「健やかなようで何よりです、ベルニージュさん」
ベルニージュの母は柔らかながら明瞭に、ユカリの頭上でそう言った。
その声は春に彩る野原にそよと吹く親しみやすい風の調べであり、底冷えした勤め多き体を労わる炉辺の温もりだった。
その言葉を受けてベルニージュの眼差しは鋭さを増す。
「母上も、変わらずお元気そうで」
「リトルバルムはどうでしたか? ベルニージュさん。貴女の母上に教えて下さる?」
「外れ。噂は噂だね」とベルニージュは呟く。「その子を離してよ。ワタシの友人なの」
「煙の下には火があるものですよ。ベルニージュさん」ベルニージュの母の声がユカリの耳元に近づく。「ちょっとした悪戯です。許してくださいね」
唐突に己の心を縛る何かが消え、ユカリは罠から逃れた獣のようにベルニージュの元に駆け寄って振り返る。
「吹き飛ばす?」とグリュエーが尋ねる。
「まだ」とユカリは答える。
ユカリは威嚇する獣のような視線を投げ掛ける。
ベルニージュの母と名乗る女に、ベルニージュに似ているところはない。丸い目に扇の様な睫毛、形の良い弧を描く鼻に豊かな赤い唇。とても背が高く、それでいて満月のようにふくよかな体つきの婦人だ。身に纏っているのは夜闇のごとく暗き天鵞絨の長衣。革の長靴は歩くのに不都合がありそうなほど踵が高い。黒の出で立ちながら影のようではなく、濡れ色の艶がそこに充実する量塊感を際立たせている。淡黄蘗の髪は実り多き麦畑。旋毛からその腰までたっぷりと波打っている。その髪だけでベルニージュの身長よりも長い。
「そうかもしれない」とベルニージュは答える。「でも見えた灯りは探していた火ではなかった。それだけ」
ベルニージュの母は残念そうに溜め息をつく。
「そう。それで次は母上と同じように考えたのですね。ハウシグの大図書館で調べよう、と」
湛える微笑みは微温湯のように、ユカリの心の奥までじわりと温める。まるで見知らぬ他人ながら、愛用してきた毛布のように心まで包まれる気持ちになってしまった。それが同時にうそ寒いような気持ちも引き出していた。
「まあ、そうかな。その通りだよ」と答えたのち、ベルニージュは唇を真っすぐ横に引く。
そうこうする内に駆けつけてきた騎兵たちの跨る馬がどかどかと土を蹴散らし、白い息を吐きながら己の主の望む通りにユカリたちの周りを取り囲んだ。
「さあ、少し休んでいきなさいね。母上も彼らにお世話になっているのですよ」ベルニージュの母は初めてユカリに眼差しをやる。「そちらのお友達も疲れているんじゃないかしら? 少し怖がらせてしまったみたいですね」
そうしてベルニージュの母はユカリたちの横を通り過ぎる。
「母上は戦争に協力しているの?」と去り行く母にベルニージュは尋ねた。
「どうかしら、まだ分かりません」とベルニージュの母は答えた。
テネロード王国の兵士たちの不審の視線を潜り抜けて、即席らしき陣地を通り抜ける。組み立てる前の投石機や破城槌を乗せた荷車が並び、すぐにでも城塞を打ち崩す準備は出来ているようだ。
ユカリとベルニージュは古い革で出来た天幕へと案内された。中は雲雀の鳴く春の日差しを浴びた野原のように暖かい。そしてユカリはまるで異なる場所に迷い込んだかのように目を見張る。
とても戦場とは思えない豪奢な風情だ。どこかの名高き王城の一室をそのままここまで持ってきたかのようだ。誰の持ち物かは分からないが、ベルニージュの母のための天幕のようで、戦場にはいかにも不釣り合いな調度品が一揃えあった。
テネロードに伝わる羊歯を図案化した複雑な彫刻の箪笥や机。大河の岸辺で愛される波と魚を描いた透かし彫りの椅子、寝台。アルダニに広く見られる香り立つような黒檀の櫃には貝の象嵌が施され、見る者が瞬きする度に弾けて消える泡のごとく複雑に煌めいている。
ベルニージュの母は何気なく天幕の端を指さした。
「それを使ってくださいね。粗末で悪いけど」
そこには、まるで初めからそこにあったかのように、簡素ながら背もたれの張地の柔らかそうな木の椅子があった。ベルニージュが二脚とも運んできて並べ、躊躇いなく腰掛けるので、ユカリもその隣に座る。
