気分となった。
先ず、有香子が、肌がぴっかぴかでコンディションがよろしく。爺が社長の細々とした零細企業に勤めていたはずが、いつの間にやら大手企業へと転職し、よりやりがいのある仕事をオファーされているという。
一緒に会社の愚痴を言えば楽になるかなと思ったのに。有香子は完全勝ち組、あっちがわのひとだった。
続いて朝枝はとにかくやたらと写真を撮る。すっかりインスタグラマー気取りだ。無名のひとのくせに。
と内心で小馬鹿にしていたはずが、朝枝のフォロアー数は、なんと二千人を超えるという。なんだそれではインフルエンサーではないか!!
朝枝のインスタを見ても特に物珍しいことはなく……風景や、博物館、美術館などの写真が多い……こんな写真なんか珍しくもないのに。内心で水萌は毒づいた。
それでも、料理の写真を撮る腕前は、流石だと感心してしまった。料理の写真は画角などが意外と難しいのだが、後で送られてきた、朝枝からの写真は、そのままウェブ媒体に載っていてもおかしくない出来栄えだった。
それに比べて自分の写真は……。
四人が映る写真を改めて見た。みな、四十代に見えはするが、肌艶がよく、健康なことが伝わる。あの真由佳でさえも。
それに比べて自分のビジュアル、奇抜なファッション……。鮮やかなグリーンに、ショッキングピンクの花を散らしたツーピースは、水萌のお気に入りの一帳羅のはずだが、他の三人と比べると、ひとりだけ五十代が紛れている? 思わず二度見してしまう出来栄えだだった。
写真なんか撮らなければよかった。
朝枝が言うから……。
どうせ今日の女子会も、インスタの材料にされてしまうのだろう。と思うとくさくさした気持ちになった。
さて、残る真由佳は最後の砦であった。
かつて、モテ子だった真由佳は、四十代の専業主婦らしく、髪をひとつにまとめた地味なスタイルで、ある程度は、水萌の承認欲求を満たしてはくれた。
あのときまでは。
「うん。分かった。そだよね。
まゆたんもともちんに会いたい♡」
お手洗いに行く途中、外で電話をする女の声が聞こえ、水萌は仰天した。……まさか。
かつて、大学時代はあんなにキラキラしていたのにいまは見る影もない、と内心で見下していたはずの平凡で地味なはずの真由佳に――男がいる?
真由佳は、明らかに疲れた四十女の主婦の顔をしていたが。何故か、右の薬指に指輪をしていた。赤くて小さな石のついた指輪は著しく水萌の気を引いた。
介護や育児のオンパレで疲れ切っている真由佳のどこにそんな余裕が? 何故、色気づいている?
壁に隠れ、水萌は、聞き耳を立てた。どうやら真由佳は、この女子会が早めに終わることを見据えて、この後男と会うらしい。
よくもそんな体力があったものだ、と水面はある意味感心する。水萌たち四十代女子ともなると、都心に出るだけでヘトヘト。大学時代の仲間と一緒だからつい、大学時代のノリに戻ってしまうが。あれから二十年の時が流れた。体力は落ち、昔と同じようには行かない。
昔であれば、終電まで酒を飲んでプリクラも撮ったというのに。外など暑すぎて人混みに疲れる。そういえば都心など、通勤電車に乗る以外ではまったく行かない。出かけるなら数駅の範囲内。近場に比べると都内はひとがやたらと多いし汗だくになるし、最初のお店を出た後はかるく東京駅周辺を観光したはいいが。疲れ果ててしまってカフェに行き、酸っぱいレモネードを飲み、帰りは混み過ぎた電車には乗りたくない、という暗黙の了解で五時に解散した。お年寄りかよ、と突っ込みたくなるくらいに健康的である。
この世代の女はやたらとノースリーブのワンピースを着たがる。すっかり地味女になったはずの真由佳が、鮮やかなイエローのワンピースを着てきたのを見たときに、水萌は、真由佳がしかしまだ、女を捨てていないことを悟った。
女は常に勝ちたい。
年齢にも。……かつての仲間にも。
そして、あの真由佳でさえも男がいるという事実を知ってしまった水萌は、翌週、やけくそで同じ店に行き、前回は飲まなかったお酒を頼んだ。
