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あのわちゃわちゃした人狼ゲームをこんな作品に作り上げてくるなんて… 少しずつそれぞれの役職が見えてくる展開も素晴らしすぎますし、🖤が最後の力を振り絞って💚を迎えに行ったシーンがグッときました😭 読み応えある〜本当好きです🙏
泣いちゃう…感動…なんでこんなの書けるんですか🥹🥹
むくりと起き上がって、あたりを見回す。
切り出して組み立てられた無骨なテーブルと椅子。
仄かに香る、竈門に焦げついた炭の匂い。
澄んだ水がたっぷりと溜まった水瓶。
何も変わっていなかった。
いつもと同じだった。
今日は何度目の「今日」だったっけ。
掠れた煤の色が、この土壁から綺麗さっぱり消えてしまうのを見るのは、何回目だっけ。
何も感じなかった。
結末に手が届きそうなところで、また時間が巻き戻ってしまったことに対して、俺は憤りも悲しみも、焦燥さえも抱きはしなかった。
「昨日」まで、確かに自分の中にあった激しい気持ちを、今の俺は何一つとして持ち合わせてはいなかった。
ベッドを降りて、瞬間的に体が重たいと感じる。
酷く疲れていた。
それは体か、心か。
「どっちでもいいか」なんて、不貞腐れたような投げやりな気持ちのまま、外へ出た。
少しだけ顔を出した太陽の光が、薄ぼんやりと時計台の向こうに見えていた。
いつだって始まりの日は、夜更け頃に雨が上がる。
水気を含んだ冷たい空気が、ツンと鼻腔の中に入り込んでくる。
さわさわと優しい風が吹いて、かさを増した湖が、その力に身を任せるように小さく揺れていた。
靡く自分の髪の先で、物憂げで寂しそうに佇んでいる誰かの気配を感じた。
「今日は元気がないんだね」
後ろから聞こえてくる声に、驚きはしなかった。
「会えると思ってたよ、阿部ちゃん」
「また綺麗な色になったね、満月さん」
「そうかな。俺的には何も変わってないような気がするけどな」
「ううん、満ちかけてるよ。あとちょっとだ」
「ねぇ、阿部ちゃん。もう少しここにいてくれない?」
阿部ちゃんは、何も返事をしなかった。
俺は、ただずっと遠くの方まで続いている水平線をぼーっと眺めながら、言葉を続けた。
「阿部ちゃんに会いたいって言ってる人がいるの。その子、毎日ここで、ずっと阿部ちゃんを待ってるんだ。会ってあげて欲しいの」
ここに来ると、めめのあの寂しそうな顔をいつも思い出す。
何かを諦めたように、それでいて、何かに焦がれるように、ただずっと、今の俺のように湖の向こうを眺めているあの目が忘れられなかった。
どうにかして、会わせてあげたかった。
そんな俺の願いは阿部ちゃんには届かなかったようだった。阿部ちゃんの気配が、背後からすっと消えていくような感覚がする。
「全ては空が指し示してくれるよ」
木々をさわめかせる優しい風に乗って、阿部ちゃんの声は灰色の空に混じっていった。
「やっぱダメか…」
薄々無理だろうとは思っていたが、やはり阿部ちゃんは請け合ってはくれなかった。諦めたように苦笑いをしながら後ろを振り返ると、そこにはめめがいた。
「めめ、おはよう」
「佐久間くんか、おはようございます」
「傘の妖精なら、もう行っちゃったよ」
「佐久間くんも知ってるの?!」
「うん、気まぐれな子みたい。会えたり、会えなかったり、不思議」
「そっか…今日も会えなかったか…夜にもう一回来てみようかな」
「ううん、めめ。明日の朝、今より少し早い時間に一緒に行こう?」
「え、どうして?」
「…夜は、危ないから。じゃあまた明日の朝、日が昇る前にここで」
「あ、はい……」
もう誰も失いたくない。
誰一人だって、いなくなって欲しくない。
ずっと、みんなで仲良く、楽しく、笑っていたい。
現実の世界でも、こんな捻れた世界でも、もうどっちでも良いから、どうか誰か、誰も傷付くことなんてない時間を俺にちょうだいよ。
そんな望みすら叶えられそうな見込みが無くて、おかしくなりそうだった。
めめと湖のほとりで別れて、俺は自分の家に帰った。
家の前には、ドアをノックする涼太がいた。
後ろから声を掛けると、涼太はふわっと笑ってフランスパンを差し出してくれた。
俺は、焼きたての暖かさを残したパンがたくさん入った籠ごと、涼太をそっと抱き締めた。俺の頭が埋まっている涼太の首が、反対側に傾いたのを感じた。
「涼太、いつもありがとう」
「…?佐久間?どうしたの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと…ほんのちょっとだけ、怖い夢を見たんだ」
「そっか。大丈夫大丈夫、俺がここにいるよ」
「ありがとね。今日の会議ちゃんと遅れずに行くから」
「あ、そうそう。その話もしようと思ってたの。珍しいね、佐久間が自分から遅刻しないように行くって言うなんて」
「ぁははっ、俺だってやる時はやるんだよ。じゃあ、また後でね」
「うん、またね」
短い言葉を交わして涼太と手を振り合った後も、 その姿が見えなくなった後も、俺はずっとその場に立ち尽くしていた。
なんだか、離れ難かった。
あと何日、涼太と一緒にいられるのかな、なんて思ったら心細くなった。
募る名残惜しさは程々にして、俺は大きく吸い込んだ息をそのまま鼻から吐き出した後、家の中に入った。
綺麗さっぱりと煤の色が無くなってしまった壁をぼんやり眺めながら、「昨日」までのことについて思考を巡らせた。
「今日」は何も書き込まなかった。
もう、全部覚えている。
