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視界の中
黒い墨のような液体が
まだうっすらと瞼の裏に焼きついていた。
アラインは、無造作に右手の──Schuldを
神父服の内側へと差し入れ
音もなくホルスターへ収めた。
続けて左手の刃──Urteilも
逆手のまま滑らせるように納刀。
革製の鞘が
まるで彼の一部のようにそれを受け入れた。
「⋯⋯やれやれ。
手間かけさせてくれるよ、まったく」
うっすらと笑みを浮かべながら
アラインは目元を袖で拭い
残った墨を軽く擦った。
そして
何事もなかったかのように歩みを戻す。
広場には、沈黙が降りていた。
先程まで
歓声と笑い声に満ちていたその場所には
言葉を失った者たちが
遠巻きに立ち尽くしていた。
神父がナイフを抜いた──
その一事は、あまりにも非現実的で
あまりにも衝撃的だった。
スタッフの一人が
子供たちの前に立ちはだかるように
身を寄せたまま呆然としている。
が、それでも──
その視線の先
子供たちの反応は様々だった。
「すっげぇ⋯⋯!」
「先生、かっこよかった!」
何人かの少年たちは
憧れの眼差しでアラインを見上げていた。
悪人を前にして、容赦なく対処するその姿は
彼らの〝正義〟と興奮を揺さぶった。
だが──
「うっ⋯⋯うわああぁぁん!」
別の小さな子供は、しゃがみ込み
手で顔を覆って泣き出した。
普段の穏やかな〝先生〟──
ライエルとのあまりの落差。
そこにいたのは、知らない人だった。
アラインは、ふとその泣き声に足を止める。
そして
すとんとその場にしゃがみ込むと
視線の高さを子供と合わせ
ゆっくりと、静かに微笑んだ。
それは──
柔らかくも、どこか異質な笑みだった。
甘い毒を塗ったような
どこか現実味のない優しさ。
同じ笑顔でも
ライエルとは決定的に違う〝何か〟
「⋯⋯おチビちゃん達には
ちょっと刺激の強い
〝大人の事情〟だったかなぁ?」
言いながら
アラインは手を子供の頭に伸ばしかけ──
思いとどまる。
指先をひらひらと揺らすように
振って見せただけで、触れはしなかった。
「大丈夫。
怖かったことなんて
すぐに〝忘れる〟から。
でもね⋯⋯一つだけ
ちゃんと覚えておくといいよ」
一拍、間を置く。
その声は、急に冷えて、低くなった。
「優しさだけじゃ
生き残れないってこと──ね?」
言い終えたアラインは、立ち上がった。
そのままくるりと踵を返し
今度は周囲を見渡す。
周囲には、怯えた顔。
言葉をかける者もなく、目を逸らす者。
誰もが、今そこに立っている神父が
さっきまで
〝笑ってサンドイッチを配っていた人物〟と
同じだとは、にわかに信じがたかった。
それでも──
アラインは堂々とその中心に立ったまま
黒い神父服の裾を揺らしながら
ゆっくりと腕を掲げる。
指を、ひとつ──
パチンッ!
乾いた音が、広場に響いた。
それはまるで、幕を引く合図のように。
そして同時に、全てを
〝なかった事〟に変えていく合図でもあった
アラインはそのまま、瞳を閉じる。
精神の奥底。
鏡の水面が静かに波打つ。
彼は、ゆっくりとそこへ沈んでいった。
深く、深く──
静寂の底へと〝自分〟を還していく。
そして
広場に残ったのは
ほんのわずかな墨の跡と
誰もが見たはずの〝曖昧な記憶〟だけだった
⸻
「──アラインっ!!」
名前を叫ぶようにして
ライエルは目を見開いた。
光。
まばゆい太陽が、頭上にあった。
手をかざすと
指の間から
夏のように眩しい日差しが差し込み
まるで夢から
現実に引き戻されるような錯覚に襲われる。
木陰だった。
ライエルの身体は広場の片隅
噴水の傍の緑陰に寝かされていた。
舗装の冷たさはなく
下には敷物が敷かれ
額にはひんやりとした濡れタオル。
そのタオルを手で取り、半身を起こす。
「⋯⋯っ」
視線を向けると
隣には、先ほど自分の襟を掴んだあの男が
同じように横たわっていた。
乱暴に見えて整った寝姿。
鼻にかかった浅い寝息。
顔には、うっすらと
笑みすら浮かんでいるように見える。
「──え?」
周囲に目を向ければ、広場は⋯⋯
変わらず、賑わいの最中だった。
サンドイッチの袋が並べられ
スープの香りが風に漂う。
スタッフたちは忙しくも軽やかに動き
笑顔を浮かべる。
子供たちは、走り、配り、笑い
じゃれ合っていた。
──まるで何もなかったかのように。
「あ!ライエル先生おきたー!」
「あはは!
ライエル先生、ドジだなぁー!
〝ユリウス先生〟と二人して
顔にイカ墨が掛かって
頭ぶつけあって気絶しちゃうんだもん!」
子供たちが口々にそう言って笑う。
顔を赤らめ
無邪気な笑顔で肩を揺らす彼らの中に
不安や恐怖の色は微塵もない。
ライエルは、言葉を失った。
(イカ墨⋯⋯?
頭を⋯⋯ぶつけて⋯⋯?)
まったく覚えがない。
だが
それが〝今の現実〟であるかのように
誰もがその出来事を自然に語っている。
混乱と困惑で固まるライエルの耳に
そっと近付いてきた気配があった。
「⋯⋯アライン様が
事態をお納めくださいました」
低く、静かな声。
振り向けば
そこにはシスター・エミリアがいた。
ノーブル・ウィルの中でも
数少ない〝真実を知る者〟
アラインとライエルが
別の魂であることを理解し
口外せぬ忠誠を誓った者。
「この男も
既に記憶の改竄を受けております。
これからは
ノーブル・ウィルのスタッフとして
施設に協力させるそうです」
「⋯⋯そ、そうですか」
ようやく絞り出したその声は
どこか上ずっていた。
意識が覚醒しきらないせいではない。
この短い間に何が起こったのかを
正確に理解しているからこそだった。
──アラインが、すべてを整えた。
記憶の改竄。
子供たちの精神的動揺の消去。
暴力の痕跡の完全な消失。
そして
最も難しいはずの敵性人物の〝味方化〟
たった数分。
いや、それ以下だったかもしれない。
それでいて
完璧な〝舞台転換〟が為されていた。
ライエルは、ふと目を伏せた。
配られるサンドイッチ。
広場に並ぶ列。
笑い声、感謝、安堵──
善意と支援と、あたたかさしか存在しない。
それは、誰が見ても
〝美しい光景〟だった。
だが──
その舞台の裏には
観客の誰も見えない
黒い糸が張り巡らされていた。
アラインの精神の鏡の奥。
〝今〟を操り終えた脚本家は
その舞台を舞台として認識すらしていない。
(ふふ⋯⋯最高だね。時也)
視界の端に浮かぶ烏の影。
その黒い姿を見て
アラインはゆったりと笑っていた。
(ボクの書いた物語に
そう易々と水を差してくる。
それが今じゃ、ボクの楽しみのひとつだよ。
⋯⋯筋書き通りだけじゃ、ね。
ほら、スリルが無いと
芝居ってつまらないじゃない?)
その笑いは、声に出ることはなかった。
だが確かに、心の奥底で燻りながら──
次の場面を、既に〝設計〟していた。