カラカラに乾いた土と、青臭い植物の匂いを感じて目を開けると、俺は見覚えのない湖のほとりに横たわっていた。
「…………は?」
ここはどこだ。
あたりを見回してみても、人はおろか、建物の一つさえどこにも無かった。
昨日の記憶上、酒を飲んだ覚えはないから、外で、ましてやこんなところで寝ていることなど、まずもって無いのだ。
それに、ここは俺が住んでいる場所とはだいぶ違っているように見えた。
ここにあるのは、土と木と、名前も分からない雑草と、大きな湖だけ。
ここ、ほんとに日本?
テレビのロケでさえ、こんなに広大な自然の中に行ったことはなかった。
日本にもこんな田舎がまだあったんだなと考えれば、いくらかはまだ納得できるが、それであっても、なぜ突然、こんな場所に来てしまっているのか、ということについては、皆目見当もつかなかった。
俺、昨日、まっすぐ帰って寝たよな?
仕事帰りに寄り道した先でついうっかり寝てしまった、と考えるにはあまりにも現実離れしていた。
俺の生活圏内でこんなに遠くの方まで、ビルも看板も鉄塔も、何もかもが見えない場所なんて無いはずだったから。
昨日は確か、次の日がオフだから目一杯寝ようと、うきうきとした気持ちでベッドに入ったのだが、これは一体全体どういうことなんだ…?
この状況について受け入れられる要素など何一つ無かったが、いつまでもここでじっとしているわけにもいかない。
俺は、知らない間に枕代わりにと頭に敷いていたナップザックを手繰り寄せて、その中を漁っていった。
中には、寝袋、飯盒、ベコベコに凹んだアルミの水筒、タオルとはお世辞にも呼べないほどにペラペラな布、その他バックパッカーの人が使いそうな古びた道具がたくさん入っていた。
俺、寝てる間に旅とか出かけてた…?
何が何だか、もうわけが分からなくて、そんなふざけた考えが頭を過ぎる程、俺の脳内は飽和し始めていた。
その場であぐらをかいて、しばらくの間、もう一度今自分の身に何が起こっているのか考えてみたが、やはりしっくりくる答えは見つからなかった。
土埃と雨の匂いがした。
左腕を鼻に付けてすんすんと嗅いでみたが、それはどうやら全身から香ってきているものらしかった。
「げ…最悪…」
汚れるのは好きじゃない。
バラエティ番組の撮影でもないのに、髪も顔も、砂と泥だらけだった。
首に纏わり付いた砂粒がジャリジャリしていて、気持ちが悪い。
それに何よりも、さっきからギラギラと照りつける日差しが憎たらしかった。
俺はその太陽の光を意識した途端、はっとしたように両手で顔中を触った。
加工品でベタつくような、そんないつもの感触ではなかった。
撫でる自分の指が、変に突っかかることもなくサラサラと頬を往復するのを感じて、俺はその場で大きくうずくまった。
「…ぅ“ぁ“ぁぁぁ…マジか……っ…」
渡辺翔太、人生最大の不覚。
日 焼 け 止 め を 塗 っ て い な い 。
こんな場所にいて不安を感じているだとか、ここはどこなんだとか、全身汚れてるだとか。
そんなことよりも何よりも、わずかな時間であっても、こんな日差しに晒されたら肌の調子がおかしくなってしまうということの方が、何倍も恐ろしかった。
ナップザックの中を底の方まで引っ掻き回してみたが、日差しを遮れるようなものは何も入っていなかった。
俺の持ち物なんだろうに、なんで入ってねぇんだよ…と心の中で愚痴を零した。
一刻も早く、陽の光を凌げる場所を探さなければ。
肌にかかる負担を少しでも減らしたかった俺は、頭から寝袋を被り、肩にナップザックを背負って歩き出した。
先程うずくまった時に付いた砂を払おうとして、手のひらを胸の前に掲げてみると、かぴかぴに乾いた何かがそこにこびり付いていた。
乾く前は恐らく、少しの粘度を持っていたのだろう。
赤茶色のそれは、拭ってみてもなかなか取れなかった。
興味本位でそれを鼻に近づけて嗅いでみると、錆びた鉄のような匂いがした。
「んだよこれ…」
嘆息を漏らしながら、そばにあった湖に手を浸して汚れが取れるまで手を擦り合わせた。
しばらくの間、その鉄臭い何かの固体と格闘していると、澄んだ湖に赤茶色が溶けて消えていった。ナップザックの中に入っていたボロボロの布で渋々手を拭いて、俺は宛も無いままに足を進めていった。
どこに向かえば良いのか、何も分からなかったが、とりあえず足を止めなければいつかはどこかに辿り着くだろうと、割と呑気に考えながら歩いた。
黙々と足を左右に動かし続け、額を伝って一筋の汗が頬まで流れ落ちてきた時、少し遠くの方に煙が見えた。
「お?誰かいんのか?」
俺は、立ち上るその灰色のもやを目指して、さらに歩いていった。
更に歩みを進めていった先で、その煙が小さな民家の煙突から出ているものだということが分かった。
「この時代に煙突?ガスねぇの?」とは思ったが、その一方で、目の前にある「屋内」そのものに俺の心は踊った。
ほんの少しで良いから、紫外線の無い場所で一休みしたかった。
ついでに、ここに住んでいる人に地名やら東京までの帰り道やらを聞こうと思い立って、俺は心の中に湧き上がる「助かった」の5文字だけを持ち合わせて足を急がせた。
どこかに落としてしまったのか、スマホが無かったのだ。
普段、大変頼りにしているナビも見ることは出来ないし、誰かに連絡を取ることも出来ない。
行き場を失っていた俺の目の前に現れたその煙突付きの家は、俺にとっては、言わばオアシスのようなものだった。
逸る気持ちを抑えてその家のドアをノックすると、しばらくの間があってから、それがゆっくりと開いた。
少しずつ見えていった顔に見覚えがあると認識すると同時に、俺は困惑の海に溺れた。
そのドアの向こうにいたのが、照だったからだ。
「え、は…?照…?」
「!……ぇ、ぁ、どちら様ですか?」
照は、俺を見るなり警戒したように一歩後ろに身を引いた。
いよいよ分からなくなってきた。
知らない土地で路頭に迷ったと思っていたら、よく知った顔が、今俺の目の前にあるではないか。
しかし、当の本人は俺のことを知らなかった。
照の質問にどう答えようかと考えあぐねていると、照の後ろから涼太がひょこっと顔を出した。
「あ、翔太。久しぶり、元気にしてた?」
「久しぶり」って…昨日お前と仕事したばっかだぞ?忘れちまったのか?
