──コポポ⋯⋯!
精神の鏡の水面が不穏に揺らぎ
そこにざらりと波紋が走った。
水面の底から現れたのは、覗き見る者の瞳。
アースブルー。
感情の色が剥がれ落ちたような
冷えた深海のような蒼。
その奥で爛々と愉悦に燃える光が
獲物を狙う獣のように細く光っていた。
続いて、歪んだ冷笑。
引き攣るように片方だけ吊り上がった口元が
水面越しに不気味な影を落とす。
「駄目だっ!アラ──」
ライエルが、そう叫ぼうとした瞬間──
水面を突き破るように蛇のような腕が伸び
ずぶりと彼の胸元を掴んだ。
言葉は最後まで紡がれなかった。
「っ⋯⋯!」
ライエルは必死に抵抗する。
精神の内側に築いた静寂の場
聖域とも言える場所で
自らを保とうと力を込める。
だが──
力の差は歴然だった。
精神力そのものが違う。
冷徹な意志と、圧倒的な〝支配〟の才。
鏡の主は
ただ微笑むだけで、彼を捻じ伏せる。
──ずぶんっ!
鏡の中に、ライエルが引きずり込まれた。
水面は一瞬静まり返り
誰もいなくなったはずの世界に──
──ばしゃ⋯⋯っ
水飛沫を上げて、アラインが現れた。
冷ややかな黒の神父服。
整った身形、静かに歪んだ笑み。
それは、確かに〝ライエル〟でありながら
まったく〝別人〟の現れだった。
現実。
ギャングの男は
沈黙したまま動かないライエルの様子に
最初は〝怯え〟だと考えた。
逃げない、叫ばない、震えもしない。
その代わりに──
口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。
まるで皮膚の内側から
別の存在が滲み出るように
表情が、奇妙な〝弧〟を描き始めた。
「っ⋯⋯な、なんだ、てめぇ⋯⋯っ! 」
男が一歩、後退る。
──だが、遅かった。
彼は、もう触れてしまったのだ。
この肉体に、魂に
そして──脚本家の〝物語〟に。
アラインは、ふっとその手を振り解いた。
無駄な力など込めていない。
握る感触を残さず
ただ自然と流れるように離す。
それと同時に、重心が低く沈む。
神父服の腰──
ライエルが〝姿勢矯正〟と
信じて疑わなかった内側の構造へ
アラインの指がすっと差し込まれた。
革のホルスターが、わずかに鳴る。
──カシュッ
乾いた音と共に、逆手で引き抜かれたのは
30cmの艶消し黒鋼のパリングダガー。
その名は
Zwillingsrichter
──双刃の裁定者。
右手のナイフ。
その刃の根元には、刃のない領域──
リカッソが長く設けられていた。
受け流しに特化した〝盾〟の刃
Schuld──罪。
ギャングの男の目が見開かれる。
神父の服の下から
殺意のある〝刃〟が現れたという事実に
反射的に腰の銃を抜いた。
そして──
そのまま
傍らにいた老婆の背に銃口を押し当てる。
「おい、近寄るな!
ばばぁが、どうなっても──っ」
だが
アラインの目はまったく揺らがなかった。
冷笑は、むしろさらに濃く、深く
そして、嬉々として。
その笑みが意味するのは──
〝つまらない台詞〟
アラインは、言葉もなく
ゆらりと一歩、踏み出す。
姿勢を低く保ったまま
黒の神父服が風を裂くように揺れた。
男が引き金に指をかける。
──パンッ!
銃声が、アラインへ向けて走った。
同時に
アラインの身体がふわりと横へと舞う。
長年仕込んだ足の捌きと
尋常ならざる身軽さ。
常人の感覚を外れた重心の流し。
発砲の音が耳に届く前に
アラインは射線の外へと跳んでいた。
観客がいたなら
それは〝踊り〟に見えただろう。
美しく、優雅で
そして──致命的な一手前。
背後にいたスタッフ──
老婆を庇おうと駆け寄る青年がいた。
その青年に向かって飛ぶ弾丸を
アラインは
右手のSchuldのリカッソで受け止めた。
金属と金属が、鈍く噛み合う音。
そして、左手が、動く。
──柄を握ったその刃は
刺突特化の鋭い造り。
Urteil──裁き。
その瞬間
アラインの全ての動きが
〝殺意〟に切り替わった。
刃先は、迷いもなく
男の喉元へ向かっていた。
無駄な威嚇も、余計な演出もない。
これは裁き。
そして、脚本に刻まれた──〝必然〟
⸻
「カアアアッ!」
空を裂くような鋭い鳴き声が
広場に響いた。
その瞬間──
アラインの左手に握られた
Urteil〝裁き〟の刃が
一直線に男の喉元を貫かんと振り下ろされた
その瞬間だった。
──バサッ!
突如として
何処からともなく一羽の烏が舞い降り
刃の軌道に
自らの身を滑り込ませるように
割り込んできた。
アラインの動きは一瞬たりとも迷わなかった。
刃は──
その烏を、確かに〝斬った〟
だが──
「⋯⋯っ!?」
羽根の散る感触と同時に
ぶしゅっ!という濁った破裂音。
手応えは、肉でも骨でもない。
斬ったはずの烏は
まるで墨を満たした水風船のように
空中で破裂した。
黒い飛沫が一気に弾け
アラインの顔面に、服に、そして前方に──
視界を染めるように
黒墨のような液体がべったりと飛び散った。
「──っ、ぐ⋯⋯!」
一瞬、瞳を閉じる。
墨のような液が目に入り
視界が黒く潰れる。
手で拭っても、ぬめりが残り
ぼやけた像しか映らない。
だが──
(⋯⋯奴を切った感触は、無い)
手元には血の匂いもなければ
筋肉の軋みもない。
アラインは静かに一歩
跳ねるように後退した。
そして──
くつ、と片足で地面を鳴らし、低く笑った。
「⋯⋯ふふ。なるほど。
利口すぎると思ってたけど⋯⋯
そういうことか」
左手のUrteilを軽く振り
刃に付着した液体を払い落とす。
そして逆手に構え直し、ぼやけた視界の中
音と気配だけで周囲を探る。
同じように、地面に蹲る男がいた。
銃を取り落とし、目元を押さえ
呻き声を漏らしてのたうっている。
完全に視界を封じられ
何が起きたのか
理解すらできていないようだった。
アラインは、墨が乾きかけてくる視界の端に
男の頭部の輪郭を捉える。
そのまま、音を殺して近付き、しゃがむ。
──カシュッ!
刃の先端が
男の頬を掠めるようにスッと滑る。
「⋯⋯運が、良かったねぇ?」
男の目のすぐ傍
地面に突き立てられた刃が
かすかに震えていた。
男は声にならない喘ぎを漏らし
完全に硬直している。
アラインは、耳元で囁いた。
甘く、静かに、ひどく冷たく──⋯
「次からはね、優しい言葉のうちに
お利口にしておくことをオススメするよ」
その言葉に続けて
アラインはくすりと笑った。
けれど、その笑みには一片の慈しみもない。
「それと⋯⋯
今後、どんな喫茶店に入る時も
祈りを忘れちゃいけない。
まるで、教会に入る時みたいにね?」
言い終えると同時に
アラインはゆっくりと立ち上がる。
視界はまだぼやけていたが
それでも彼の身体の芯は
一切ぶれていなかった。
その背後──
電柱の上。
一羽の烏が
黙ってアラインの動きを見守っていた。
もはや何も言うことはなく
ただ静かに──
その全てを〝報告〟として刻み続けていた。