嫌になる程、苦しくなる程、狂いそうになる程、今までのことは鮮明に頭に焼き付いているから。
だからもう、必要ない。
俺は背中から思い切りベッドの上にダイブして、二、三度寝返りを打ってから、また勢いよく起き上がった。
「よし、、、、行くかッ!!!」
…こんな状況でも、まずは元気を出さなければ。
そうでなければ、何も良い方向へは進まない。
いつかに自分がそう思い念じたことを、もう一度心の中で唱えた。
今から始まる寂しい時間に思いを馳せては、目頭がじんわりと熱くなっていった。
「人狼がこの村に隠れてる。俺たちで人狼を探し出して、倒そう。誰か、人狼の特徴とか知ってることとか、何か情報持ってる人はいる?」
照の言葉にざわめくみんなの中に混じっていためめが、真っ直ぐに手を挙げた。
「話してもいいすか?」
人狼について知っていることを、めめは全て俺たちに教えてくれた。
俺は、めめの話を聞くフリをしながら、全員の表情をじっくりと見ていった。
動揺し困惑するように瞳を揺らせる者、怯えるように肩を縮こませる者、これからどうやって過ごしていったらいいんだと動揺する者、反応は様々だったが、特にみんなの挙動に怪しいところは見受けられなかった。
俺は、初日の処刑を止めるために、めめの説明が終わったところで、すかさず間に割って入った。
「夜はみんなで固まって過ごしてた方がいいんじゃない?って思うんだけど、どうかな」
「じゃあ、今日の夜は何人かで固まって朝まで一緒にいようか」
「俺、明日の朝、めめと湖に行く約束してんだ!めめ、どうせならお前ん家泊まっていい?その方が寝坊しないしさ!」
「えぇー…」
「めめ、俺からもお願いや!一人で寝るん怖い!」
「めめ!僕からもお願い!」
「…はぁ…分かったよ…」
「やったぁ!めめ!おおきに!」
「ありがとー!やっぱめめは頼りになるよね!」
「くっつくな康二。離れろ」
「なんで俺だけ!?」
「ふっか、お前はどうすんの?」
「んぁ?あー、特に考えはないけど…」
「じゃあ、このままうちにいな」
「まじ?助かるわー」
「お前はほんとに…こんな時でも呑気だな…」
「悩み事がないってことにしといて」
「はいはい」
「翔太は今日どこで寝るの?」
「あー、常に寝袋は持ってるし、どっかで野宿するつもりだったけど」
「危ないよ?しばらくうちに泊まったら?」
「え、いいの?」
「もちろん。うち、パンと薔薇しかないけど。葡萄酒でも飲みながら、旅の話聞かせてよ」
「悪りぃな。世話んなるわ」
俺は誰にも気付かれないように、小さく安堵のため息を漏らした。
初日の全員の処刑を免れられたし、めめとラウールの深夜徘徊も防げるように、うまく話を進めることができた。
それに、涼太と照には少し申し訳ないが、翔太とふっかを泳がせたかった。
時間が巻き戻る前、最後に残っていたのはあの二人と阿部ちゃんだけだった。
だから、あの三人の中の誰かが人狼のはずなんだと俺は見立てていた。
今までの記憶通りに事が進むなら、きっと今日の夜は涼太も照も無事なはずだから。
あわよくば、ラウールに誰が人狼なのかを占っているところを一緒に見せてもらえないか、と打算的なことを考えていたら、いつの間にか会議は終わっていて、みんな解散し始めていた。
「佐久間、どうした?」
「んにゃ!なんでもない!人狼怖ぇなぁー!って考えてた!」
「…もしかして、お前が人狼だったりしてな?」
冗談まじりに、ニヤけながら俺を指差すふっかを振り返る。
「俺が嘘吐くの下手だって、知ってんだろ?」
自嘲的な笑みを溢しながら、ふっかにそれだけ言って、俺は照の家を後にした。
自分の家には寄らず、俺はめめ、ラウール、康二の後を付いて行った。
「僕、やりたいことあるから、少しだけ遅れて行くね!」
ラウールはそう言って、一人自分の家に入って行った。
俺たちはラウールに「早く来いよー!」と声を掛けて、めめの家に入った。
めめの家に入るのは、これで二回目だったが、そこはラウールと同じくらい簡素な家だった。
家具やかまど、水瓶など、生活に必要なものだけが揃っていて、他に娯楽を楽しむようなものなどはどこにも見当たらなかった。
俺の家には、何に使うかは分からないにしろ、様々な道具がごちゃごちゃと、色々な場所に粗雑に仕舞われていたので、この小ざっぱりとした雰囲気が、なんだか新鮮だった。
そんな、“シンプル”を全面に掲げているような部屋を見回していくと、ふと壁に立てかけてある剣が目に入った。
「めめ、これ本物?」
「ん?あぁ、はい。もう使って無いけど、一応、毎日手入れはしてます」
「毎日!?大変やなぁ」
「さっき軍にいたって言ってたけど、その時に使ってたの?」
「はい。まぁ、俺は戦から逃げた人間なんでこれを持ってる資格は無いんすけど、どうしても捨てられなくて」
「ふーん、そうだったんだー」
「かっこええなぁ!ピッカピカやで」
康二は、キラキラと目を輝かせながら、じっとその剣を眺めていた。
日暮れ前で退屈だった俺は、めめに「家の中探検してもいい?!」と尋ねてみた。
めめは、呆れたような表情で「…どうぞ」と言った。
了承を得られたのを良いことに、俺は我が者顔でめめの家中を散策した。
めめの家は、外からは二階建てのように見えた。
しかし、中に入って見ても、上の階に続くような階段が見つからないのを不思議に思った。
俺はどこかに隠し扉でもあるのでは無いかと、冒険者のような気持ちで目当てのものを探して回った。
片っ端から扉を開けていくと、 一つ目のドアの先にはトイレが、二つ目のものの先は外に続いていた。