そう思ったが、涼太の目はいつも通りに誠実そうだし、裏も表も無いその言葉に、俺は今自分が思っていることをぐっと引っ込めて、「…おう、、」とだけ返した。
涼太が顔を覗かせた後で、続々と照の後ろからよく知っている顔がいくつもポコポコと湧いて出てきた。
「え、二人知り合いなの?」
そう言って俺と涼太の顔を交互に見るふっかに、涼太が返事をして、また俺に問い掛ける。
「そうそう、幼馴染なんだ。翔太は小さい時にこの村を離れて旅に出てたから、みんなは知らないかもね。今日は急に帰ってきてどうしたの?」
なるほど…。そういう設定なのか。
なんだかよく分からないが、俺はどうやら涼太とだけ知り合いで、しばらくの間、旅に出ていたらしい。
涼太が言っていることと、先程道端に広げたアイテムたちに繋がりが見つかって、少しだけこの状況に合点が行った。
それとなく話を合わせておくか、と面倒事を避けるように、俺は「たまには帰ってこようかなって、そんだけ」と当たり障りのない言葉を選んで涼太に伝えた。
「そうやったんか!俺、康二いいます!よろしゅう!」
「へぇ、宮ちゃんの知り合いなら安心だね。照って呼んで、よろしく」
「僕、ラウール!よろしくね!」
「幼馴染かぁ、なんかいいね。俺、深澤。まぁこれからよろしくー」
「…目黒です。よろしくお願いします」
「はいはーい!俺、佐久間!よろしくピーマン!」
康二、照、ラウール、ふっか、目黒、佐久間が俺に向かって自己紹介をする。
「いや、知ってんだわ」とは思ったが、言ってても仕方がないので、俺は「…ども、よろしく」と今更過ぎる自己紹介と挨拶をした。
みんなは、どこかの童話に出てくる庶民のような格好をしていた。
照、ふっか、康二、ラウール、涼太、佐久間は、薄黄色のシャツに、茶色いベストとズボン、ほとんど底のない布地のブーツを履いていた。
目黒だけは、真っ黒い外国風の軍服を来ていたが、それもなんだか現実的には見えなくて、俺の目には何かのコスプレのように映った。
かくいう俺も、照たちとそこまで変わらない服装だったが、唯一違うところがあるとすれば、首に生地の薄いマフラーのようなものを巻いていることくらいだろうか。
短いやり取りがあった後、なぜか俺もその家の広いスペースで、みんなの輪の中に入らされた。
「じゃあ、そろそろ始めよっか」
照がそう言うと、全員の顔が少しだけ強張ったように見えた。
照は重たそうに口を開いて、ポツポツと話し始めた。
「人狼がこの村に隠れてる。俺たちで人狼を探し出して、倒そう。誰か、人狼の特徴とか知ってることとか、何か情報持ってる人はいる?」
…
……
………
…………はい?
…人狼って、あの人狼?
何回かYoutubeで撮影した人狼ゲームの?
え、何?今これ動画回してんの?
だとしたらセットも衣装も設定も、力入れすぎじゃない?
しかも俺、企画の内容全く知らなかったんだけど。
え、ドッキリ兼ゲームなの?
は?要る?最初の小芝居。
「最近は夜出歩かないようにしてるし、見かけたこともないから特徴は何も分からないなぁ…」
そう言って考え込むように顎に手を当てるラウールに視線を移す。
こいつ…徹底してやがる。
あくまでも、ネタバラシはしないで、このままゲーム進めていくんだな?
これは、俺も乗っかるしかねぇか…?
「俺もラウと同じや。知っとることはなんも無しやな…」
ラウールに同調するように、康二もまた、胸の前で腕を組んで眉を寄せていた。
こいつらはどこまでも、芝居をしたまま人狼ゲームをするつもりらしい。
一人だけ困惑したような声を上げて、この場を白けさせるのも良くないかと思い、俺は何も言わず、こいつらの会話を聞いているふりをした。
…なんだか分かんないけど、とりあえず全部が気に食わない。
なんで俺だけ外からの集合なんだよ…。
嫌がらせ?
こいつらはずっと、この家の中にいたってことでしょ?
ふざけんなよ…。
こっちは丸腰のまま、殺人級に強い紫外線に晒され続けたんだぞ?半日くらい。
いや、半日も、だ。
照たちの話など右から左の状態で、俺は次々に込み上げてくる不平不満を心の中にぶちまけ続けていた。
それくらい許してほしいと、そう思わずにはいられない。
Youtubeの撮影だか、ドッキリ番組だかなんだか知らないが、人を長いことシミとシワが増えるかもしれないという恐怖に陥らせた挙句、悪びれもせず人狼がどうだと真面目な顔をして話し込んでいるのだから。
肌荒れもそうだが、免疫力まで低下したらどうしてくれるんだと、俺はとめどなく押し寄せてくる文句をやっとの思いで飲み込みながら、唇をへの字に曲げた。
座っていただけで殆ど参加していなかった会議は、いつの間にか終わっていたようで、気付けばみんな立ち上がって解散しようとしていた。
え?終わり?
