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私はリビングを出ると、逃げ込むように浴室へと向かった。
鏡に映った自分の顔は明らかに赤く、酒のせいか、それとも羞恥のせいか、自分でもよくわからなかった。
「……どうしてこうなるのかな」
仕事中の自分は冷静だと思っていたのに、プライベートになると、どうも抜けている。
そう思うと、自然とため息が漏れる。
頭を振って気持ちを切り替えると、シャワーを浴びる。
――自分の家に男の人を泊めるなんて。
言葉にしてしまってから、どうしてあんなことを言ったのかと悔やんだ。
初めて家に来てもらうときも、仕事のことしか考えていなかったはずだった。
でも――誠のあの時の少し戸惑った顔が頭をよぎる。
きっと、あまりにあっさりと家に呼んだことに驚いていたんだ。
私はようやくそのことに思い当たり、そして「泊まっていって」と言った自分をひたすら後悔する。
夕食に招待することすら迷っていたのに。
シャワーを終え、髪を乾かしながら、誠が今どんな気持ちでいるのかを考える。
仕事のときはノーメイクでも平気なのに、こうして風呂上がりを見られるとなると……それとはまったく違う緊張感がある。
――何を着よう。
結局、選んだのは黒のシンプルな上下のパジャマ。
洒落た部屋着なんて持っていない。
いつまでも迷っていられないと、気持ちを押し込めてリビングへと戻る。
誠にこの気持ちを悟られてはいけない。
そっと扉を開けると、誠はソファに座ってビールを飲んでいた。
静かな空気。
『おやすみ』――そう言ってしまえば、それで済むのに。
なのに、私は思わず口にしていた。
「ビール、まだある?」
「おっ、出た……」
振り返った誠の言葉が途中で止まり、私は胸がドキンと跳ねるのを感じた。
――やっぱり、変……?
そんな不安がよぎるが、口にはできず、私は冷蔵庫の扉に手をかけた。
「私も、もう少し飲もうかな」
やけっぱちのような明るい声でそう言いながら、内心では泣きたいくらいに恥ずかしさでいっぱいだった。
きっと誠は、呆れてる。
そう思っていたのに――
「ああ、俺もビールいい?」
「うん」
なんでもないふうに応えてくれる誠に、私はそっと安堵する。
少し距離を取って座ると、チラリと彼の表情を伺った。
「ありがとう」
ビールを受け取って微笑んだ誠の顔に、呆れた様子は一切なかった。
その優しさに、少しだけ肩の力が抜ける。
柔らかな笑顔と、ふとした仕草に見え隠れするドキッとするような色気。
そんな一つ一つに、私は確実に翻弄されていた。
女癖がいいとは言えない人だと、そう思っていたはずなのに。
「莉乃? どうした?」
じっと見つめてしまっていたことに気づき、私は慌てて首を振った。
「ごめんね。思いつきでいろいろ誘っちゃって……」
素直にそう謝ると、誠は私の頬を指でムニッとつまんだ。
「俺はいいよ。でも、誰にでもそんなふうに誘うのはやめとけ。危ない男もいる」
「誰にでもなんて、そんなことするわけないでしょ」
そう返した直後、お互いの言葉の意味がじわじわと胸に浸透していく。
なんとも言えない沈黙。
恥ずかしさに耐えきれず、私はあわてて言葉を探して口を開いた――。
「優しい上司だもんね」
「……そうだよ」
誠は私を見ずに答えると、グラスに残ったビールを飲み干した。
その様子を見て、私は新しい缶を手に取り、誠と自分のグラスにビールを注ぐ。
「でも、本当に誠は優しい。いつもありがとう」
自然とこぼれた言葉。
こうして、なんだかんだ私に付き合ってくれるその姿勢が、単純に嬉しかった。
笑顔を向けると、誠が私の髪をぐしゃぐしゃと撫でるように触れた。
「やめてー」
軽くじゃれ合うようになってしまい、私は慌てて誠の手を振り払った。
「まだ少し濡れてる」
ちょっとぶっきらぼうな口調に聞こえたけれど、私は自分の髪に触れる。
「そう? ちゃんと乾かしたんだけどな」
「うん、そうだよ」
乱れた髪を手櫛で整える私に、誠が柔らかい笑顔を向けてくる。
会社では見せないその優しい表情に、私は不意に胸が熱くなる。
――なんでだろう。
誠のことをもっと知りたい、そう思ってしまってる。
「何か映画でも見る?」
誠の言葉に、ハッと我に返る。
その想いを打ち消すように私は答えた。
「そういえば、ネット配信で気になってたのがあるんだけど……」
それから、二人で昔の懐かしい映画を見ながら、ゆったりとした時間を過ごした。
「莉乃、眠いんじゃないか?」
ふと、誠の声がして、私は曖昧に頷いた。
いけない、寝ちゃダメ――そう思って頭を振る。
「うん……」
そう答えつつ、重くなる瞼をどうにも保てなくなっていく。
(ベッドに行かなきゃ……)
