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🌹はなみせ🍏
「ちょっと待っててください」と言って駆け出していった彼女の背中を、僕は少し離れた場所から眺めていた。
案の定、同級生たちに囲まれている。そりゃそうだ、修学旅行の真っ最中に、いきなり見知らぬ男についていくと言い出せば、誰だって引き止める。
「あの人だれ?」
「知り合い?」
風に乗って聞こえてくる断片的な声。彼女は困ったように眉を下げながらも、必死に何かを説明していた。
(……なんて言ってるんだろうな)
もしここで「ミセスの大森さん」なんて名前を出せば、一瞬で人だかりができて収拾がつかなくなる。彼女もそれを分かっているはずだ。
数分後、ようやく解放された彼女が、顔を赤くしてこちらへ走ってきた。
「お待たせしました……っ! すみません、お待たせしてしまって」
申し訳なさそうに肩で息をする彼女に、歩調を合わせながら訊ねてみた。
「大丈夫だよ。……で、なんて答えたの? 質問責めにされてたみたいだけど」
すると彼女は、さらに顔を赤くして、消え入りそうな声で白状した。
「あ……えっと、『知り合いです』って言っちゃいました……。本当のこと言ったら大変なことになると思ったので、咄嗟に……。勝手にお知り合いなんて言ってしまって、本当にすみません!」
深々と頭を下げる彼女を見て、僕は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、いいよ。間違ってないしね」
謝られるようなことじゃない。むしろ、その咄嗟の判断が嬉しかった。
普通なら、自慢したくなってつい名前を出してしまいそうな場面だ。でも彼女は、僕という人間がそこに居る「状況」と「静寂」を守ることを優先してくれた。
「そっか、知り合いか……」
マスクの下で、自分でも驚くほど口角が上がっているのがわかる。
「ファン」と「アーティスト」という境界線を越えて、彼女が僕をひとりの「知り合い(人間)」として扱ってくれたことが、妙に心に響いたんだ。
「……じゃあ、行こうか。『知り合い』の職場へ」
少しだけ軽やかになった足取りで、僕は彼女をレコーディングスタジオへと案内した。
これから彼女に見せるのは、僕たちが命を削って音を産み出す場所。
「知り合い」なんて言葉じゃ片付けられないくらいの、濃密な世界を見せてあげよう。
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