最後に見つけた三つ目の取手を掴んで手前に引こうとすると、僅かに開いた隙間は、何者かによってすぐにバタンと閉じられてしまった。
俺の行く手を阻むように、その扉へ腕を伸ばしていたのはめめだった。
「ここは、だめ。分かった?」
そう言って俺を見下ろしながら微笑むめめの瞳は、恐ろしいほどに冷たくて、自分の背筋がぞくっと冷え固まるような感覚に陥った。
「あ、ぅん…ごめん」
そう絞り出すような声で謝ったが、めめは俺の返事も待たずに戻って行ってしまった。
二階へ続く階段を探す冒険は断念して、俺もめめの後に続いて中央の部屋に戻ると、康二が夜ご飯を作ってくれていた。
日が暮れる頃に食べられるようにと、あの後すぐに準備をしてくれていたようだった。
「康二ありがとー!うまそー!」
「こんくらい、お安い御用やで。いちんち世話んなるんやから、これくらいさせてや」
「ありがとね、康二。…そういえば、ラウール遅いね」
よし、きっかけができた。
俺はこの機を逃すまいと、すかさず立ち上がった。
「確かに!心配だから迎え行ってくるねん!」
「ありがと、佐久間くんよろしく」
「すぐ隣やけど、もう日ぃ暮れ始めとるから気ぃ付けるんやでー!」
「分かってるってー!」
めめの家を出て、すぐ隣にあるラウールの家のドアを思い切り開け放った。
恐らくあそこにいるんだろうと目星をつけて、俺は、その家の一番奥の部屋に入った。
「ラウールー!!もうご飯できるぞー!!」
「ぅわぁあッ!?!佐久間くん!びっくりさせないでよ!」
ラウールは前屈みになっていた背中をピンとまっすぐに伸ばして、大きな声を上げ、慌てたようにテーブルの上に置いてあるものに布を被せてから、こちらを振り返った。
俺は、何も気付いていないふりをしながら、ヘラっと笑ってみせた。
「ごめんごめん!ほら、もう暗くなるから行こ?」
「うーん……」
「やりたいこと、まだ途中だった?」
「うん、あと少し出来たらなって思ってたんだけど…でも、そうだね。今日はここまでにしておくよ」
「うん、また明日があるから!」
誰にも何も言わずに、こんなに一生懸命になってくれるラウールを見ていたら、なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。
言葉で伝えるのは、難しい。自分の心の中を口で伝えようと思っても、知っている言葉があまりにも少なかった。
もう少し勉強しておけばよかったな、なんて思いながら、俺はラウールを抱き締めた。
身長差のせいか、ラウールの心臓の音が俺の耳によく聞こえてきた。
一度止まってしまったそれが、今、まだちゃんと動いているということに、この上なく嬉しくなった。
ラウールは、戸惑いながらも、俺の背中にそっと腕を回してくれた。
「…ねぇ、ラウ?」
「ん?なぁに?」
「ありがとな、頑張ってくれて」
「?どうしたの?」
「ううん、言いたくなっただけ」
明日も、お前と、みんなと、笑い合っていたい。
でも、明日なんて不確かなものなんだ。
来てくれるかもわからない。
来てくれたって、幸せでいられるかなんて、誰にもわからない。
現代で平和ボケしながら生きていた頃の俺じゃ、気付けなかった。
明日が来てくれることの嬉しさも、目が覚めた後もみんなと変わらず笑い合えることのかけがえなさも。何もかも。
きっと、ラウールには、今俺が思っていることは伝わらないだろう。
でも、それでいい。
伝えられるかどうかよりも、俺がそのことに気付けたことの方が、きっと大事だと思うから。
そんな感傷に浸っていられたのもあっという間のことだった。
ラウールが突然俺を抱き抱えたのだ。
「…変な佐久間くん。でもかわいいね、ちっちゃーい!」
「んなっ!バカにしてんのかー!」
「きゃははっ!このまま振り回せそう!」
「おろせってー!んはははッ!」
結局、俺はラウールに縦抱きにされたまま、めめの家に戻った。
中に入った俺たちを見て、めめと康二はそれぞれ、
「何してんの?」
「何しとんの?」
と真顔で聞いた。
康二が作ってくれたご飯を食べて、ホットミルクを飲みながら食休みをして、俺たちは眠りについた。
いないとは思うが、万が一誰かが外に出ようとした場合にすぐ気付けるよう、俺は玄関に一番近い場所で寝かせてもらった。
真っ暗な部屋の中で、俺以外の三人の規則正しい寝息が聞こえてきたのを確かめてから、俺も目を閉じた。
雨上がりの冷たい空気が、ドアの隙間から入り込んできては背中を寒くさせた。
ゴワついた毛布の中で目一杯体を縮こませて暖を取ったけれど、どうにも震えてしまって、仕方なしに体を起こした。
ゆっくりと瞬きをして、明るさを確認する。
もう阿部ちゃんがあの湖に来る前くらいの陽の入り方だったので、俺はめめを起こした。
「めめ、めめ。起きて」
「…ん?」
「阿部ちゃんに会いに行くんでしょ?」
「ぁ、ぅん、、ふぁぁ…。待ってて。顔洗ってくる」
寝起きの良いめめの支度が整ったのを確認してから、俺は玄関のドアを開けた。
「んん〜、もう食えん…」
「すぴー…んん…こぅじくんのけちぃ………むにゃ…」
まだ眠っている二人の姿に、ふっと笑みが溢れる。
大切なものを二つ守れたことに、俺の心は温かくなった。
濁った空の下で、切り株の上にしゃがみ込んでしばらく待ってみたが、やはり阿部ちゃんは来なかった。勘違いかもしれないが、阿部ちゃんはなんだか、俺としか会う気が無いように思えた。
今日は、傘も落ちてはいなかった。
