凪は大きく大きくため息をついた。
「何のため息?」
千紘は髪をセットしながら視線だけ凪に向けた。もしかしたら、「またおいで」と言ったことに対して何か嫌な気分にさせたのではないかと気になった。
「いや、別に。明後日また来るわ」
凪はスマートフォンに目線を向けたまま言った。目覚めがスッキリしたこの朝をもう一度体感したかった。
千紘でしか絶頂を得られなくなったかもしれない。そう思った時に千紘の体でもう一度試したように。
あの時も後悔しながらも結局千紘に抱かれた。その後何度も。千紘とのセックスでは必ず快感を得ることができた。それは凪が望んでいたものだったはずだが、どうしたって体力は削られる。
忙しい凪にはその体力を回復させる時間が足りなかった。
もっと時間があったら抱かれてもいいと感じるのだろうか。そんなことを考えてみるが答えはわからなかった。ただ、千紘の隣でぐっすりと眠れたことは事実で、これが本当に千紘の影響なのかは知る必要があった。
千紘は、凪の言葉に髪の毛先を摘んだまま動きを止めた。一瞬凪が何を言ったのかわからなかった。
「……え?」
凪が自らまた来るなんて言うはずがない。今までの態度からそう思うのが当然だった。しかし、確かに聞こえたのだ。凪の声でまた明後日来ると。
今日は帰るし、夜は来ないが明後日の夜はまた来るということ。千紘から具体的にいつと誘ったわけでもない。もう来ないと言われることだって覚悟はしていた。けれどそれと同時に千紘の自宅を選んだ凪に期待もしていた。
だからといって、誰がこんなにも早く次の約束が取り付けられると思うだろうか。
「今日寝れたから。あ、言っとくけどなんかしたら二度と来ねぇからな」
凪は当然とばかりにそう言う。そんな凪はちゃんと千紘の顔を見て言った。照れ隠しなどせず、主導権は凪が握っているように見えた。
「ああ……うん。しないけど……明後日?」
「ん。お泊まりないから、0時で上がるわ」
「そう……。わかった」
千紘の心はなんだかふわふわしていた。本当は手放しで飛び跳ねて喜びたい程嬉しいはずが、驚きの方が勝って上手く表現できなかった。
千紘は、出勤してからも暫くぽやぽやとしていた。まるで現実味がなかった。一緒に家を出て、途中まで一緒に歩いた。
凪は自宅へ、千紘は職場へと別々の道を行く。
「じゃあ、また明後日ね」
「うん。仕事終わったら電話するわ」
凪がそう言って手を挙げた。
昨日会うまではもう何週間も会っていなかった。凪からの連絡だって何日となくて、既読マークがついているのに返信はなく、何度も自分が送った文章と睨めっこしたものだ。
いくら余裕ぶって見せても、千紘に余裕などあるわけがなかった。
連絡がないだけでいつだってもう二度と会えないんじゃないかと不安になるのだ。ラインのアカウントだって、電話番号だって確実なものではない。変えようと思えばいつでも変えられて、繋がりを絶とうと思えばそれもいつでも可能だった。
唯一約束されているのが次の美容院の予約くらいだ。予約表の大橋凪の名前を見て少しだけ安心する。けれど、それだって仕事の都合でキャンセルになるかもしれないし、再予約はされないかもしれない。
確かなものなど何もなく、当然心の繋がりもない。いつだって一方通行で、振り返ってくれるわけがないとわかっていながらも、追いかけ続けるしかない。
それでもしつこくすれば拒絶されるのがわかっているから、適度な距離感を保って凪の警戒心を少しずつ緩和させるしかないのだ。
そんな微量な努力をコツコツ重ねた結果なのか、遂に凪の方から次の約束をしてくれた。それも千紘の家だ。電話だって千紘からしなくても凪の方からかけると言ってくれた。
今までだったら絶対に考えられないことだった。
未だにこれが夢なんじゃないかと疑ってしまう。目が覚めたら、自分のベッドで1人眠っているんじゃないかなんて。
そんな現実など到底受け入れられそうにはないが、このふわふわとした感覚にも慣れそうになかった。
今の千紘は、昨日の凪の姿と今朝のやり取りを思い出し、余韻に浸るだけで精一杯だった。
凪は仕事までの間、自宅で過ごした。シャワーを浴び直してスキンケアをした。少し時間を置いてからBBクリームを塗って眉毛を描く。
美しい肌が艶やかに光を放った。今の時代、男性に清潔感が求められるのは当然のこと。
全身脱毛をした肌はどこも綺麗だし、髪にも張りがある。ただ、寝不足による肌荒れだけはどうしても防げなかった。
セラピストが軽くメイクをして出勤するのはもはや当然ともいえる。そのおかげで何とかカバーできてはいるが、貸切などでメイクを落とす際は素肌を見られるのは緊張した。
女性は自分達が思っている以上に肌の質を見ている。自分と比べたり、他のセラピストとランク付けしたり。
自分を売る仕事も楽じゃないと思いながらも、頭に浮かぶのは千紘の顔。
初めて会った時に施していたフルメイクはもちろん綺麗だったが、スキンケアだけの地肌もとても美しい。
千紘だってそんなに毎日しっかりと睡眠が取れているわけじゃないはずなのに、凪の客以上に綺麗な肌を持っているのはきっと生まれつきなんだと思う以外に納得する術はなかった。
明後日会う約束をした。昨日の夜は、とりあえず今日行っておけば暫く行かなくていいし。そんな気持ちで訪れたのに、自ら近々の明後日を指定するだなんてとんだ誤算だった。
それでも昨日の熟睡を思い出したら、2日後にはぐっすり眠れるという安心感を覚えた。今日だって頭がスッキリしているおかげで仕事への憂鬱さも半減したようだった。
睡眠さえ取れるようになったら、仕事への苦痛も解消されるかもしれない。そんな期待も込めて、凪は家を出る時間まで明日のスケジュールを確認した。
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