テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
※※
私はリビングを出ると、逃げ込むように浴室へと向かった。
鏡に映った自分の顔は明らかに赤く、酒のせいか、それとも羞恥のせいか、自分でもよくわからなかった。
「……どうしてこうなるのかな」
仕事中の自分は冷静だと思っていたのに、プライベートになると、どうも抜けている。
そう思うと、自然とため息が漏れる。
頭を振って気持ちを切り替えると、シャワーを浴びる。
――自分の家に男の人を泊めるなんて。
言葉にしてしまってから、どうしてあんなことを言ったのかと悔やんだ。
初めて家に来てもらうときも、仕事のことしか考えていなかったはずだった。
でも――誠のあの時の少し戸惑った顔が頭をよぎる。
きっと、あまりにあっさりと家に呼んだことに驚いていたんだ。
私はようやくそのことに思い当たり、そして「泊まっていって」と言った自分をひたすら後悔する。
夕食に招待することすら迷っていたのに。
シャワーを終え、髪を乾かしながら、誠が今どんな気持ちでいるのかを考える。
仕事のときはノーメイクでも平気なのに、こうして風呂上がりを見られるとなると……それとはまったく違う緊張感がある。
――何を着よう。
結局、選んだのは黒のシンプルな上下のパジャマ。
洒落た部屋着なんて持っていない。
いつまでも迷っていられないと、気持ちを押し込めてリビングへと戻る。
誠にこの気持ちを悟られてはいけない。
そっと扉を開けると、誠はソファに座ってビールを飲んでいた。
静かな空気。
『おやすみ』――そう言ってしまえば、それで済むのに。
なのに、私は思わず口にしていた。
「ビール、まだある?」
「おっ、出た……」
振り返った誠の言葉が途中で止まり、私は胸がドキンと跳ねるのを感じた。
――やっぱり、変……?
そんな不安がよぎるが、口にはできず、私は冷蔵庫の扉に手をかけた。
「私も、もう少し飲もうかな」
やけっぱちのような明るい声でそう言いながら、内心では泣きたいくらいに恥ずかしさでいっぱいだった。
きっと誠は、呆れてる。
そう思っていたのに――
「ああ、俺もビールいい?」
「うん」
なんでもないふうに応えてくれる誠に、私はそっと安堵する。
少し距離を取って座ると、チラリと彼の表情を伺った。
「ありがとう」
ビールを受け取って微笑んだ誠の顔に、呆れた様子は一切なかった。
その優しさに、少しだけ肩の力が抜ける。
柔らかな笑顔と、ふとした仕草に見え隠れするドキッとするような色気。
そんな一つ一つに、私は確実に翻弄されていた。
女癖がいいとは言えない人だと、そう思っていたはずなのに。
「莉乃? どうした?」
じっと見つめてしまっていたことに気づき、私は慌てて首を振った。
「ごめんね。思いつきでいろいろ誘っちゃって……」
素直にそう謝ると、誠は私の頬を指でムニッとつまんだ。
「俺はいいよ。でも、誰にでもそんなふうに誘うのはやめとけ。危ない男もいる」
「誰にでもなんて、そんなことするわけないでしょ」
そう返した直後、お互いの言葉の意味がじわじわと胸に浸透していく。
なんとも言えない沈黙。
恥ずかしさに耐えきれず、私はあわてて言葉を探して口を開いた――。
「優しい上司だもんね」
「……そうだよ」
誠は私を見ずに答えると、グラスに残ったビールを飲み干した。
その様子を見て、私は新しい缶を手に取り、誠と自分のグラスにビールを注ぐ。
「でも、本当に誠は優しい。いつもありがとう」
自然とこぼれた言葉。
こうして、なんだかんだ私に付き合ってくれるその姿勢が、単純に嬉しかった。
坂野真夢
1,327
#大人恋愛
美希みなみ
967
美希みなみ
291
笑顔を向けると、誠が私の髪をぐしゃぐしゃと撫でるように触れた。
「やめてー」
軽くじゃれ合うようになってしまい、私は慌てて誠の手を振り払った。
「まだ少し濡れてる」
ちょっとぶっきらぼうな口調に聞こえたけれど、私は自分の髪に触れる。
「そう? ちゃんと乾かしたんだけどな」
「うん、そうだよ」
乱れた髪を手櫛で整える私に、誠が柔らかい笑顔を向けてくる。
会社では見せないその優しい表情に、私は不意に胸が熱くなる。
――なんでだろう。
誠のことをもっと知りたい、そう思ってしまってる。
「何か映画でも見る?」
誠の言葉に、ハッと我に返る。
その想いを打ち消すように私は答えた。
「そういえば、ネット配信で気になってたのがあるんだけど……」
それから、二人で昔の懐かしい映画を見ながら、ゆったりとした時間を過ごした。
「莉乃、眠いんじゃないか?」
ふと、誠の声がして、私は曖昧に頷いた。
いけない、寝ちゃダメ――そう思って頭を振る。
「うん……」
そう答えつつ、重くなる瞼をどうにも保てなくなっていく。