「んー…阿部ちゃん来ないね…いつもならこの時間にここに来るのにな」
「む…まぁ、明日もここで待っててみるよ。ありがとね、時間作ってくれて」
「いいよいいよ、俺とめめの仲なんだから」
「もう帰ろうか、朝ごはん食べよう。舘さんがそろそろパン持ってきてくれる時間だし…って、佐久間くん、あれ……」
「へ?」
湖に背を向けて歩き出そうとしためめが指を刺した先で、誰かが草の上に座っているのが見えた。
生い茂った背の高い雑草が邪魔をしていて、ここからではよく見えない。
俺とめめは、それに恐る恐る、ゆっくりと近付いて行った。
そこには、大きな岩にもたれるようにして眠っている照の姿があった。
「岩本くん?ここで寝てたら風邪引きますよ?」
「照?照、起きて…?」
肩を揺すって照を起こそうとすると、照の体は力無く、ぐしゃっとその場に倒れた。
「ひ、か…る………?」
「……さくまくん…、もう、」
めめが何を言いたいのか、途切れてしまった言葉の先が何なのか、俺はそれを痛いくらいに分かっていた。
でも、分かりたくなかった。
今、目の前に叩きつけられている現実に、背を向けて走り出してしまいたかった。
仰向けに転がった照の喉元は、真っ赤に染まっていた。
急いでみんなを湖に集めた。
全員で照の体を土の中に埋めて、昨日と変わらずそこに残ったままの、主人がいない家の中へ、みんなで入った。
「…ふっかさん…昨日、何があったの…」
ラウールが、今にも途切れてしまいそうなか細い声で、ふっかにそう尋ねた。
ふっかは、いつもと変わらないような態度で淡々と言葉を紡いでいった。
「昨日は、夜まで照と話し込んでた。人狼のこととか、時計台の次の修理の日はいつにしようかとか、そんな話をずっとしてた」
「そのあとは?」
「蝋燭が消える頃になったら寝ようって話してたから、その通りに蝋燭が燃え尽きる少し前に寝たよ。そんで、気付いたら朝になってた」
「夜の間は?」
「知るかよ。俺寝てたんだから。だからアリバイは無い。以上。」
ふっかは少し苛立っているように見えた。
ラウールから疑われているようにも聞こえる質問をされているからだろうか。
俺は、そんなつもりはないんだって気持ちが、なるべく伝わるようにと、ふっかの様子を伺いながら尋ねた。
「寝てる間でもいいからさ…なんか物音とかしなかった…?」
「んぁ?…あー、なんかあいつ、喉乾いたとか、水が切れてるだとか、そんなこと言ってたな。井戸に水でも汲みに行ってたんじゃねぇの?でも、寝てる間の話だから、確実ではないよ」
嘘を言っているようには見えなかった。
でも、みんなの意思はどうやら、俺とは違っているようだった。
「ふっかさん、ごめんなさい。信じたいけど、信じられないよ…」
「ふっかさん以外に、昨日の夜照兄と会ってた人おらんもん…」
「ふっかさん、それは本当のことですか?俺は真実が知りたい」
「っはぁ…ほんとの事言ってんだけどね。」
ふっかは、全てを諦めたようにその目を閉じてから自分の両腕を後ろに回した。
苦しそうに顔を歪めながら、めめがその腕を紐で縛っていった。
幸せと不幸せは両者の差し引きで成り立っている、とでも言うのか。
大事な人を二人守れたと思ったその日、俺はそれと同じくい大切なものを二つ失ってしまった。
これから、また始まる。
あの、地獄のような日々が。
そう予感せずにはいられなかった。
そんな俺の不安を煽るように、遠くの方で鐘の音が一つ鳴った。
重たいその音色と、雨の足音が、不協和音を響かせて、ずっと耳のそばで鳴っているような心地がした。
ふっかの時間が止まってしまった後、みんなは何も言葉を交わさないまま、それぞれの家に戻っていった。
「今日は会議しないの?」とみんなに尋ねてみたが、誰一人として俺の声に応じる者はいなかった。
誰しもが気まずそうに目を伏せていた。
こんな空気になりたくない。でも、きっともう、止められないんだろうな。
俺も目を伏せて、昨日までの穏やかだった日々に別れを告げる覚悟をした。
独りきりになってしまった体を、森の方へ向かわせた。
どこかに人狼に辿り着くためのヒントが残っていれば、という思いだった。
今回も、奴はなんの痕跡も残してはいなかった。
もしかしたら、あったかもしれない手かがりを、雨が掻き消してしまったのかもしれない。
仕方がないけれど、今日の朝、雨が降っていない時間にもっと周りを注意深く見ておけばよかったと、今更ながらに後悔した。
「雨は、全てを洗い流してくれるんだよ」
「あ。阿部ちゃん。珍しいね、この時間に」
しとしとと、強すぎず弱すぎない水滴の嵐に打たれていると、そんな俺を庇うように、阿部ちゃんがそっと、手に握っていたその傘を半分差してくれた。
阿部ちゃんと夕方に会うのは初めてだった。
どこか新しい気持ちで、俺は前を見続けながら、返事をした。
「こんにちは、満月さん」
「…ねぇ、阿部ちゃん。俺、また大切なものを守れなかったんだ」
「君にとっての大切なものってなぁに?」
「みんなだよ、みんな同じくらい大事なんだ」
もう取り返せない二つのかけがえない笑顔を思い出しては、何かが心臓にツキンと刺さったみたいに痛くなった。
しかし、阿部ちゃんはそんな俺の気持ちとは相反したものを持っているのか、物憂げながらどこか冷たく、ピシャリとした声を発して姿を消してしまった。
「君の大切なものは本当にそれだったの?大事なものは、一つしか選べないよ」
何も間違ったことを言ってはいないと思うのだが、そんな風に言われてしまうと、なぜだか途端に不安になった。