ベルニージュの母はというと黒檀の櫃を開いて、ごそごそと何かを探している。
「アムゴニムの知恵者秘めし者を訪ねると言っていなかったっけ?」とベルニージュは言った。
ベルニージュの母が櫃から取り出したのは鉛釉の陶器の香炉と革の小包だ。そして小包の中から小さな木片を摘まみだす。
ベルニージュの母は答える。「もう訪ねて戻ってきたのです。ベルニージュさん。母上の一歩は山を越えるのですよ。でも収穫はありませんでした。記憶に関する第一人者、アムゴニムに名高き賢者と聞いていたのに、まるでお笑い種でした。黴の生えた呪術を披露された時はどうしようかと思ったものです」
聞いているだけだったが、ユカリにも母子の交わす話の方向性が何となく見えてくる。要するに、母子で手分けしてベルニージュの記憶喪失の解決策を探しているようだ。
「そう、それは残念だね」
「他人事のように言わないで」ベルニージュの母は手を止めて、わずかに語気を強めて言った。「貴女は記憶を無くしたままで良いと考えているの? ベルニージュ」
ユカリは緊張した姿勢で、母子の視線を交互に追う。
「そんなことないよ。言い方が悪かったかな。ごめんなさい」
「良いのですよ。母上も言いすぎました。誰より貴女が苦しんでいるのにね。ごめんなさい」
天幕に満ちかけた沈黙はベルニージュがすぐに払う。
「それで、母上。どうしてテネロード王国に協力しているの? 畑を焼き払ったのは母上?」
ベルニージュの母は脇机に置いた香炉の蓋を開き、小さな木片を微々たる呪文と一緒に灰に埋める。すぐに細い白煙を燻らせて、天幕に甘やかで爽やかな香りが満ちていく。
「この香り。好きでしょう? ベルニージュさん。貴女は幼い頃からずっとこの香りが好きだったの」
「覚えていません。残念だけど」とベルニージュは単調な声で言った。
「貴女の母上はまだ何もしていませんよ。畑を焼き払ったのもテネロードの宮廷魔術師だと聞いています。私がやれば、ああはなりません。煙も昇るべきことに気づかず、焼き尽くされることでしょう。私はただ記憶に関する蔵書が沢山あるという聖ジュミファウス大図書館に本を探しに来ただけです。そうしたらこの状況でしょう? どうしようかと悩んでいたら、ハウシグ市攻略の協力を仰がれたのです。ハウシグは強力な魔法使いを揃えているといいますから。そちらの相手を任されたのです」
「母上が手を貸せばすぐに戦は終わってしまうね。多くの犠牲を出して」
ベルニージュの母はすぐそばに置かれた白樫の孔雀椅子に楚々と座る。
「もちろん、そうでしょう。誰とて私の掌からは逃れられず、魂は煙となりて月に遣わせることになりましょう。ですが、それが可能だからといってそうすると決まっているわけではありません、ベルニージュさん。貴女も貴女の母上もただ大図書館に入りたいだけ。自分に無関係な戦争の勝敗なんて興味はない、そうでしょう?」
ベルニージュは母の問いかけには答えずに問い返す。「要するにさっさとテネロードを勝利させて、大図書館へ行きたいと、それだけなんだね?」
「他に何を望みましょうか。貴女の母上は貴女の幸いの他に望むものなどありません」
ベルニージュの母は穏やかな微笑みを浮かべてそう言った。
つまり本を読むためだけに城壁を破壊してハウシグ軍を蹴散らすと言っているのだ、と分かってユカリは戦慄した。それができるということにベルニージュも疑問を抱いていない様子だ。
その時、天幕の入り口が唐突に勢いよく開いた。
「先生! 一体何が!?」と威勢の良い溌剌とした声と共に、二十の夏を迎えていないであろう若い娘が飛び込んできた。
「あら、殿下。随分とお慌てのご様子ですこと」とベルニージュの母が落ち着きを崩さずに答える。
若い娘の声を聞いて、殿下という言葉を聞いて、ユカリは飛び上がって振り返る。今、目の前にいるのが何度も物語に聞き、夢にまで見たお姫様と呼ばれるような人物だ。
彼女が入って来ただけで、長い夜の明けるとともに爽やかな夏の一日をもたらす暁のように、眩く天幕が照らされる。黎明のごとき琥珀色の髪を振り乱し、いずれ可憐な蒲公英の綿毛を揺らす微かな吐息を零して、下ろし立ての絹織物のように輝かしい笑顔を三人に向けた。
