二十年続いた長雨の後、地球上の陸は全て水に沈んでしまった。
人々は海の上で生きる道を探ったが、その世界はとても人間が生きられる環境ではなかった。
そこで人類は後世にその種を残すべく、それに相応しい人間を選び十隻の“方舟”に乗せた。
その船の名は“Noah ´s Hᴏpe”
空から落ちる雨粒は頬に触れることなく透明な硝子の上をなぞっていく。厚い灰色の雲の上にあるはずの光を真子(まこ)は一度も目にした事が無かった。
「あ、真子。やっぱここにいた」
真子を探しに来たのだろう、温室の入り口から灯(ともり)が顔を出す。
「うん、正解。もうすぐトマトが色付くかなと思ってさ」
「お前、食いもんしか楽しみないわけ?」
「大きなお世話」
灯はこの船で唯一、真子と歳が同じで、初めてこの船で会った時から何だかんだともう十年の付き合いだ。
「ホントだ、こりゃ食べごろだね」
灯が赤く色付いたトマトを見て『うまそー』と口に出す。
「灯も人の事言えないじゃん」
「そりゃまぁね。味のする食べ物なら、俺は何でも喜んで食べるよ」
今にも食らいつきそうな灯を真子は手で制する。
「ダメ。カメラ回ってるからすぐバレる」
「はいはい、分かってるよ」
「それで何? これを盗み食いに来たわけじゃないでしょ。それとも私が食べてないか見張りにでも来たわけ?」
真子が言うと灯がケラケラと可笑しそうに笑う。
「確かにそれもあるけどさ、号長が呼んでるって言いに来た。号長室に来いってさ」
「そっか……分かった、ありがとう」
真子が温室を後にしようとすると後ろから声が掛かる。
「大丈夫? 俺も行こうか?」
こう見えて灯には優しい所があるのだ。
ぎこちない笑みを浮かべた真子が振り返る。
「ううん、ありがと。行ってくるね」
「おう。じゃあまた後でな」
何でもないいつも通りの灯に、真子の落ち着かない気持ちが少し軽くなる。
温室の扉を開けると乾燥した空気が吹き込む。真子は小さく息をついてそっと扉を閉めた。
もう三十年近くなるらしい。気候変動という言葉では説明出来ない事態が地球に起こった。
降り続く雨は上がる事なく、日に日に陸地は海の底へと沈んでいった。
世界中の学者がその原因を調べ、様々な持論を持ち出したがその根拠はどれも乏しく、その間にもますます水嵩は増えていった。
結局、原因を解明する事よりもその対策を考える事に時間を割くほうが賢明だという結論が下った。
“人類を絶やさない”をスローガンに始まった各国の話し合いで、確実に人類を後世に残す方法として方舟を作ることが決まった。
人間が生活する為に最低限必要な設備を全て備え、潮力や波力、海洋温度差などを軸に発電する電気を用いたその船は、あの有名な神話から名前を取り、ノアズホープ──ノアの希望と名付けられた。
当時の技術を持ってすれば、船上に人間の生活出来る環境を作る事はそう難しい事では無かった。空気と温度を調節し、栄養と水を供給出来れば良かったのだ。
だが大きな問題が一つあった。
それはその船に“誰が乗るか”だった。
時間と資材に限りがある中で、世界中の人間を乗せる事の出来る船を作るのは到底不可能だった。
各国の協力なくして作る事の出来ない船に乗る人間を選ぶ為には、その選別は限りなく平等でなければならない。
そこでAI──人工知能による人類生き残りシミュレーションが行われた。生き残る為に必要な人間が人間の意思を完全に排除した形で機械的に選別されたのだった。
当然中には異を唱える者もいたが、それ以上に平等な方法を見つける事は出来なかった。
今から十年前、十隻の方舟にその“選ばれた”人間達が乗り込んだ。
日に日に水に覆われていく世界の中で僅かな希望を一心に背負い、いつか地上で生活出来るようになるその時まで生き残る事が、その者達の使命となった。
五つのフロアからなるこの船には千五百人ほどが乗っており、そのほとんどが日本人だ。