年を取ると何故か酒への欲求がなくなる。四十代に差し掛かった辺りから、水萌は、酒を欲さない自分に気づいた。無糖炭酸水や、冷たい麦茶、あったかいほうじ茶の旨さに目覚めたのだった。
その趣味嗜好はなにも水萌だけの専売特許ではなく。女子会にて、特に、有香子とは、冷たい飲み物やあたたかい飲み物を頼むタイミングが笑ってしまうくらいにドンピシャで同じだった。最初は暑い中を散々歩いてきたがゆえに、冷たい炭酸系のスカッシュを頼み、食事を食べて舌があまくなった頃にアイスコーヒー。甘味の残った口の中をシャキッとさせたかった。勿論、アイスコーヒーはブラックで、お砂糖もミルクもなしである。
それから軽食をつまみ、食べ終える頃には冷房のガンガン効いた室内、今度はあったかいほうじ茶が飲みたくなった。気の利く有香子は、ドリンクがノンアルだが飲み放題のプランを頼んでくれており、みなで喋り疲れた喉を存分に潤した。
でもまさかそんな……。
気になったことがあり、確かめるために年賀状をひっくり返して探した。全員の男の名前をチェックしたが、『とも』と名のつく男はこのなかにただ一人。
鷹取知宏。
有香子の夫の名前である。
考えすぎだろうか。まさか、……よりにもよって、いつもこの女子会のまとめ役を担い、皆への周知や店の手配など、面倒なことは全部してくれている、幹事であり、大切な旧友である有香子を、……真由佳が裏切るとでも?
酒をあおり飲む水萌は飲むことで考えを打ち消した。それでも思考はまとまらなかった。
あの真由佳でさえも男が……。
悔しい気持ちを抱え。先週、友達と談笑したばかりの店をひとり訪れ、ボーイハントを試みても誰も水萌には見向きもしない。男たちだけで飲む連中もいるのに……。
化粧室に行き、用を済ませ、手を洗うと、きらびやかな化粧台の上で赤い石のついた指輪が水萌を誘うかのように煌めいていた。
思わず手に取る。
こんなことをしてはいけない、と頭のなかでけたたましく警鐘が鳴り響くのに。気がついたときには、指輪をポッケにしまっていた。
どき、どき、どき……。
化粧室を出た水萌は、誰かが自分を見ているのではないかと怯えたがそんなことはなかった。みな、楽しそうに、仲間たちと談笑している。満ち足りた顔をしている。
こんな店になど来るのではなかった。置き去りにした青春の影。もう、あの頃には戻れない。体力が無尽蔵にあって、オールをしても、メイクなんか落とさなくっても肌がぴっかぴかだったあの頃には。
悔しかったのは、鍛えているらしい有香子が終盤まで体力を維持していたことだ。帰り際、別れる前は、正直水萌も、ヘットヘトの状態であったが――歩くスピードが若い頃に比べると格段に落ちた……しかし有香子は背筋をピンと伸ばしてヒールのある靴なんかで丸の内にいる若いOLのように颯爽と歩く。水萌は、ヒールなしのパンプスでずるずる歩くのがやっとだというのに。
友人たちとの語らいは楽しくもあったが、水萌の抱え持つ孤独を加速させた。店を出て、薬指に指輪をする頃にはもう、罪悪の念など消え失せていた。
女でありたい。
女として、戦いたい。
そして有香子に恥ずかしい自分の秘密を打ち明けた水萌は、ある決意を固めていた。
真由佳は男と浮気をしている。
ひょっとしたら、その相手は、有香子の夫なのかもしれないのだ。
有香子には勝ち組特有のオーラがあった。美貌は顕在で、きっと有香子がひとりでこの店に来ていたのなら、あの男連中は食いついたかもしれない……と思うとなおのこと悔しかった。
しかし、水萌が一番悔しいのは、自分が、大切にしていたプライドまで売り渡してしまったことだ。
失われたプライドを取り戻す。
そのためには先ず、暴かなくては。
真由佳の浮気相手が誰なのかを。
あの指輪を仕掛けたのが誰なのかを。首謀者が、必ずいるはずだ。
こうしてまたひとり、戦う女性が現れた。奇しくも彼女は、有香子の力強い味方となる。
*