そう思って、ソファに沈み込んだ身体をどうにか起こす。
「そろそろ寝ないとね」
「ああ、そうしようか」
誠があくびを噛み殺しながら髪をかき上げる仕草に、私は思わずドキリとする。
なんだか、無防備で、ちょっとズルい。
「明日は起こさなくて大丈夫?」
平静を装って問いかけると、誠は少し考え込むような仕草のあと、私を見た。
「俺は予定ないし、莉乃がいいなら」
探るような瞳。私は小さく首を横に振った。
「私は大丈夫だから。ゆっくり休んで」
「なあ、莉乃……」
少し気だるそうな、でもどこか真剣な声で呼ばれ、私は戸惑いながら返事をする。
「な……に?」
「俺を泊めて、怒る男いないの?」
誠がまっすぐに私の瞳を見て尋ねてくる。
「いたら、誠を泊めてないよ。……誠こそ、たくさん女の人がいるんだから、誰か怒らないの? 泊まるの慣れてるんでしょ」
そう口にした自分の言葉に、自分で驚く。
言いすぎた。完全に嫌味みたいになってしまった。
誠にどう思われたか不安になり、私は残っていたグラスのビールを一気に飲み干す。
「怒るような関係の人はいないし、俺、誰かの家に泊まることなんてないよ」
「え?」
思わず聞き返した私に、誠はハッとしたような顔を見せたあと、少し照れたように苦笑した。
「莉乃は気にしなくていい。明日車取りに来なくて済んで助かるし」
そう言って、そっと私の頭に手を置いて、ぽん、と軽く叩いた。
その手の温かさに、急にアルコールがまわるような感覚に襲われ、私はソファへとまた沈み込んでしまった。
「莉乃? 起きられる?」
「ん……」
なんとか起きなきゃ、と思うのに、身体が言うことをきかない。
誠のやさしい声が子守唄のように響く。
「まったく……無防備すぎ」
くすくすと笑うその声を最後に、私はそのまま深い眠りへと落ちていった。
眩しい光が差し込み、私はゆっくりと目を開けた。
あれ?
私、どうしたんだっけ?
ぼんやりする頭が少しずつ覚醒していくと、私はガバッと勢いよく起き上がった。
――嫌だ!
結局、誠にここに運んでもらったのだと気づき、大きくため息をついた。
あれほど飲みすぎて眠り込んではいけないと思っていたのに、あっさりと寝落ちし、誠に抱き上げられても目を覚まさなかったなんて――自分自身に驚かずにはいられなかった。
……やらかしてないといいけど。
そう思いながら、そっと部屋を出てリビングへ向かう。
まだ静まり返ったその空間に、誠の姿がないことを確認し、ひとまず安堵した。
キッチンでミネラルウォーターを一杯飲み干すと、手早く着替えとメイクを済ませて、朝食の準備に取りかかった。
昨日はかなりお酒を飲んでしまったこともあり、身体が和食を求めていた。
お粥を炊きながら出汁をとり、豆腐とねぎのお味噌汁を作る。
作り置きしてあった高野豆腐と大根の煮物も温め、あとは誠が起きてきてからにしようと決める。
そして、コーヒーメーカーに豆をセットし、スイッチを入れると、部屋中に芳醇な香りが広がっていく。
どうしてこんな、変な関係になっちゃったんだろう。
カップに注いだコーヒーを手に、私は窓際へと立ち、朝の空をぼんやりと見つめる。
初めは――顔が良くて、お金があって、女癖が悪くて。
最低な人だと思っていたのに。
だけど、一緒に過ごすうちに、誠の人柄に触れてしまった。
ただの上司ではない、ちゃんとした「人」としての誠を見てしまった。
気づけば一緒にいる時間が心地よくて、楽しくなっている自分がいる。
男なんてもうこりごりだと思っていたのに。
しかも、あんなハイスペックな人――絶対に手に負えるわけがないのに。
私はただの部下で、ただの一般人。
誠の周りには、いつだって華やかで色っぽくて、自信に満ちた女性たちがいる。
私なんか、きっとその枠にも入っていない。
大きなため息をついたそのとき、不意に背後から気配を感じた。
「どうした? そんなにため息ついて」
「っ!」
完全に自分の世界に入り込んでいた私は、突然声をかけられて驚き、手にしていたカップを落としそうになる。
「危ない」
誠がそっと私の手を包むようにして、カップを受け止めてくれる。
「おはよう」
まだスエット姿のまま、サラリと額にかかる髪。
完全に“オフモード”の誠に、私は思わずドキリとする。
「おはよう……」
なんとか挨拶を返しながら、乱れた鼓動を誤魔化そうと視線を逸らした。
「すごく綺麗な景色だな」
誠はそんな私の様子にも気づかないように、隣に並んで窓の外へと目を向ける。
都心からは少し離れているこの場所。穏やかに流れる川と、緑に囲まれた風景がそこにある。
「この景色が好きなの。……それより、よく眠れた? というか、私、昨日……」
記憶が曖昧なことが不安で、声をかければ、誠はクスリと笑った。