(ベッドに行かなきゃ……)
そう思って、ソファに沈み込んだ身体をどうにか起こす。
「そろそろ寝ないとね」
「ああ、そうしようか」
誠があくびを噛み殺しながら髪をかき上げる仕草に、私は思わずドキリとする。
なんだか、無防備で、ちょっとズルい。
「明日は起こさなくて大丈夫?」
平静を装って問いかけると、誠は少し考え込むような仕草のあと、私を見た。
「俺は予定ないし、莉乃がいいなら」
探るような瞳。私は小さく首を横に振った。
「私は大丈夫だから。ゆっくり休んで」
「なあ、莉乃……」
少し気だるそうな、でもどこか真剣な声で呼ばれ、私は戸惑いながら返事をする。
「な……に?」
「俺を泊めて、怒る男いないの?」
誠がまっすぐに私の瞳を見て尋ねてくる。
「いたら、誠を泊めてないよ。……誠こそ、たくさん女の人がいるんだから、誰か怒らないの? 泊まるの慣れてるんでしょ」
そう口にした自分の言葉に、自分で驚く。
言いすぎた。完全に嫌味みたいになってしまった。
誠にどう思われたか不安になり、私は残っていたグラスのビールを一気に飲み干す。
「怒るような関係の人はいないし、俺、誰かの家に泊まることなんてないよ」
「え?」
思わず聞き返した私に、誠はハッとしたような顔を見せたあと、少し照れたように苦笑した。
「莉乃は気にしなくていい。明日車取りに来なくて済んで助かるし」
そう言って、そっと私の頭に手を置いて、ぽん、と軽く叩いた。
その手の温かさに、急にアルコールがまわるような感覚に襲われ、私はソファへとまた沈み込んでしまった。
「莉乃? 起きられる?」
「ん……」
なんとか起きなきゃ、と思うのに、身体が言うことをきかない。
誠のやさしい声が子守唄のように響く。
「まったく……無防備すぎ」
くすくすと笑うその声を最後に、私はそのまま深い眠りへと落ちていった。
眩しい光が差し込み、私はゆっくりと目を開けた。
あれ?
私、どうしたんだっけ?
ぼんやりする頭が少しずつ覚醒していくと、私はガバッと勢いよく起き上がった。
――嫌だ!
結局、誠にここに運んでもらったのだと気づき、大きくため息をついた。
あれほど飲みすぎて眠り込んではいけないと思っていたのに、あっさりと寝落ちし、誠に抱き上げられても目を覚まさなかったなんて――自分自身に驚かずにはいられなかった。
……やらかしてないといいけど。
そう思いながら、そっと部屋を出てリビングへ向かう。
まだ静まり返ったその空間に、誠の姿がないことを確認し、ひとまず安堵した。
キッチンでミネラルウォーターを一杯飲み干すと、手早く着替えとメイクを済ませて、朝食の準備に取りかかった。
昨日はかなりお酒を飲んでしまったこともあり、身体が和食を求めていた。
お粥を炊きながら出汁をとり、豆腐とねぎのお味噌汁を作る。
作り置きしてあった高野豆腐と大根の煮物も温め、あとは誠が起きてきてからにしようと決める。
そして、コーヒーメーカーに豆をセットし、スイッチを入れると、部屋中に芳醇な香りが広がっていく。
どうしてこんな、変な関係になっちゃったんだろう。
カップに注いだコーヒーを手に、私は窓際へと立ち、朝の空をぼんやりと見つめる。
初めは――顔が良くて、お金があって、女癖が悪くて。
最低な人だと思っていたのに。
だけど、一緒に過ごすうちに、誠の人柄に触れてしまった。
ただの上司ではない、ちゃんとした「人」としての誠を見てしまった。
気づけば一緒にいる時間が心地よくて、楽しくなっている自分がいる。
男なんてもうこりごりだと思っていたのに。
しかも、あんなハイスペックな人――絶対に手に負えるわけがないのに。
私はただの部下で、ただの一般人。
誠の周りには、いつだって華やかで色っぽくて、自信に満ちた女性たちがいる。
私なんか、きっとその枠にも入っていない。
大きなため息をついたそのとき、不意に背後から気配を感じた。
「どうした? そんなにため息ついて」
「っ!」
完全に自分の世界に入り込んでいた私は、突然声をかけられて驚き、手にしていたカップを落としそうになる。
「危ない」
誠がそっと私の手を包むようにして、カップを受け止めてくれる。
「おはよう」
まだスエット姿のまま、サラリと額にかかる髪。
完全に“オフモード”の誠に、私は思わずドキリとする。
「おはよう……」
なんとか挨拶を返しながら、乱れた鼓動を誤魔化そうと視線を逸らした。
「すごく綺麗な景色だな」
誠はそんな私の様子にも気づかないように、隣に並んで窓の外へと目を向ける。
都心からは少し離れているこの場所。穏やかに流れる川と、緑に囲まれた風景がそこにある。
「この景色が好きなの。……それより、よく眠れた? というか、私、昨日……」
記憶が曖昧なことが不安で、声をかければ、誠はクスリと笑った。