突然解散したことにも付いて行けていなかったが、これはどこか変な感じがした。
何度やっても人狼ゲームのルールがよく分からないので、自分が今、何に違和感を抱いているのかを言語化することが難しいのだが、とにかく何かがおかしい。
いつだったかにみんなで遊んだ時の記憶では、スマホを順番に回し合って、会議と投票と処刑、人狼による襲撃を繰り返すことで、その勝敗を決めていたように思う。
しかし、今は会議をしただけ。
処刑もしないようだった。
どうなってんだ…?
そんなことなど、聞くに聞けない状況の中で、隣に座っていた涼太も立ち上がって俺に声を掛けた。
「翔太、今日はうちに泊まってく?」
「んぁ?」
「翔太の家、だいぶ長いこと手が入ってなくて、結構汚れちゃってるんだよね」
「へー、そうなんだ」
「たまに掃除しに行ってるんだけど、やっぱり家って人が住んでないと寂しくなっちゃうのか、すぐに朽ちてしまうから、そろそろ手の施しようがなくて…ごめんね」
「いや、涼太が謝ることじゃねぇだろ」
こいつマジでいい奴だな。
そういうセリフとして用意されているのかはともかく、涼太が申し訳なさそうに顔をしゅんとさせるので、調子が狂ってしまった。
喉元まで出かけていた鬱憤が、踵を返して腹の中に戻っていくような、そんな変な気分だった。
寝袋があるので、大人しく野宿でもしようかと、半ば今日の寝床事情については諦めていたので、涼太の突然の申し出をありがたく感じて、俺は素直に頷き立ち上がった。
「悪りぃな。世話んなるわ」
「ふふっ、うち、パンと薔薇しかないけど、許してね」
「日差しが避けられればそれでいい」
「何度聞いても笑っちゃう。日焼けしたくないってずっと言ってる翔太が、なんで旅人になったのか、本当に不思議」
「……俺もそう思ってたとこ」
これはどうやら、なかなかの長期撮影になりそうだった。
なんの説明も無いというのが、いささか不満ではあったが、文句ばかり言っていても使えるところが少なくなってしまう。俺は真面目な人間なのだ。
俺はとりあえずみんなの様子を伺いつつ、大人しくこの状況に自分なりに順応していくことにした。
涼太が作ってくれた飯を食べながら、俺は聞いてみることにした。
今、カメラが回っているかどうかについては分からなかったが、涼太だけになら、俺が抱えている気まずい疑問を打ち明けても良いような気がした。
「なぁ涼太」
「ん?」
「人狼って、あれ、マジの話?みんななんであんな真剣なの…?たかがゲームだろ?」
涼太は俺が質問し終えると、きょとんと目を丸くした後、すぐに悲しそうに眉を顰めて小さく俯いて言った。
「翔太は知らない子だと思うけど、この村で一緒に暮らしてた阿部って子が、昨日から行方不明なんだ…」
涼太は少し斜め上の回答をしたが、俺は大いに動揺した。
確かに、今日の昼間、全員で集まった場に阿部ちゃんはいなかった。
それについて俺は、スケジュールが合わなかったんだろう、くらいに考えていたが、どうやら、制作側はその都合を「行方不明」という設定に置き換えたらしい。
最近は色々なリアリティーショーがあるが、ついに俺たちも人狼ゲームでそれをやることにしたようだ。
あのジャンルの作品に台本は無いが、やはり少しくらい説明があっても良かったのではないか?という不満は、依然解消されなかった。
俺も真似をするように俯いて考え事に耽ったが、不意に涼太は、無理したように明るい声を作った。
「ねぇ、旅の話聞かせてよ。最後に会った後から、どんなところを回ってきたの?」
そう言いながら、涼太は大きい瓶に入った赤紫色の液体を、縁の欠けたグラスに注いだ。
ワインのような香りだったが、醸されたアルコールの匂いがやけに俺の鼻を刺した。
少し離れた場所からでも、こんなに香ってくる臭気の強いものがあったんだなと、俺は驚いた。涼太がグラスを回すたび、その酒気が俺の嗅覚を刺激して、頭がクラクラした。
「えっ。どこって言われてもな…ってかお前、それ度数高すぎね?こっちまで匂い来んだけど」
「そうかな?これ、趣味で作ってみたの。作ったばかりだから、まだそんなに発酵は進んで無いと思うんだけどな」
「なんか俺、それダメだわ…頭いてぇ…」
「わ、ごめんごめん。疲れが出たんだろうね、もう寝よっか」
「……おう」
「翔太、寝るときは一人がいいでしょ?」
「あ、うん」
「狭いけど、一応ここ客間だから使って。はい、これ毛布。夜は冷えるからちゃんと掛けて寝てね」
「ありがと、母ちゃんみてぇだな」
「一応お客さんなんだから、世話くらいするよ。じゃあ、俺も寝るね、おやすみ」
「うん、おやすみ」
涼太からの案内を聞きながら、5畳くらいの部屋に入った。
渡されたゴワゴワの布を俺に手渡すと、涼太は自分の寝室にさっさと入っていってしまった。
頭が痛いだけで、正直まだ眠くはなかったが、今日の昼間に受けた日差しで俺の体は確かに少し疲れていた。
薄い布団の上に体を横たわらせて力を抜くと、手足の先がふにゃふにゃと痺れるような、むず痒い感覚に覆われた。
「これ、いつ終わんの…?」
そう呟いてから、俺はゆっくりと目を閉じて今日一日の活動を終わりにした。
次の日の朝方、また体中からあの錆びた鉄のような匂いがする気がして目を覚ました。
寝汗をかいたのか、体がじっとりと湿っているような感覚がして気持ち悪かった。
起き上がって涼太の家の中を一通り見て回ったが、風呂らしきものが見当たらなかった。
俺は、ダイニングから聞こえてくる物音を頼りに涼太の姿を見つけると、その背中に向かって声を掛けた。
「なぁ、涼太。風呂って無いの?」
「ふろ?フロランタンのこと?だから、うちにはパンしかないって言ったでしょ?」
風呂を知らないだと…?嘘吐けよ…。
でも、涼太の目には一寸の曇りもねぇ。これ、マジで言ってんの?
