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パッチリと目が空いた千紘と凪の視線が至近距離でかち合う。凪はじとっと目を細くさせて、「単純だな」と言った。
「凪帰るの……?」
寂しそうに眉を下げる千紘は、今にもくぅーんと鳴き出しそうだ。凪は千紘から距離を取って「一緒に家出るから、早く支度しろよ」と頭をガシガシと掻く。
それから一度あくびをして、洗面所へ向かった。
勝手に洗面所の蛇口を捻って顔を洗った。ついでに髪も濡らして寝癖を直す。昨日千紘がドライヤーを取り出した場所からそれを出し、コンセントを繋げた。
その隣に並んだ千紘は、歯ブラシを手に取り歯を磨き始めた。
ブオオオォォっとドライヤーの風を髪にあてながら、洗面所の鏡越しに千紘の顔を見た。パッチリと目を開けていたはずが、歯を磨きながらウトウトとしている。
無理やり起きたから眠いのかと思いながら凪ももう一度あくびをする。
千紘が普段何時間眠っているのかは知らないが、一般的に4時間半の睡眠は少ない方だ。お互いに眠いのは仕方がないことだった。
歯を磨き終わった千紘は、そのまま浴室へ消えていった。すぐにシャワーの音がして、朝シャンするタイプなのか、と凪は後ろを振り返った。
昨日借りた歯ブラシで凪も歯磨きをして、勝手に千紘の化粧水を借りた。初めての泊まりだというのに、まるでホテルの物品を使うかのようにスムーズに支度をしていく。
洗面所を出ると千紘から借りた服を脱いで、自分の服に着替えた。凪もどうせ仕事前にシャワーを浴びなければならない。
帰宅してからでいいかと思いながら、本日の予定を確認する。
その内に千紘が現れ、凪を見てにっこりと笑った。
「目、覚めた」
そう言う千紘はとことん嬉しそうだった。凪は不思議そうに首を傾げて「なんかいいことあった?」と尋ねた。
「凪と一緒に住んでるみたいだなぁって思って」
デレデレとだらしなく頬を緩めている千紘は、自宅で凪と共に朝を迎えられることがよっぽど幸せなようだった。
「お前の家だからだろ」
凪はなんてことないように、またスマートフォンへ視線を移した。何件か予約が入っていて、客のプロフィールを確認する。
何度会っていたって興味がなければ彼女達の情報を忘れてしまう。前回話した内容も、好きな色や食べ物も。それらをピックアップしているアプリを開いて情報を見直すのだ。
千紘は何を見ているのかを気にしながら、凪の隣に座った。隠す気がないのか、スマホ画面は千紘から丸見えだった。
「それ、何?」
「客の個人情報」
「絶対ここで開いてたらダメなやつ」
「うん。だから見んなよ」
そう言いながら、凪はブツブツとプロフィールを呟いて情報を叩き込む。
「それ全員分あるの?」
「いや、何回かリピートしてくれた人の分だけ」
「そりゃそうか。何ヶ月か何年か前のお客さんとか覚えてる?」
「よっぽど印象深けりゃな。地味で普通ならすぐ忘れる。金持ってそうなら覚えてる」
「結局金か」
千紘はそう言って肩をすくめた。立ち上がってクローゼットに向かうと服を選び始めた。
凪はそれを何となく感じながら「お前は? 客のこと覚えてる?」と反対に尋ねた。
「俺、記憶力はいい方だよ」
「お前の予約取れないのに、覚えてんの?」
「大体初回ですんごい喜んでくれるからね。印象ガラッと変わった子とかは特に覚えてる」
「ふーん」
客情報を頭に叩き込んだ凪は、ぱっと顔を上げた。千紘は頭から黒のTシャツを被る所だった。鍛え上げられた腹筋が綺麗に割れている。
凪は、最近ジムに行くのもサボってたから行かなきゃなと思いながら自分の腹部を触った。
「それより凪、今日眠れた?」
支度を続けながら千紘が言う。
「ああ、うん。寝た感じする」
「よかった。またおいで」
千紘はクローゼットのドアを閉めながら少しだけ振り返ると、柔らかく微笑んだ。その対応が自然だった。
必死に次会える日を確保しようと足掻いていた頃の千紘はもういないように見えた。
あんなに鬱陶しく感じていた千紘が、サッパリとした人間に見えて凪は不思議だった。
人間の性格がそう簡単に変わるはずがない。それなのに千紘は初見から随分印象が変わったような気がした。
どちらかといえば、執着するのは千紘の方で樹月の行動も理解できるタイプの人間だと思っていた。それも樹月には至極真っ当な言い分で論破させた。
それを考えると、本来の千紘の性格はこちらで、最初の頃は余程凪の気を引くために必死だったのではないかと思えた。
元々まともな人間なら、わざわざあんなことしなくても普通に近寄ってくりゃよかったんじゃ……凪は顔を引きつらせながらそんなことを考えるが、丁寧に自分はゲイだが凪のことを好きになったからお近付きになりたいです。なんて言って近付いてきたら、確実に凪は警戒して当たり障りのない言葉で拒否しただろうと想像できた。
きっと千紘もそれがわかっていたから、強行突破するしかなかったのだ。おそらくどちらに転んでもチャンスはたった1回だったはずだった。
そう考えると、自分が今千紘といるこの時間は、本来絶対に訪れるはずがなかった時間なのだと感慨深くなる。
別に俺はそもそも男には興味がないし、コイツとこんな関係にならなくたって俺にはいくらでも女がいて……。
凪はそこまで考えて、考えるのをやめた。凪の周りには、掃いて捨てるほど女性がいたはずだった。
好みの容姿や体型をした女性もちらほらいたし、性格のいい子もいた。ただ、金を貰って女性と会うことを知ったら、プライベートで会うことなんてバカバカしく思えた。
そんな凪には、今プライベートで会える女性などいなかった。プライベートに切り替えようと思えばいくらでも方法はあるが、そうはしなかった。
自ら女性でなく、千紘と一緒に寝ることを選んだのだ。凪はそれすらも認めざるを得なかった。