強い意志の映える濃い眉に、好奇心と賢慮を思わせる眼差し。その立ち居振る舞いは行動力を骨組みに上品さで肉付けされ、燃え滾る魂を秘めている。身につけた衣もまた彼女の内面と外面に相応しく、頑丈で動きやすい柔らかな革で造られながら、その薔薇のような気品を顕現させる繊細な模様と細工を誂えていた。
一体、どう振舞うのが正しいのか分からず、ユカリは手も足もそれぞれに混乱し、ただただ狼狽える。さっさと天幕を辞するべきなのか、膝を屈して臣従の礼をとるべきなのか。悩んでいる内に王女の方が出て行こうとした。
「申し訳ございません。先生。何か、大事なお話の最中でいらしたのね。わたくしったらはしたないことをいたしました。当然、出て行くべきでしょうね。どうかお許しになってくださいな」
「お気になさらず殿下」ベルニージュの母は王女を呼び止める。「ちょうど此度の戦について、我が娘とそのご友人にお話しするところでしたのよ。それは殿下にとっても関わり多きこと、よろしければご臨席していただきとうございます」
すると王女は引いた足を止めて、困惑するユカリと澄ましたベルニージュを再び交互に見つめた。王女はどちらが『先生』の娘か見極めようとしたようだが、それは叶わなかった。どちらも似ていないのだから仕方がない。
ベルニージュの見よう見まねでユカリは足を引き、膝を曲げ、辞儀を行う。何とかつまづかずに済んだ。
王女を前にどう自己紹介しようかとユカリが臆していると、ベルニージュが先に口を開いた。
「初めまして殿下。ベルニージュと申します。お会いできて光栄です」
すると王女は目を見開いて、喜ばし気に面を輝かせながら、ベルニージュを上から下まで眺め渡すとその両手を包み込むように掴んで勢いよく上下に振る。
「ベルニージュさん!? 貴女が先生のご息女ですのね? 何度も何度も貴女のことは話に聞いていましたわ。とても素晴らしい娘がいると。わたくし、いつか会えはしないかと毎日夢に見ていましたのよ。それがこうも短い間にお会いできるなんて、それこそ夢にも思っておりませんでした。光栄ですって? わたくしの方こそ光栄ですわ。是非、先生のお話を聞かせてくださいませね」
「ええ、まあ」とベルニージュは濁す。これだけ褒められてもベルニージュは表情一つ変えなかった。
「わたくし、この数日あまりで今までの人生よりも多くのことを先生から学びました。先生のような方が母であるならば比類なき幸いを感じておいでなのでしょうね。勝手ながらわたくし、とても羨んでおりますのよ」
「ええ、まあ。そうですね。こちらこそ母がお世話になったみたいで」
王女の勢いにベルニージュはたじろいでいた。口角を上げようと頑張っていることはユカリにも分かった。
「そして貴女が」と言って王女がユカリの方に向き直る。「先生のご息女のご友人! ぜひ貴女とも仲良くさせてくださいませ。それでは、貴女はきっと先生のことはあまりご存じないのでしょう? いえ、でもどうかしら。母子ですもの。ベルニージュさんを通して先生を垣間見ていたかもしれませんね」
ベルニージュの母とはさっき初めて会ったばかりなのだけどと思いつつ、そんなことはおくびにも出さず、ユカリは背筋を伸ばす。失礼にならないように見つめすぎないように気を付ける。
「はい! ユカリと申します。殿下。こちらこそ末永くよろしくお願いします!」
おかしな挨拶を受けてなお王女は上品に微笑むと、ユカリとベルニージュにそれぞれに一瞥を送る。
「わたくしは、地図に記されなかったことがなく、またこれから先も永久に記されたる大河モーニアに寄り添いし、ハウシグ王国は国主赤の剣の娘、導きと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」
アクティアの自信に満ちた微笑みに、ユカリもまたぎこちない微笑みで返した。
てっきりアクティアがテネロード王国の王女だとユカリは思っていた。まさにいまテネロード軍に攻め立てられている国、ハウシグ王国の王女だったとは。