だぁぁああッ!!この設定マジでめんどくせぇ!!
俺は頭を掻きむしりながら、涼太に自分の要求が伝わるようにと、手短に要約してもう一度伝えた。
「体を洗いたいの。どっかにそういうのできるとこある?」
涼太はようやく理解したかのように大きく頷き、「あぁ、そういうことね。それならこっちだよ」と言って外に出ていった。
大人しく涼太に付いていった先で連れて来られたそこは、なんの変哲もない河原だった。
俺は、自分の顔がどんどん無になっていくのを感じながら、真面目なトーンで涼太に問い掛けた。
「…涼太、これマジで言ってる?」
「体を綺麗にしたいときは、いつもここを使ってるよ?もうちょっと深いところの方がいいなら、少し先にあるから案内するよ」
「…いや、いい。いいよ…ここで……。」
本当に泣きたい気分だった。
たとえどんなに過酷なロケだったとしても、こんなに酷い扱いをこれまでに受けたことがあっただろうか。
川ってなんだよ…。
真水じゃん。冷たいじゃん。
え、このロケ、シャンプーすら支給されないの…?
岩だらけだし、魚とか虫とか、変な生き物いたらどうしよう。
これ、結局洗っても砂利がどっかしらに付くじゃん…。
寝てる間に拉致られた挙句、風呂すら入らせてもらえないの?
「これ、体拭く時に使って。俺は家にいるから、終わったら朝ごはんにしようか」
涼太は俺の絶望的な気持ちに気付かないまま、くるっと体の向きを変えて戻っていってしまった。
一人になった空間で、俺は一人、さらさらと流れる川の水と睨み合っていた。
川に入りたくない。
でも、体がベタベタなのはもっと嫌だ。
それに、さっきからあの鉄の匂いがずっと鼻に入ってくるのが、ものすごく不快なのだ。
背に腹は変えられないと、俺は意を決して服を脱ぎ、その中に爪先をそっと付けてみた。
ぴやっと背中が伸び上がるほど、その水は冷たかった。
歯を食いしばって、思い切りよく川の中に飛び込み、そして声の限りに叫んだ。
「ッァ“ア”ァアア“ア“アァ“!!!!!」
真水では心許ないが、少しでもベタついた体がサラサラになればと、俺は何度も体中を擦った。
頭まで潜って、髪についた砂埃を水中で払った。
そろそろ本格的に寒くなって、唇がひとりでに震え出したところで、川から上がった。
涼太から渡された布で体を拭いて、着ていた服にまた袖を通した。
涼太の家まで戻ると、涼太がかまどの中からフランスパンを取り出していた。
「あ、おかえり」
「ん。さみぃ…」
「そう言うんじゃないかと思ってたよ。はい、ホットミルク」
「…ありがと」
体を拭いて湿ってしまった布にくるまりながら、俺は涼太から受け取った温かい牛乳をちびちびと飲んだ。
喉を伝って、全身が温まっていった。
涼太が作ってくれた飯を昨日と同様に口に運ぶが、俺はどこか自分の様子がおかしいような気がして、小さく首を傾げた。
食べても食べても、どうしてか全く満たされなかった。
どちらかというと、割と少食な方だと思っていたから、こんなに食欲が湧いて止まらないのは珍しいことだと思った。全く記憶には無いが、長旅とやらをしていて疲れていた分の補給を、体が欲しているのだろうと説明付けて、俺はそのままパンと少しの野菜を、口の中に詰め込んでいった。
「よく食べるね、翔太ってそんなに食いしん坊だったっけ?」
「…ぅっへ、もご…」
朝飯を食べ終えて、涼太の家で何もせずただ寝転んでいると、血相を変えた照が玄関のドアを開け放った。
「どうした?」と聞くと、照は真っ青な顔で、絞り出すように声を上げた。
「ふっかが…ふっかが…」
「え?ふっかが何?」
「ふっかが人狼に襲われた」
俺は、次の日の会議ってどんな風に進むっけ?なんて、呑気に考えていた。
照に急かされるままに足を進めると、そこには、この貧乏くさい村には不釣り合いなくらいに大きくそびえ立つ時計台があった。
その前で、みんなが横一列に並んで、何かを見下ろしていた。
「ここがなんだっつーの?」と照に尋ねると、照は一言も喋らないまま、時計台を指差した。
康二とラウールの間に割り入って、その指が指し示すものを覗くと、血だらけのふっかが一ミリも動かずそこに横たわっていた。
「…は?」
この状況を飲み込むのに、どのくらいの時間を要したかは定かではなかったが、動転した頭をどうにか振り絞った。
俺は、きっとこれも演出の一つで、ふっかは今血糊を全身に撒き散らされているんだろうと、考えた。
だが同時に、俺のその考えは、都合の良い現実逃避ではないかとも思った。
この時計台の周りがやけに臭うのだ。
風に乗って、錆びた匂いが漂ってくる。
それがふっかから発せられているものだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。
これはきっと本物だ。
そう感じた。
今までの俺は、目の前で起こっていることは全て、何かの企画なんだと思っていた。しかし、ここはどうやら、本当に人狼と人間との戦いをしなければならない世界なのかもしれなかった。
人狼なんて存在が現実にいるのかと、にわかには信じられなかったが、俺はこの世界がこれから行き着く先に思いを馳せてみた。
一滴の墨汁が紙の上に垂れて染みを作っていく。