俺の大切なもの。
いつまでも、みんなと楽しく過ごしていたい。
それ以外に望むものなど、何もなかったのだが、阿部ちゃんのそれは、まるで俺の中に何か別の「大事なもの」があることを知っているかのような口ぶりだった。
しかし、肝心の俺がその正体に気付いていないのだから、困ってしまう。
もう少しじっくり考えてみようと思い直して、めめの家へ向かった。
ドアをノックすると、剣を握っためめが、険しい顔をしながらその扉をゆっくりと開けた。
「ちょちょちょ!俺だって!」
「なんだ、佐久間くんか。どうしたの?」
「明日も行くんでしょ?起こしてやるから、今日も泊めて☆」
「は?えー…しょうがないなぁ…」
「やったー、お邪魔しまーす」
「ちょっと、当たり前みたいに入んないでよ…」
「いいじゃーん。それより、みんなは?」
「あぁ、もう人狼は処刑できたからって、今日はみんな一人ずつで過ごすらしいですよ」
「そっか…」
どうしたものか。
今日、ふっかが処刑されて、これで終わりだろうか。
こんなに簡単に、単純に、この悲劇が幕を閉じるとは、どうしても思えない。
まだ、阿部ちゃんも翔太も、俺が怪しんでいる人が二人も残っているのだ。
だとすれば、今日危ないのは涼太かもしれない。
変に安心しきっているみんなが、今日の夜を自由に過ごすということに対して、そこはかとない不安の炎が俺の中に灯り始める。
まためめが、夜一人で湖まで行ってしまうんじゃないかと思ったので、一晩中監視するつもりでここへ来たのだが、判断を誤ったかもしれない。
日暮れまでにはまだ少し時間があった。
「ちょっと、涼太ん家行ってくる!」と言い捨てて、俺はめめの家を飛び出した。
「涼太っ!」
「あれ、佐久間。どうしたの?」
「いや、ちょっと顔を見に来たというか…なんというか…」
「ふふ、変なの。さっきまで会ってたのに」
「そうだね、にゃはは…あれ、そういえば翔太は?」
「翔太なら、今近くの川で水浴びしてるよ。一日一回はそうしないと気が済まないんだって」
「そっか…今日も翔太はここに泊まるの?」
「そのはずだけど…。ねぇ、さっきからどうしたの?そんな怖い顔して…。佐久間、なんか変だよ?」
「えっ、あ、いや…えっと…心配で…これで全部終わったのかなって…」
「まぁ、不安になる気持ちも分からなくはないけど、明日になってみないと分からないから」
「んにゃ…そうだね…。ねぇ、涼太、約束して?」
「ん?」
「何があっても絶対外には出ないで、少しでも変な感じがしたら、自分の身を守って」
「わかった。大丈夫だよ。ちゃんと明日は来るから」
「…ん“ん…。そうだね…。じゃあ、また明日」
「うん、おやすみ」
阿部ちゃんが言っていたことは、確からしかった。
大切なものは、一つしか選べない。
めめのことも心配だし、同じくらい涼太のことも心配だった。
でも、俺の体は一つしかない。
どちらを選ぶかは、自分次第なんだ。
自分で決めなければならい。
それが正しかったのか、間違っていたのか、それは全部、後になってみないと分からない。
苦しいけれど、それが現実で、この世界の常なんだろう。
涼太と約束を交わしても、俺の中に宿る青白い炎はいつまでも消えそうになかった。
心許ない明日に侘しい期待をしつつ、俺はめめの家に戻った。
「ただいまー」と声を掛けながら中に入ると、めめは、剣の手入れをしていた。
「遅かったね」と声を掛けてくれためめに、「ごめんごめん!」と言いながら、俺はヘラついた笑みを浮かべた。
次の日の明け方、まためめを起こして湖へ向かった。
深く濃い霧に覆われた道をまっすぐに歩いていくと、遠くの方に何かが見えた。
もやがかっていて、よく見えないそれに、目を凝らしながらゆっくりと近付いていく。
足を進めるたびに段々とその輪郭がはっきりしていって、俺の目を伝って脳内がその物体を認識していく。
でも、俺の心はそれを受け入れたくないと、必死で訴えていた。
そこには、黒く長い頭巾を被ったラウールがうつ伏せの状態で倒れていた。
「ラウ!ラウール!なんで、なんで…!くそっ」
「佐久間くん落ち着いて。みんな呼んでくるから、ここにいて?」
「…ぅ“んっ………」
なんでだよ……。
なんでこんなに、なんにもうまくいかないんだろう…。
もうどうしたらいいんだよ…。
ただ茫然と、めめがみんなを連れて来てくれるのを、ずっと待っていた。
真っ青になってしまったその顔が、所々赤く濡れていて、悲しくなる。
綺麗にしてあげたくて、近くにあった井戸で水を汲んで、濡らした自分の袖でそれを拭った。
麻地のシャツが赤く染まるたび、仲間を失った悲しみと自分の無力さに打ちのめされて、涙が溢れた。
「ごめん…っ、ごめんね、っ……」と喉から声が漏れ出すたび、自分の嗚咽で窒息してしまいそうだった。
朝早くから集まってきてくれたみんなと大きな穴を掘って、照とふっかがそれぞれ眠る場所の隣に、ラウールを埋めて十字を立てた。
がらんとした照の家の中で、みんなで輪を作った。
みんなは口々に何かを話していたが、俺は何も喋る気力が起きなくて、ただぼーっと床に視線を落とすばかりだった。
「…〜っ、だから!昨日の夜一人だったのはお前だけだろ!」
「俺がラウにあないな酷いことするわけないやんか!!」
「だったら、お前じゃないって証明できること、なんかあんのかよ!」
「それは…っ、、」
康二とめめが激しく口論しているのを、遠巻きに見ていた。
そんなに喧嘩しないでよ。
二人とも、ずっと一緒に頑張ってきた仲間でしょ?
