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第一話 編集部の朝は、だいたい誰かの遅れから始まる
出版社の朝は、華やかではない。
世間にはいまだに、出版社という場所に対して、どこか文化的で、知的で、コーヒーの香りと紙の匂いに満ちた、静かで上等な幻想を抱いている人間がいる。新田はそういう幻想を否定しない。否定しないが、現実はだいたい、眠そうな顔をした社員たちと、締切に追われた電話と、赤字の入ったゲラと、誰かの胃痛でできている。
朝九時十分。
新田はすでに自席についていた。
文芸第三編集部。
窓際でもなく、会議室にも近すぎず、絶妙に中途半端な位置にあるデスクだ。パソコンを立ち上げ、昨夜のうちに届いていたメールを確認する。作家からの進捗連絡、印刷所とのやりとり、営業部からの売上報告、書店チェーンの販促企画、そして「すみません、もう少しだけ待ってください」と書かれた、見慣れた言い訳の文面。
新田はコーヒーを一口飲み、ため息をついた。
「新田さん、朝から死んでます?」
隣の席の若手編集、瀬尾がのぞき込んでくる。二十代後半。仕事は早いが雑談も多い。人懐っこい犬みたいな男だ。
「死んでません」
「でも顔が」
「元からです」
「今日も先生?」
「今日もです」
先生、というのは編集部内で半ば通じる符牒になっていた。
売れない、締切を守らない、でも文章は妙にいい、あの小説家。
つまり、あの男のことだ。
瀬尾が苦笑する。
「そこまで面倒見る義理あります?」
「あります」
「なんでまた」
「担当だからです」
「それだけ?」
「それだけです」
そう答えながら、新田は自分でも少し嘘だと思っていた。
担当だから見る。
もちろんそれは本当だ。
だがそれだけなら、もっと前に見切りをつけることもできた。売れない作家は珍しくない。才能があるのに届かない作家も、拗らせていく作家も、自己評価と市場評価が噛み合わない作家も、掃いて捨てるほどいる。編集者の仕事は、そういう中から限られた時間と予算をどこへ配分するか決めることでもある。
つまり本来なら、新田はもっと合理的であるべきだった。
それでも彼は、あの小説家の原稿を待ち続けている。
理由は単純で厄介だった。
あの男の文章を、好きになってしまったからだ。
恋愛的な意味ではない。
もちろんない。
だが惚れた、という言葉がいちばん近い。
編集者として、読者として、あの文章に一度やられてしまった。
デスクの引き出しには、今でも最初に読んだ原稿のコピーが入っている。角は少し丸くなり、何度も読み返したせいで紙がやわらかくなっていた。新人賞の最終候補にも残らなかった、くせにやけに忘れがたかった原稿だ。
その原稿と出会ってしまったのが、すべての始まりだった。
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