ぼんやりとした不安をそんな風に喩えて、頭の中で薄黒い点がじわじわと広がっていくのを想像していた。
俺は、平気な顔をしてこの中に潜んでいる犯人が誰なのかを密かに探ろうと、全員をチラチラと盗み見ていった。
全員でふっかを土の中に埋めた後、昨日入った照の家で二日目の会議が始まった。
俺はルールを覚えていなかったので、とりあえず黙っておいて、聞かれたことだけに答えようと思い、みんなの出方を伺った。
途中から照が怪しいという話の流れになって、そのまま照が処刑された。
その方法がグロすぎて、俺は目の前に広がる光景から目を逸らした。
ブワッと濃い鉄の匂いが、俺の鼻腔に入り込んできては、また頭がグラつく感覚に襲われた。
その香りは、朝に嗅いだものとは少し違っていたが、大体の部分は似ているような気もした。
あれから何日経っただろうか。
次々に人狼に襲われていくメンバーと、その殺人の犯人であると疑われた者たちが、日々命を落としていった。
俺は市民のはずであるから当然だが、ここまで生き残れていることを奇跡のように感じた。
仕組みもよく分かっていないのに、うまく襲撃の手からも疑いの目からも逃れられているということに、素直に感動した。
今は、何日目かの夜だったかと思ったが、先程まで眠っていたはずの俺の目は突然覚めた。
闇と光が半分ずつ混じり合った明るさの中で、鉄と花が混じったような、ツンとしているのにどこか甘くもある香りが俺の意識を呼び覚ましたのだ。
風で自分の髪が靡くのを感じて、俺は、自分が今外にいるんだと気付いた。
涼太の家に泊まって、そのまま休んでいたと思ったが、寝ている間に出歩いてしまっていたのだろうか。
夢遊病にでもなったか…?
寝ぼけた考えのまま、今自分がどこにいるのかを確かめようと、少しずつ目を開けた。
僅かに昇り始めた太陽の光を受けて、次第にはっきりしていった視界に映ったものを、俺は全くと言っていいほど受け入れることができなかった。
俺が座り込んだ湖沿いの草の上に、目が痛くなるほど真っ赤に染まった佐久間が横たわっていた。
「…は、、?、さ…く、ま………?」
「……ひゅ…、っかひゅッ……」
「お、おい…どうした……?さく、ま…ッ…!?」
地面に仰向けで横たわっている佐久間の肩を揺すると、俺の手のひらに生暖かい何かが、べっとりと付いた。
それが佐久間の血液であることはすぐに分かった。
頭ではそれを理解出来ているが、俺の心はこの状況の全てを拒絶し続けていた。
「佐久間、佐久間ッ!おいッ!!大丈夫か!?何があった!」
何が起きてるんだ。
昨日の昼まで元気だっただろ。
血だらけで、もう殆ど息をしていない佐久間の体を揺さぶり続けた。
穴の開いてしまっている佐久間の喉から、空気が漏れるような「ひゅ…っ」という微かな音が聞こえるたび、俺の目から大粒の何かが溢れ落ちていった。
血を止めるべきなのか。
こうなった時は心臓マッサージをしたらいいのか。
どうしたら佐久間の命をここに留めておけるのだろうか。
もう手遅れなのかもしれない。
心の中にそんな弱気な言葉が浮かんだ瞬間、更に苦しくなって喉が焼けるように熱くなった。
鼻を詰まらせながら、佐久間の体中に開いてしまっている大きな穴を、なんの役に立つかも分かっていないまま両手で押さえていると、後ろから突然、聞き慣れた誰かの声が聞こえた。
「大丈夫か?なんて、白々しいね」
「……あべちゃん…?」
姿形は阿部ちゃんのはずなのだが、そいつは全く別人のように思えた。
雨も降っていないのに、傘を差して物憂げな目で俺を見下ろすそいつが、なんだかものすごく怖かった。
しかし、それはそれとして、これまで姿を見せなかった阿部ちゃんが、何故今になってここにいるのか。
涼太の話では、確かこいつは行方不明だったはずだ。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
俺は怯みそうになる心をどうにか奮い起こして、阿部ちゃんに助けを求めた。
「おい、見てないでお前もなんか手伝えよ」
ところが阿部ちゃんは、俺の背後から一歩も動かず、ただ一言言い捨てるだけだった。
「その子はもう助からないよ。君が殺したんだ」
どんなに時間をかけても、阿部ちゃんの言っていることが一つも理解出来なかった。
「…は?何言ってんの?俺が?殺すわけないだろ」
「はぁ…皮肉なものだね」
「あ?」
「よりによって、この子の番になって目が覚めちゃうんだから」
「…何が言いてぇんだよ……」
はっきりしない阿部ちゃんの物言いに苛立ちを覚えて、飄々と傘なんかを差しているそいつを睨み付けた。
しかし、阿部ちゃんは全く怯むことなく、淡々と言葉を続けた。
「君は今、君にとって一番大切なものを自分の手で壊したんだ。みんなのことも、今のこの子と同じように君が壊してきた。」
「俺がやった…?ふはっ、、なんかの冗談だろ…?」
「覚えてないの?朝目覚めるたびに、自分の体に残ってた血の匂い」
「………ぁ……は、っはぁッ、ぁ“……っ」
あ…ぁ…………ぁ………っ
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!
