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最終話 猫は原稿を読まない、でも生活の真ん中にいる
秋の終わり、僕は次の原稿に向かっていた。
相変わらず簡単には書けない。売れたといっても生活が急に安定したわけじゃない。真紀はまだ働いているし、僕もまだ時々、数字の少なさに冷や汗をかく。新田は今でも容赦なく赤を入れるし、僕は今でも逃げたくなる夜がある。
けれど、前とは少し違った。
書けない日は、前よりちゃんと机に座るようになった。真紀に「今日はだめだった」と言えるようにもなった。彼女も「じゃあ明日」と言うようになった。どうしようもない日があっても、それが即、終わりを意味しないと知ったからだ。
先生は、最初の冬よりだいぶ太った。
毛並みもよくなった。野良だったころの尖りは少し丸くなったが、偉そうさだけは変わらない。たまに窓の外を見ている横顔に、元野良の影が差すことがある。どこでどう生きてきたのか知らない。聞いたところで教えてもくれないだろう。
夕飯のあと、僕ら夫婦は居間で並んで座っていた。
テレビではたいして面白くもないバラエティが流れ、テーブルには半額の刺身と、真紀が作ったきんぴらごぼう、僕が味噌を入れすぎた味噌汁が並んでいる。先生はその真ん中に当然のように寝そべっている。
「邪魔」
僕が言う。
「かわいい」
真紀が言う。
「食卓だぞ」
「先生にとっては舞台なんだよ」
「なんの」
「偉そうにするための」
僕は笑った。
真紀がふと、こちらを見た。
「ねえ」
「うん」
「最初のころさ、ほんとにどうなるかと思った」
「僕も」
「離婚するかも、とまでは思わなかったけど」
「それは考えた」
「えっ」
「冗談」
「今のはだめ」
軽く腕を叩かれた。こういうやりとりができること自体、少し前の僕らからすれば救いだった。
「でも」
真紀が言う。
「売れたからよかった、だけじゃない気がする」
「うん」
「ちゃんと喧嘩して、ちゃんと落ち込んで、ちゃんと書いたから今なんだと思う」
「……そうかも」
先生が寝返りを打ち、尻尾で僕の湯呑みを倒しかけた。
「うわ、危な」
「先生!」
僕らが同時に手を伸ばして湯呑みを押さえる。危うく味噌汁まみれになるところだった。先生は一瞬だけ目を開け、それからまた、何食わぬ顔で眠りに戻った。
何食わぬ顔。
僕はその言葉を、前より少し好きになっていた。
人生には、努力しても報われないことがある。支えても届かないことがある。わかり合っていても傷つけ合う日がある。小説は売れないし、家計は苦しいし、猫は勝手に住みつく。
それでも、何食わぬ顔をした猫が部屋の真ん中にいて、湯気の立つ味噌汁があって、妻が隣で息をしていて、明日書くべき原稿が残っている。その手触りだけは、嘘じゃない。
たぶん僕は、そういうものを書くために小説家になったのだ。
売れるとか、評価されるとか、それらはもちろん大事だ。大事だが、それだけではなかった。読んだ誰かが、自分の生活の惨めさや可笑しさを少しだけ抱きしめられるような文章。台所の明かりや、喧嘩のあとの沈黙や、猫の図々しさを、「それでも悪くない」と思える文章。
先生は原稿を読まない。
読まないまま、たぶんこれからも僕の人生の重要な場面で、魚を盗んだり、封筒を齧ったり、締切前にキーボードの上を歩いたりするだろう。
それでいいのだと思う。
猫は猫として、何食わぬ顔で生きている。
僕は僕として、みっともなく書いていく。
真紀はそんな僕を、ときどき叱り、ときどき支え、ときどき呆れて笑う。
その三つがあるかぎり、たぶんまだ書ける。
窓の外で、夜の風が鳴った。
先生が片耳だけ動かした。
真紀が立ち上がって、食器を下げる。
僕はその背中を見て、少し遅れて立ち上がる。
「洗うよ」
「珍しい」
「たまには」
「明日、雪でも降るかも」
「降ればいいよ」
「なんで」
「そのほうが書けそうな気がする」
真紀が笑った。
僕も笑った。
先生だけが、最後まで何食わぬ顔をしていた。
コメント
1件
あとがき ここまで読んでくれて、ありがとう。 正直、この物語は 「面白い!」ってスカッとするタイプの話じゃないと思う。 むしろ、ちょっと苦くて、 「あー…わかる…」ってなるような、 そんな場面のほうが多かったんじゃないかな。 売れないこと、 支えること、 続けること。 どれも簡単じゃなくて、 正解もなくて、 気づいたら、しんどくなってる。 でもそれでも、 人はなぜか、生活をやめられない。 ご飯を食べて、 ちょっと笑って、 また落ち込んで、 それでも次の日が来る。 この物語は、そんな 「どうしようもなく続いていく日々」の中にある、 ほんの少しの揺れを切り取ったものです。 正直に言うと、 この物語に“ちゃんとした答え”はありません。 主人公が完全に救われるわけでもないし、 全部がうまくいくわけでもない。 でも—— それでも少しだけ、前を向ける瞬間はある。 それだけで、充分なんじゃないかと 思っています。 そして、最後まで変わらなかった存在がひとつ。 猫です。 あの猫は、結局なにもしていません。 なにもしていないのに、ずっとそこにいました。 でもたぶん、 「なにもしてくれない存在」がそばにいることって、 思っているより、ずっと大事なんだと思います。 もしこの物語が、 あなたのどこかに少しでも残ったなら—— それが一番うれしいです。 最後まで読んでくれて、本当にありがとう。 また、どこかで。