「大丈夫。電池切れみたいに、ぐっすり眠ってただけ」
その言葉に、羞恥で顔が熱くなるのがわかる。
……ぐっすりって。どれだけ無防備なんだ、私。
「本当に……ごめんなさい」
俯きながらそう呟くと、誠は柔らかな笑みを浮かべて私を見つめてくる。
その笑顔は反則。視線を外そうとした瞬間、誠が覗き込んできた。
「それぐらい、全然迷惑でもなんでもないよ。莉乃の寝顔、可愛かったし」
「誠っ!」
イジワルそうに笑いながら言ったその一言に、私は思わず声を上げる。
誠はさらに、私の頬を軽く撫でてから、ふっと笑った。
「顔、洗ってくるな」
そう言ってリビングを出ていく誠の背中を見送りながら、私は胸の奥がじわっと熱くなるのを感じていた。
……やっぱり、この人に触れられても、嫌じゃない。
そういえば、この前出かけたときもそうだった。
距離が近くても、手を繋がれても――嫌じゃなかった。
それどころか、誠の言葉や仕草にドキドキしてる自分がいる。
――いつから、こんなふうに思うようになったんだろう。
頭では「上司と部下」と理解しているのに、心がそれを超えて揺れている。
その現実に戸惑いながらも、私は誠がリビングに戻ってくる気配を感じ、小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと彼に視線を向けた。
「誠、朝食食べられそう? 私は食べようと思うけど」
まったく食に興味がない彼に、伺うように問いかけると、誠は笑顔で「食べる。ありがとう」と答えた。
その言葉に少し安心しながら、私はお味噌汁と煮物を温め、シラス入りの卵焼きを作る。
海苔や漬物を添え、焼き魚も悩んだが――昨日はけっこう飲んだし、これくらいでちょうどいいだろうと判断した。
ダイニングテーブルに料理を並べ、お茶を淹れて出すと、誠は見てすぐに笑ってくれた。
「すごいな、旅館の朝食みたいだ」
「本当? パンの日も多いんだけど、お酒を飲んだ翌日は和食が食べたくなるの」
少し照れくさくて、言い訳のように言ったけれど、誠は気にする様子もなく席に着く。
「白米とおかゆ、どっちにする?」
「俺は白米で。……っていうか、それも選べるのが驚きなんだけど」
素直な驚きに思わず笑みがこぼれる。
お茶碗によそって渡すとき、指が触れて――思わずドキッとする。
何を中学生みたいに……と自分をたしなめながら、私も向かいに座った。
「あ、この味噌汁、うまい」
「意外と家庭的でしょ? 私」
動揺を隠すように、少し強気なトーンで言ってしまった。
ふと視線を向けると、誠の瞳が一瞬揺れたように見えた。
少し間が空き、何か言わなきゃと私が言葉を探していると、先に誠が口を開く。
「莉乃、今日の予定は?」
「え? 特に……考えてないかな」
窓の外を見やりながら答えると、意外な提案が返ってきた。
「お礼って言ったらなんだけど、昼は俺にごちそうさせてくれないか?」
――まだ今日も、一緒にいられるってこと?
そう思ってしまった自分に驚きながら、私はそっと誠を見た。
本当に「お礼」だけの雰囲気で、他意はなさそう。
それに安心しつつ、私はゆっくりと頷く。
「いいの? 気にしなくていいのに」
「もちろん。こんなに世話になったんだから。せめてものお礼」
そう言って笑う誠は、卵焼きを口に運びながらどこか満足そうだった。
「じゃあ、片付けちゃうね。ゆっくりしてて」
「俺も手伝うよ」
二人並んでキッチンに立ち、洗い物をしながら交わすたわいもない会話。
ほんの数週間前までは考えられなかったような、穏やかな時間。
片づけが終わると、特にすることもなかったので、私はコーヒーを淹れることにした。
湯気の立つマグカップをぼんやりと見つめていると、不意に声がかかる。
「すごい綺麗な景色だよな。あの川沿い、桜?」
誠は窓際に立ち、外を眺めていた。
相変わらず、何気ない仕草ひとつにも色気がある人だなと思う。
カップを手に、私もそっと彼の隣へ。
コーヒーを渡しながら口を開く。
「春にはすごく綺麗に咲くの。桜。とっても好きな景色なんだ」
満開の桜が咲き誇る川沿い――あれを見て、この場所を選んだようなものだった。
「もう何度か見たの? ここにはどれくらい住んでる?」
「買ったのは、就職が決まってからだから……2年ちょっとかな」
少し考えてから答えると、誠は静かに「会社からは少し離れてるよな?」と言った。
その一言にドキッとする。
本当なら、もっと都心の便利な場所に住めばいいと思われても仕方がない。
「そうだね」
それだけを返すと、誠は特にそれ以上を問うこともなく、ただ外の景色を眺めていた。
「……都心の雑踏がないし、すごく落ち着くよな。こんなにゆっくりしたの、久しぶりだ」
その穏やかな笑顔に、私もようやく肩の力が抜けて、そっと笑みを返した。