真っ白。
目の前も、頭の中も、何もかもが空っぽだった。
俺が殺した。
俺がやった。
誰よりも、何よりも、大事だと思ってた奴を。
おかしいとは思っていた。
朝、いつも鉄臭い匂いで目を覚ますことも、やけに鼻が効くようになったと感じていたことも。
でも、俺の頭の中を掠める現実離れした思考に、「そんなわけがない」と蓋をし続けていた。
俺は、今日まで過ごしてきた時間を無駄にしていたんだ。
これまで起きてきたこと全てを、「俺には関係ない」と思い込み続けてきた。考えることを放棄していた。
小さな歪みに見ないふりをしてきたツケが、今回ってきたんだ。
そう思った。
「ごめん…っ、ごめんな……ッ」
うわごとのように、何度も何度ももう届くことのない言葉を零しては、動かなくなった佐久間の体に縋り付いて泣いた。
俺の腕から、濃く生えていた獣のような毛が引っ込んでいくのを、どこか他人事のような気持ちで遠巻きに見ていた。
そうか。俺、もう人じゃねぇんだ。
そう感じては、ただただ絶望した。
もうこいつは助からない。
俺のせいだ。
俺がぼけっとしてたからだ。
もう戻らない。
もし、最初の日に戻れたら…。
もし、もう一度やり直せたなら…。
ゲームでもリアルでも、なんでも構わない。
誰か、誰でもいいから、こいつが生きていた頃まで、時間を戻して…!!
「やり直したい?」
そんな叶うはずもない願いを抱きながら、誰も汲み取ってはくれない後悔の念に囚われていると、後ろから空っぽの声が聞こえた。
振り向くと、岩の上に座って傘をくるくると回す阿部ちゃんが、こちらを物憂げな目で見ていた。
「…へ?」
「今、そう願ったでしょう?やり直したいって」
「ぁ、うん…でも無理だろ」
「できるかできないか、それは常識の外側の世界に出た上で考えるべき話だよ。君が何かを強く願えば願うほど、不変の事象にさえ手を加えられる力は自ずと湧き出てくる。君が請い願うなら、時間そのものの概念を覆すことだって容易い」
「は……?分かるように言ってくんない?」
「君の時間を「始まりの日」まで巻き戻してあげる。ただし、何回戻るか、いつ戻るか、それを君に教えることはできない。それから、一つだけ約束して」
「約束?」
「戻ったと感じた日の夜は、必ずここに来て」
「なんで?」
「それは君に言ったって仕方のないことだよ。どうやら、君の自我は二つあるらしいからね」
「は?どゆこと…?」
「「始まりの日」の夜に、君は必要ない。この世界が順当に回っていくための走り出しに要るのは、「もう一人」の君の方だ」
「…人狼の方の俺ってことか?」
「僕から言えるのはここまで。じゃあね……」
「狼さん」
阿部ちゃんの姿がぱっと消えた瞬間、目の前が白く光った。
眩しくて、思わず目をギュッと瞑った。
明度が下がったのを瞼の奥で感じて、もう一度目を開けると、目の前には最初に目覚めた、あの誰もいない湖が広がっていた。
本当に時間が巻き戻ったのか、それはよく分からなかったが、俺は阿部ちゃんの言う通りにその湖の周りを歩き回ったり、木陰で昼寝をしたりして、夜になるのを待った。
ひとまず戻ったと仮定して、俺はこれからのことについて思いを馳せながらぼんやりと空を睨んだ。
全力で騙してやる。
俺の手で佐久間を殺してしまわないように。
みんなのことも、この世界さえも、何もかも、最後まで全部欺き通してやる。
微睡の中で固く決めたその心に、俺は何か、とても寂しいものを感じていた。
もう間もなく約束の時間になるかという頃、天高く昇る月が目に入った。
丸々とした大きなそれは、黄金の光を放って夜の中に孤高の如く君臨していた。
まるで、この闇の時間を支配しているかのようなその佇まいに、俺はなんだかゾッとした。
僅かにかかっていた雲が月を通り過ぎ、俺の目にその姿を全て曝け出した瞬間、今さっきまで確かにここにあった俺の意識は、突然プツッと切れてしまった。
眩しい陽の光を瞼の裏に感じて、俺は飛び起きた。
どのくらいの時間日光に晒されていたのか。起き抜けにも関わらず、俺の頭の中はその懸念でいっぱいだった。
自分の体からは、いつもと同じあの鉄の匂いがして、でも同時に、その中に花のような甘い香りが混じっていないことにひどく安心した。
よかった、昨日の夜は、佐久間を殺してはいなかったらしい。
そんな風に考えながら、俺は、一番最初に目覚めた時と同じ場所であろうこの周辺を見回していった。
今日は、佐久間の死が無かったことになった一番最初の日である。
つまりは、他のみんなとも初対面の状態からやり直さなければならないということに、今更ながら気付いて、俺はその億劫な段取りに思わずため息を吐いた。
しかし、無理だと諦めていた願いをこうして叶えてもらったんだと思うと、そう文句も言えず、俺はまた大人しく寝袋を頭から被って、湖を半周した先にある、あの煙突付きの小さな照の家に向かった。
少し前にしたノックをもう一度反芻すると、やはりどこか警戒した様子の照がそのドアをゆっくりと開けた。
この瞬間からもうゲームは始まっている、そう思った俺は、旅人よろしく自分の持てる演技力の全てを込めんばかりに、気まずそうな顔を作って頬を掻いてみせた。
「ぁ、えーっと…すいません、邪魔しましたか?」
俺がそう言えば、後ろからいつかと同じように涼太が照の背中からひょこっと出てくる。
気の良いこいつらは、涼太からの紹介を聞いた途端警戒を解いて、俺に自己紹介をしてきた。
ただ、一つだけ前回と変わっていたことがあった。
佐久間だけが、この場で自分の名を名乗らなかったのだ。
前回は大きく口を開けながら、右手を目一杯上げて自分から自己紹介をしていたのに、今の佐久間は困惑したように全員の顔を見ては、キョロキョロと忙しく首を左右に動かしていた。
佐久間がまたこうして生き返ってくれたことに安心した反面、どうにもこいつの様子がこの間とはまるで違っているように見えて、俺は小さな違和感を覚えた。
同じ時間がずっと繰り返されるんじゃないのか…?