「大丈夫。電池切れみたいに、ぐっすり眠ってただけ」
その言葉に、羞恥で顔が熱くなるのがわかる。
……ぐっすりって。どれだけ無防備なんだ、私。
「本当に……ごめんなさい」
俯きながらそう呟くと、誠は柔らかな笑みを浮かべて私を見つめてくる。
その笑顔は反則。視線を外そうとした瞬間、誠が覗き込んできた。
「それぐらい、全然迷惑でもなんでもないよ。莉乃の寝顔、可愛かったし」
「誠っ!」
イジワルそうに笑いながら言ったその一言に、私は思わず声を上げる。
誠はさらに、私の頬を軽く撫でてから、ふっと笑った。
「顔、洗ってくるな」
そう言ってリビングを出ていく誠の背中を見送りながら、私は胸の奥がじわっと熱くなるのを感じていた。
……やっぱり、この人に触れられても、嫌じゃない。
そういえば、この前出かけたときもそうだった。
距離が近くても、手を繋がれても――嫌じゃなかった。
それどころか、誠の言葉や仕草にドキドキしてる自分がいる。
――いつから、こんなふうに思うようになったんだろう。
頭では「上司と部下」と理解しているのに、心がそれを超えて揺れている。
その現実に戸惑いながらも、私は誠がリビングに戻ってくる気配を感じ、小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと彼に視線を向けた。
「誠、朝食食べられそう? 私は食べようと思うけど」
まったく食に興味がない彼に、伺うように問いかけると、誠は笑顔で「食べる。ありがとう」と答えた。
その言葉に少し安心しながら、私はお味噌汁と煮物を温め、シラス入りの卵焼きを作る。
海苔や漬物を添え、焼き魚も悩んだが――昨日はけっこう飲んだし、これくらいでちょうどいいだろうと判断した。
ダイニングテーブルに料理を並べ、お茶を淹れて出すと、誠は見てすぐに笑ってくれた。
「すごいな、旅館の朝食みたいだ」
「本当? パンの日も多いんだけど、お酒を飲んだ翌日は和食が食べたくなるの」
少し照れくさくて、言い訳のように言ったけれど、誠は気にする様子もなく席に着く。
「白米とおかゆ、どっちにする?」
「俺は白米で。……っていうか、それも選べるのが驚きなんだけど」
素直な驚きに思わず笑みがこぼれる。
お茶碗によそって渡すとき、指が触れて――思わずドキッとする。
何を中学生みたいに……と自分をたしなめながら、私も向かいに座った。
「あ、この味噌汁、うまい」
「意外と家庭的でしょ? 私」
動揺を隠すように、少し強気なトーンで言ってしまった。
ふと視線を向けると、誠の瞳が一瞬揺れたように見えた。
少し間が空き、何か言わなきゃと私が言葉を探していると、先に誠が口を開く。
「莉乃、今日の予定は?」
「え? 特に……考えてないかな」
窓の外を見やりながら答えると、意外な提案が返ってきた。
「お礼って言ったらなんだけど、昼は俺にごちそうさせてくれないか?」
――まだ今日も、一緒にいられるってこと?
そう思ってしまった自分に驚きながら、私はそっと誠を見た。
本当に「お礼」だけの雰囲気で、他意はなさそう。
それに安心しつつ、私はゆっくりと頷く。
「いいの? 気にしなくていいのに」
「もちろん。こんなに世話になったんだから。せめてものお礼」
そう言って笑う誠は、卵焼きを口に運びながらどこか満足そうだった。
「じゃあ、片付けちゃうね。ゆっくりしてて」
「俺も手伝うよ」
二人並んでキッチンに立ち、洗い物をしながら交わすたわいもない会話。
ほんの数週間前までは考えられなかったような、穏やかな時間。
片づけが終わると、特にすることもなかったので、私はコーヒーを淹れることにした。
湯気の立つマグカップをぼんやりと見つめていると、不意に声がかかる。
「すごい綺麗な景色だよな。あの川沿い、桜?」
誠は窓際に立ち、外を眺めていた。
相変わらず、何気ない仕草ひとつにも色気がある人だなと思う。
カップを手に、私もそっと彼の隣へ。
コーヒーを渡しながら口を開く。
「春にはすごく綺麗に咲くの。桜。とっても好きな景色なんだ」
満開の桜が咲き誇る川沿い――あれを見て、この場所を選んだようなものだった。
「もう何度か見たの? ここにはどれくらい住んでる?」
「買ったのは、就職が決まってからだから……2年ちょっとかな」
少し考えてから答えると、誠は静かに「会社からは少し離れてるよな?」と言った。
その一言にドキッとする。
本当なら、もっと都心の便利な場所に住めばいいと思われても仕方がない。
「そうだね」
それだけを返すと、誠は特にそれ以上を問うこともなく、ただ外の景色を眺めていた。
「……都心の雑踏がないし、すごく落ち着くよな。こんなにゆっくりしたの、久しぶりだ」
その穏やかな笑顔に、私もようやく肩の力が抜けて、そっと笑みを返した。