喧嘩してるとこなんか、見たくないよ。
思っていても、今はそんな声すら掛けられそうになかった。
俺が何も言えないでいる間に、めめは康二の首の後ろを叩いて気絶させてから、断頭台まで担いで行ってしまった。
俺は力の入らない体に鞭を打って、なんとかめめに追いつこうと駆け出した。
大きな刃を押さえているロープに手を掛けようとするめめの袖を、小さく掴む。
「めめ、やめようよ…きっと、康二じゃないよ…」
「佐久間くん、ここで見過ごしたら、また明日も同じことが繰り返されるかもしれない」
「でも…っ」
「眠ってる間に終わらせる。今まで一緒に過ごしてきたんだ。それくらいの情けはかける」
「…だめ…めめ、、れんっ、…やめて…っ」
「佐久間くん、ごめんね」
俺の願いは聞き入れられることなく、無慈悲にも、めめによってそのロープはするすると解かれ上に昇っていく。その瞬きの間にガコッと大きな音が鳴った。
吹き出して飛び散っていく赤が、いつまでも目の奥でチカチカと点滅していた。
その様子を断頭台の下で見ていた涼太と翔太は、苦しそうに眉を顰めて目を伏せた。
パラパラと俺たちの体を濡らす空の向こうから、炭のようにどんよりとした色の雲が近付いてきていた。
遠くの方で、地の底から何かが這って来るような、低く唸る雷鳴が轟いていた。
おずおずと叩いたドアが開き、その中にいためめは、俺と目を合わせると少し気まずそうな顔をした。
「…めめ、今日も泊まっていい?」
「…いいけど、どうしたんすか」
「一人になりたくない」
「…そっか。好きなだけいたらいいですよ」
「ありがとう」
俺も、めめも、何も喋らなかった。
重たい空気が部屋中に満ちていた。
涼太が焼いてくれたパンを一口大に千切って、空虚で何も無いただ一点を見つめながら、俺はそれを無心で口に詰め込み続けた。
硬くなった生地が顎を痛ませても、俺はその手を止められなかった。
何かしていないと、壊れてしまいそうだった。
噛むたびに、目から大粒の何かが溢れて落ちていった。
「っ、ぅくっ…ッ、ひかる…ふっか、、らう、こうじ……っ」
失ってしまった名前を掻き集めて声に乗せるたびに、俺の唇を伝って塩辛い水がパンと一緒に口の中に入り込んできた。
「佐久間くん…」
丸めた俺の背中に向かってめめが掛けてくれた声は、なんだかとても痛そうに聞こえた。
地面を抉るほどの強さで降り注いでいた雨は、更けきった夜の闇に溶けてようやく治まった。
雲に覆われながら、朧げな月がその体を少しだけ欠落させながら浮かんでいた。
誰も彼もが眠っていた。
草も木も、風も石も、何もかもが静かに寝息を立てていた。
そんな全てが止まった世界で、ただ一人、暗闇に目を凝らしてぬかるんだ道を踏み締める者がいた。
「みんながもう悲しまなくていいように、俺が倒さなきゃ」
誰に言うでもなくそう呟いた青年は、腰に刺していた剣の柄をぐっと強く握った。
その体が湖への入り口に差し掛かった時、青年はふと歩みを止めた。
雲の隙間を縫って、真っ青な月がぼんやりと湖面を輝かせていた。
「ぁ…」
その光に引き寄せられるように、青年は湖のほとりまで足を進めて、近くの切り株に腰を下ろした。
ゆっくりと動いていく雲が途切れ、その間から月が顔を覗かせると、生暖かい微風が一つ吹いた。
その優しい音に乗せるように、物憂げな声が、虚空に一つこだました。
「また会ったね」
「ん?ぁ……」
「ふふ、こんばんは」
暗闇に紛れてしまうほどに黒い軍服を身に纏った青年は、驚いたようにその目を大きく見開かせた。
彼は、歓喜に打ち震えるように、傘を差した青年と相対した。しかし、彼にとっての至福の時間は、束の間の如く過ぎ去った。
瞠目し、明瞭になった視界の端で、青年は目で追うのがやっとな程の素早さで蠢く何かを見た。
青年は剣を鞘から抜き、自身の傍らに立つその人物の前に立って、庇うような体勢を取った。
「今度こそ、俺が守るから」
月の光を反射した二つの黄金が、常人の目では追えないほどの速さで迫ってくる刹那、青年はニヤリと笑った。
「っはぁ、…っく、ぁ“ッ、はぁっ……っぁ“…」
長い死闘の末、青年は月の光だけを頼りに蠢くその獣へ傷を負わせてから、自分の家へと戻った。
荒く吐き出されるその吐息から、彼もまた無傷ではなかったことが窺い知れる。
暗い部屋の中では、その青年がいかほどの傷を受けたかを計ることは難しい。
青年は、固く閉ざされていた二階へと続く扉を開け、一段ずつ登って行った。
所用を済ませると、青年は器用に足で扉を閉める。
外に出て行こうとするその動線の間で、彼は穏やかな顔をして眠る銀色に視線を落とした。
「佐久間くん、っぁ“…ぐ…っあとは、頼んだよ…っ」
最後の力を振り絞って、ふらつく体を未だ水気を帯びた地面の上に立たせ、青年は夜の中を静かに歩いて行く。
少しでも気を抜けば、すぐに倒れてしまうであろう朧げな意識の中で、血に染まる軍服に身を包んだ青年は、もう一度湖の入り口まで足を運び、何かに誘い込まれるようにその身を湖面の中に浸した。
足の力を抜いたためか、その体はゆっくりと湖の底に沈んで行った。
その腕の中に抱いたものを慈しむように一つ口付けを落としてから、青年は水の中でゆっくりと目を閉じた。
朝、目を覚ますと、めめの姿がどこにも見えなかった。
嫌な胸騒ぎを覚えて、俺は家を飛び出した。
湖のほとり、森の入り口、照の家、そこからすぐそばにある小さな井戸、どこを探してもめめはいなかった。
俺は、ふと、大きな時計台が目に入った。
高いところから探してみようと思い立って、その巨大な塔に向かって走り出した。
長く続く階段を駆け上がって、その頂点にやっと辿り着くと、そこには大きな鐘が吊り下がっていた。村の全てが、俺の目に小さく映った。
「初めて会った日のこと、覚えてる?」