つい先日の記憶と僅かに食い違っている部分があることに、俺は心の中で首を傾げたが、「じゃあ、そろそろ始めよっか」と掛けられた照の号令によって、その疑問は結論を付けられることはないまま、置き去りになってしまった。
照の言葉を発端に、俺にとっては二回目の「初日」の会議が始まった。
みんな一様に動揺していたが、その中で俺は、一人悪目立ちしている奴から目が離せなかった。
「人狼」というワードが出てくるたび、佐久間の体が跳ねていたのだ。
その動きは、なんだか今まで遊び感覚でやっていたゲームの時の佐久間の反応とよく似ていて、俺を懐かしい気持ちにさせた。
「お前、なんかめっちゃキョドってね…?」
そう言おうと思ったが、俺が口を開く前に康二が全く同じことを佐久間に指摘した。
うまく弁明できなかった佐久間は、案の定処刑されることになった。
佐久間は、照とふっか、目黒の三人に壁際まで追い込まれてもなお抵抗を試みていたが、目黒によって首の後ろに手刀を食らわされると、そのまま気を失った。
照の肩に担がれて、佐久間は外に運ばれていった。
断頭台の上で拘束された佐久間の姿を見て、俺はどうしてかひどく安心してしまった。
最低だってことは、誰に言われずとも自分が一番よく分かっている。
それでも、俺の手で殺してしまうよりはマシだった。
もう二度と、こいつを殺したくない。
目の前で大事な奴が今から死ぬという時に、俺はなんてことを考えているんだと、罪悪感に苛まれた。
しかし、それと同じくらい、ほっとしていた。
そんな薄情な気持ちに釣られるようにして、自分の口角が僅かに上がったのを感じていると、少し前に目を覚ました佐久間と目が合ったような気がした。
佐久間は俺を見て、大きな目を更に大きく見開いていた。
驚いたように、絶望するように、戸惑うように。
俺の不謹慎な心の中を見透かされたような気分だった。
ずきっと痛んだ良心に気を取られているうちに、俺の目の前は真っ暗になった。
次に目の前が開けた時、俺また湖のほとりに寝転がっていた。
「…また戻ったのか……」
なぜ戻ったんだ?
俺が殺したわけじゃないのに、なぜまた時間が巻き戻ったのだろうか。
しかし、阿部ちゃんから出された交換条件通りではある。
いつ戻るのか、何回戻るのか、俺はそれを教えてもらえない。
リセットされる条件のようなものがあるのかもしれないが、それを推察するには、まだなんとも判断材料が少なかった。不本意ではあるが、ひとまず観念して、また戻ってしまったこの時間を受け入れることにした。
また陽の当たらない場所で昼寝をしたり、日が暮れ始めてきた頃に湖の中を覗き込んだりして夜になるのを待った。
忌々しいほどに照り付けていた太陽が遠くの山の方へ消えて、真っ暗な空に丸い月がかかった。
その球体に目を奪われながら、俺は自分の体がどんどんと前屈みになっていくのを感じていた。
少し離れた場所で小さくガサっと鳴った音を聞き取った瞬間、俺の体は全速力でその葉音のする方へと四つ足で駆け出した。
疲れてもいないのに短く切れる呼吸音を聞いているうちに、「俺」は眠りについていた。
「ん…」
虫の鳴き声にゾワっとして目を覚ますと、俺はまた湖のほとりで寝こけていたようだった。
両手に付いた赤茶色の錆びを湖で洗い流してから、煙が立ち昇る先へ足を進めた。
三回目の自己紹介にうんざりしながらも、また初日の会議が始まった。
俺は、前回なぜ時間が巻き戻ったのかについて考えてみることにした。
阿部ちゃんは、俺がやり直したいと願ったから時間を巻き戻してくれた。
結果として、俺は佐久間を殺すことは無かった。
ぼーっとしている間にあいつは処刑されたのだから、殺さずに済んだ身としては、その結末で何も問題はなかった。
この世界から抜け出す方法なんてものはよく分からない。
ただ、とりあえず、俺が望んでいない展開を回避して最後まで生き残れれば、俺の勝ちということになり、元いた場所へ帰ることができるのではないだろうか。
一人で考えていても正しい答えは出て来ないだろうから 、俺は一旦そう予想立てておくことにした。
この後、照が話し終わってからすぐ、目黒が話し出す。
途端にみんなは落ち着きが無くなって、隣に座っているお互いを疑い始めるだろう。
ところが、そう思っていた俺の記憶の一本線は大きく横にはみ出した。
「みんな落ち着いてよ!俺たち以外にもこの村に住んでる人がいるなら、そっちの人たちにも聞き込みとかして、情報もっと集めようよ!」
目黒の発言に戸惑ってざわめく奴らを導くように、佐久間が突然大きな声を上げたのだ。
まるで、こいつらが今から疑心暗鬼になるのを知っていたかのように。
探り合いそうになっていたこいつらの思考を、別の場所へ逸らすかのように。
これは考えすぎだろうか。
ただ、俺はなんとなく、佐久間も俺と同じように一つ前の記憶を持っているのではないかと、そんな風に感じた。