僅かながらも作物を育てる温室と家畜を飼育している家畜小屋、軽く運動の出来るスペースを備えた屋上フロアから順に、女性部屋と家族部屋のある三階、男性部屋と操舵室のある二階、食堂や風呂場、学校からその他公共施設まで揃う一階へと続き、地下には機械整備室と生命保管庫などがある。
本来なら高校生であるはずの真子達は、小中高一貫教育の学校へと通っていて、それも今年で最後の年になった。
学校と言っても、二部屋ある学習部屋の長机に並び、小中の九年間で教育担当の先生から義務教育の範囲を習う簡易的なものだ。
高校の年になると、船での生活に必要な知識と自分で選択した専門分野の知識を学ぶ。
この船に乗っている以上、生き残る為に必要な能力のある人間でなければならなかったし、そうならなければならないと真子自身も幼い頃から思っていた。
各船にはそれぞれリーダーとして号長が存在している。あらゆる知識に長け、どんな事態にも対応できる能力と決断力を兼ねた選りすぐりの人間がその役割を任された。
真子が乗るノアズホープ六号の号長もまた、その役割を担うに相応しい人物だった。
リーダーとしての素質は言うまでもなく、その統率力は並外れている。船で起こる様々な問題にいつも冷静に対処し、その言動に異を唱える者はこの船にはいない。
年の功と言ってはそれまでだが、決してそれだけではない事は、今まで共に生活してきた者には明らかな事だった。
号長室は一階の一番奥にある。真子がその扉をノックすると中からすぐに返事があった。
「失礼します」
中に入ると机の上の書類に目を通していた号長が顔を上げた。
「あぁ、いらっしゃい。そこに掛けて」
真子は言われた通り机の前に置かれた椅子に腰を掛けた。
「あの……私まだ決められてなくて」
「そうか。真子、君は何をそんなに迷っているのかい?」
「迷っているというか……」
真子は膝の上で握りしめた拳を見つめる。
十八歳になり成人を迎えると、この船では大人として役割を果たさなければならない。どの仕事で船に貢献するかは自分で選ばなければならず、十八を前に真子はまだその選択を迷っていた。
「私、何の為にこの船に乗ったんでしょうか……」
「それは難しい質問だね」
号長がそのシワの刻まれた顔を少し歪める。
「確かに、この船に乗った人間には皆使命がある。生き残るという使命がね。それは地上に残った他の人々の命を背負ったのだから避けようのない事だ」
真子は号長の目を見る。
「だが、私達は決して特別な存在じゃないんだよ」
「え……?」
「特別だから選ばれた訳ではない。むしろ選ばれた事の方が特別なんだよ。分かるかい?」
「えっと……あんまり……」
「そうか。まぁもちろん中には特別な才を持った人々もいる。だが、それだけでここに選ばれたわけではないんだよ」
真子は自分が何か特別な才能を持っていなければならないと思っていた。号長の言葉が耳の奥で響く。
「皆自分の出来る事を精一杯やっている。ここで一番大事なのは“生きる事”だ。特別じゃなくてもそれは出来るだろう?」
「でも……灯だって、他の子だってもう何をするか決まってるのに私だけ……私まだ、ここで自分が何をすべきか分からないんです」
「それは今から見つけていけばいいんだよ。焦る事はない、やりたい事が見つかるまでは他の仕事を手伝ったっていいんだよ。真子にはまだいくらでも可能性があるんだ」
そうだ、そんなに焦る必要はなかったんだ。そう思った真子はどこか少しホッとした。
「私、もう少し自分に出来ることを考えてみます。号長、ありがとうございました」
「いや、何てことはないよ。あぁほら、いい匂いがしてきた。今日は久しぶりに美味い食事が食べられる」
確かに廊下からいい匂いがしている。
「じゃあまた食堂でな」
「はい!」
真子は入る時よりも少しだけ軽い足取りで部屋を出た。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!