「ぅぉぉ!?あぶね!阿部ちゃん!?脅かさないでよ…」
釣り鐘の後ろから聞こえてきた声に思わず体が跳ねて、その拍子に時計台から落ちそうになった。
阿部ちゃんは、いつも通り俺の話なんて聞いていなくて、悪びれもせずぼーっと俺を見つめていた。
「初めて会った日…?うん、覚えてるよ」
「これを君に」
「んにゃ?なにこれ?」
「僕が集めた月のかけら」
「いいの?阿部ちゃんの大切なものじゃないの?」
「僕はもう集められないから」
「え…?」
阿部ちゃんの体はどんどん薄くなっていって、パッと消えてしまった。
「君の探しものは、僕と君が初めて会った場所に」
姿はどこにも見えなかったが、どこかに隠れているかのように、阿部ちゃんの声だけが鐘を囲んだ堂の中に反響していた。
俺は、自分の手の中に残った硝子の小瓶を、呆然としたままずっと握り締めていた。
初めて阿部ちゃんと会話が成り立ったことに少しの感動を覚えながら、俺は言われるがままに湖の方へ向かった。
阿部ちゃんと一番最初に会ったのは、あそこだ。
しかし、さっきちゃんと見たんだけどな?とも思う。
見ている場所が違ったのかもしれないと、俺は少し急ぎ足で入り江まで足を進めた。
木々が生い茂る森の近くにも、大きな岩がいくつも転がって苔むしている場所にも、やはり、どこにもめめはいなかった。
しゃがみ込んで、何本も生えている雑草を掻き分けてみても、結果は同じだった。
「はぁ…いないなぁ…どこ行ったんだ…?」
曲げ続けて痛くなってしまった腰を伸ばして、大きく広がる湖を眺める。
静かな朝に、湖面を揺らす水の音が微かに聞こえてきたが、ふと、その水平線がわずかに歪んでいることに気が付いた。
「なんだあれ…?」
何かが浮かんでいる。
風に乗って、少しずつそれがこちらに近付いてくる。
「…ぁ……ぁ…っ、ぅそ……そんな…っ」
目に映るもの、全てが信じられなかった。
受け入れ難かった。
でも、これが、現実だった。
俺が立つ湖の淵まで流れ着いたのは、ぎゅっと阿部ちゃんを抱き締めながら、眠ったように目を閉じているめめの体だった。
「めめっ!起きて!やだッ!」
何度もその頬をペチペチと叩いてみたが、めめは起きなかった。
身体中にいくつも傷がある。
もしかして、また外に出ていたのだろうか。
それに、なぜ阿部ちゃんも一緒なのか。先程まで俺と話していたではないか。
なんで夜に出かけたの…っ!
あと少しで、全部分かりそうだったのに…。
「やだぁ…もうやだよ…っ」
また二人、失ってしまった。
また、なにもできなかった。
どうして…。
阿部ちゃんの体から、めめの腕を剥がそうと試みたが、水の冷たさで硬直が進んでしまっているのか、俺の力ではどうすることもできなかった。
めめの顔はどこか幸せそうにも見えて、なんだか、ずっと離れたくないと、めめが無言でそう主張しているようにも見えた。
俺は、めめたちを一度その場に置いたまま、涼太と翔太を呼びに行った。
みんなで埋めてあげないと、ただその一心で走った。
涼太の家の方へ行くと、そこには、ただぼーっと空を眺めて立ち尽くしている翔太がいた。
「翔太!翔太っ!大変なの!!めめが!阿部ちゃんがっ!」
「……」
「翔太?どうしたの?翔太!!」
「……りょうたが」
「え?なに?」
「涼太が、死んだ」
あぁ…きっと、この世界には神様なんかいないんだ。
涼太の体は、家のそばにある小さな薔薇園の植え込みに沈んでいた。
目立った外傷はなかった。
人狼に襲われたみんなとは少し様子が違っていたが、体中に散らばる真っ赤な薔薇の花びらが、まるで鮮血のように見えた。
なぜ、涼太は死んでしまったのだろうか。考えてみたけれど、原因はよく分からなかった。
いや、もう考えていたって仕方がないのだ。失ってしまったことに変わりはないの だから。
大きな穴を二つ、翔太と掘ってその中に三人を埋めた。
涼太のお墓の中には、両手では抱えきれないくらいの、たくさんの薔薇の花を入れた。
めめと阿部ちゃんには、二人で眠れるようにと少し大きめのお墓を作った。
手を合わせ、花を手向けてから、翔太に向き直った。
翔太の左腕には、穴を掘っている間に出来てしまったのか、大きな切り傷があった。
「手当て、してあげる」
翔太は、なにも言わず、俺に付いて来てくれた。
久しぶりに戻った自分の家で、いつかに引っ掻き回したタンスの上から三番目の引き出しを開ける。
ガーゼのような布と、包帯、コップに注いだ水、清潔そうに見える布切れを持って、翔太が座るベッドの上に、俺も腰掛けた。
傷口に水を染み込ませた布を当てると、翔太は顔を歪めた。
「ちょっと我慢してて」
「ん」
ついさっき出来たものかと思っていたが、それは、少し時間が経って乾き始めていた。
パックリと割れた肌から、鮮やかな赤が覗いていた。
翔太と二人きりなんて、初めてのことじゃないだろうか。
こんなこと、今考えてていいのかな、なんてどこか俯瞰したような物思いに耽る。
現実の世界で生きていた頃から、翔太と二人きりになろうなんて思ったことがなかった。近付いてしまったら、きっと、戻れなくなる。
そんな予感がしていたから。
実らなくていい。
そばにいられなくていい。
ただ、ただ、どこか少し離れた場所からでも、翔太が楽しそうに笑っている顔が見られればそれでよかったんだ。
明日も、明後日も、ずっと、今までとなにも変わらない毎日があればいい。
そう思っていたから。
翔太に何かを伝えた瞬間、大切に守ってきたものが壊れてしまう気がして怖かったんだ。
でも、俺は一体、今までなんのためにそれを守ってきたんだろう。
ただ心の中で温め続けていただけの気持ちを、翔太に一生告げるつもりが無いのなら、それを持っていること自体、なんの意味があるんだろう。
俺の一番大切なものって、なんだったんだろう。
もう答えはすぐそこまで出てきている。
前に出すのが、怖いだけ。ただ、それだけ。
こんな時になってまで意気地がないなぁ、なんて口の中が苦くて、力無い笑みが溢れた。
この世界に、二人だけ。
もう、みんないなくなってしまった。
もう、犯人は分かってる。
でも、俺にはできない。
大人しく俺に左腕を差し出してくれている翔太が、たとえ、どんなもう一つの姿を持っていたとしても、俺にその審判を下すことなんてできない。
そんなこと、したくない。
だって。
だって、何よりも、誰よりも、大切な人だから。
悲しみの連鎖はここで止める。
そのためなら、俺が悪になる。
「ねぇ、翔太」
「あ?」
「俺が人狼だって思う?」
「は?」
「殺したいと思うなら、そうして。俺はなにもしないから」
そう言い終えたあと、翔太の腕に包帯を結んだ。
「………かよ…」
翔太は俯きながら腕をさすった後、何かを言い捨てて出ていってしまった。
うまく聞き取れなくて「ぇ?」と返してみたが、翔太は振り返ってはくれなかった。
今ここで自分の命を終わりにするつもりだった俺は、その通りに事が運ばなかったことに拍子抜けしてしまって、ただ独り、硬いベッドの上に座っているばかりだった。
翔太に処刑されることはないまま、夜を迎えた。
俺はじっとしていられなくて、日が暮れる前からずっと、湖のそばの切り株に座っていた。
乾いたその木目を撫でながら、ふと、「今日はそういえば、珍しく晴れてたな」と思い出す。
空は久しぶりに晴れ渡っていたが、俺の心はどんよりと曇り切っていた。
「隣、いい?」
不意に掛けられた声の方に視線を移すと、そこには朝に会ったばかりの顔があった。
「あ、あべちゃん…?!」
「あははっ、どうしたの?そんなびっくりした顔して」
「だ、だって阿部ちゃん、今日…」
「ねぇ、佐久間」
「へ…?阿部ちゃん、なまえ…」
「もし明日…もしも明日、自分が死んでしまうって分かってたら、最期に何をする?」
「え?」
「まぁ、今更俺が聞かなくても、きっともう答えは出てるよね」
「阿部ちゃん、俺、全然追い付けてない…ぇ、いま、なにが起こってるの?」
「佐久間、ありがとね」
「んにゃ?」
「俺の声を、みんなの声を聞いて、真実を見つけ出してくれた」
「真実って…?」
「ちゃんと、死者の声を聞く者の役目を果たしてくれた。ありがとう」
今日の朝まで会っていたあの不思議な阿部ちゃんとは、別人に見えた。
今、俺と話してくれている阿部ちゃんは、現実の世界で一緒に過ごしていた、本物の阿部ちゃんのように思える。
じゃあ、俺が今まで話していたのは誰だったの?
今日の朝、確かに弔ったはずの阿部ちゃんが、どうしてここにいるの?
今日、湖に浮かんでいたのは、どっちの「阿部ちゃん」だったの?
「そろそろ行かなくちゃ。じゃあね」
「え、阿部ちゃんどこ行くの?」
「佐久間が辿り着いた答えの先で、ずっと待ってるよ」
「あ、阿部ちゃん!!待って!!!」
「それまでは少しのお別れ。もうちょっと頑張って」
阿部ちゃんは困惑する俺を待ってはくれなかった。
どんどんその体は上に登っていって、最後にはどこにも見えなくなった。
丸々と満ちた月が、夜空に煌々と光る。
阿部ちゃんが溶けていった遥か上空をぼんやりと眺めていると、後ろから唸り声が聞こえてくる。
来たか。
そう思った瞬間、俺の背中を激しい痛みが貫いた。
大きくて獰猛な何かが覆い被さっているという危機迫る状況下で、俺の思考は面白いくらいに落ち着いていた。
その獣の喉元を手で押さえて、なんとか噛みつかれないように抵抗する。
俺の肩に食い込んでいる鋭い爪が、少しずつ肌を突き破っていく感覚がして、じくじくと痛んだ。その左の前足には、白い包帯が巻かれていた。
大きな牙が、俺の眼前目がけて飛び込んでくる。
すんでのところで顔を逸らして逃れたが、ピリッとした痛みが走って、頬を切ったと直感した。
抗う力も、もうあと僅かしか残ってない。
今まで散々処刑されてきたけど、襲われるのは初めてだ。
人狼に殺される時って、リセットされるのかな。
ここまで、俺、結構頑張ったよ?
もうここでゲームオーバーになっても、後悔はない。
あと少しで死ぬ。時間が止まる。
なんとなくわかる。
きっと、もうきっと、時間は巻き戻らない。
なら、せめて。
「もし明日…もしも明日、自分が死んでしまうって分かってたら、最期に何をする?」
そうだね、阿部ちゃん、今の俺なら…。
銀色に輝く月が、俺の髪と、俺が今まで吐き続けてきた嘘を照らす。
黄金色に輝く双眼が、我を忘れたように凶暴な光を湛えて俺を見つめていた。
こんなおかしい世界で、お前に殺されるのも、悪くないかもね。
もう戻れないって分かってる。
一番大事なのは、明日でも、昨日でもない。
いつまでも変わらない毎日が続くなんて、そんなのは奇跡みたいなもので、そんなのは、まやかしみたいなものなんだ。
もう明日が来ないって分かったから、なんて、あまりにも自分がバカすぎて、今更すぎて、笑っちゃうね。
でも、ちゃんと言わなきゃ、伝えなきゃ。
後悔しないように。最期に。
俺の時間は、今から止まる。
俺が生きていた証は全て過去になる。
明日の時間を紡いでいくことができないのなら、なんて言えばいいのかな。
あぁ、こういうのはどうかな。
自分の気持ちのまま、なんでもストレートに口に出しちゃう子供っぽさも
本当はみんなのことが大好きで大切に想っててくれてるとこも
意外と涙もろいとこも
寝起きが悪いとこも
舌足らずな発音も
広いおでこも
優しい瞳も
全部
…全部、っ…
「好きだったよ……っ、 」
薄れゆく意識の中で、ぎゅっと握り締めていたあの硝子の小瓶に、冷たい雫が一粒降り注いだような気がした。