「なんや、嫌な話やなぁ…疑いた無いねんけど…」
お人好しの康二がそんなことを言ったことで、周りの空気は悲しげに沈んだ。
疑いたくない、というのはきっと誰しもが思っているだろう。
俺だってこんな立場でなかったら、きっとそう思っている。
しかし、俺だけがみんなと違う。
どんな時も助け合ってきたこいつらを騙していることに、幾ばくかの罪悪感が湧いて、俺は少し俯いた。
「康二、俺もそう思うよ。とりあえず、めめから人狼のことも教えてもらえたし、今日はここまでにしよっか。みんな、今日の夜は外に出ないでね」
照が俺たちにそう声を掛けた後会議は終わり、涼太が俺に「翔太、今日はうちに泊まってく?」と聞いてきた。
俺は「おう、頼むわ。悪りぃな」なんて、その日暮らしの旅人のような口ぶりで返事をした。
「ねぇ、今まで回ってきたところで、どんな場所が思い出に残ってる?」
涼太はぽうっと灯る蝋燭の灯りの中で、ワインの入ったグラスをくるくると回しながら、テーブルに肘をつき、前屈みで俺にそんなことを尋ねた。
俺は、なんと答えようか迷って、つい最近、MV撮影で行った外国のことを話しておいた。
大きな建物、目の前に大きく広がる自然、目に新しい現地の郷土料理の数々、見て味わったそのままを語った。
俺の話を聞いて、涼太は「俺もいつか行ってみたい」と言いながら瞳を輝かせていた。
「お前も行ってたんだけどね」と思ったことは、口に出さないでおいた。
俺もグラスに少しのワインをもらったが、匂いが強くてやはり飲む気になれなかった。
「飲まないの?」と涼太に聞かれても説明が面倒くさいので、俺は息を止めてその赤紫色の液体に口を付けるふりをした。
「歩き回ってた疲れが出たかも、もう寝るわ…ぉっと、」
熟れきった葡萄とアルコールの臭気が部屋中に充満していて、俺は匂いだけで酔い始めていた。
立ち上がると、頭がクラクラして、少しよろけてしまった。
「わ、大丈夫?そこの部屋好きに使っていいからね」
「お前まだ寝ねぇの?」
「この一杯が終わったら休むよ」
「あそ。じゃあお先」
「うん、おやすみ」
少しぶりに入った涼太の家の、薄い布団の上で、俺はゆっくりと目を閉じた。
戸板をすり抜けて入ってくる隙間風を感じて、目が覚めた。
全ての音がはっきりと自分の耳に入ってくる。
風の音も、虫の羽音も、近くの川がサラサラと流れていく音も、何もかも。
目を閉じて耳を澄ませる。
リビングから物音はしない。
どうやら涼太は寝たようだ。
俺は起き上がって外に出た。
涼太と夜飯を食ったはずだった。
でも、それだけでは駄目なんだ。
腹が、減っていた。
空気中に残っていたわずかな匂いを頼りに二本足で走っていくのがもどかしくて、早く早くと誰かに急かされるように、俺は気付けば両腕も使って村の中を駆けていた。
誰かの真っ黒い後ろ姿がぼんやりと見えた時、俺はまた深い眠りに落ちた。
四つの足の裏にぴちゃぴちゃとまとわりつく泥が、助走をつけて走るたびに俺の胴まで跳ねた。
いつ帰ってきたのか定かではなかったが、気付くと俺は涼太の家で寝ていた。
あの錆びた匂いが、体中にこびり付いていた。
それは鼻までツンと漂ってきて、眩暈がした。
きっと俺はまた、俺を止められなかったんだろう。
そんな予感に悲しくなって、苦しくなった。
今すぐにでもこの匂いを取り去りたくて、俺は毛布を放り投げて川に向かった。
台所でパン生地を捏ねていた涼太に「川行ってくる」とだけ伝えて、足早に真水の流れるそこへと向かった。
頭まで潜っては、全身を手で擦ってを繰り返す。
落ちているかどうかは分からないが、自分の気持ち的にこうしないと気が済まなかった。
消し去りたかったんだ。
自分が毎晩しでかしていることの全てを。
これで無かったことにできるなら、そうしたかったんだ。
自分が壊してしまったものの全部を。
ぎゅっと閉じた目から、一ミリくらいのあったかいものが川の中に溶けていった。
いい加減寒くなって、川から出た。
体を拭いて、ヨレヨレのシャツに袖を通した瞬間、強い雨が降った。
「ぅーわ…最悪……。」
せっかく綺麗にしたのに…。
そう思ったが、この灰のような匂いを纏った雨が、俺の体に染み付いてしまった錆を掻き消してくれるのなら、もうそれでいいやと俺は諦めたように小さく笑った。
涼太の家へ戻ったすぐ後、慌てた様子の康二が大きな音を立ててそのドアを開け放った。
「わ、驚いた。康二、どうしたの?」
涼太が尋ねると、康二は目にたくさんの涙を溜めながら、小さく口を開いた。
「めめが、人狼に襲われてしもうた……っ、」
俺はまた、大切なものをこの手で一つ壊したんだと思い知らされた。
目黒の体をみんなで土の中へ埋めた後、照の家に集まって二日目の会議が始まった。
それぞれの夜の行動を確認していくと、ラウールから、目黒と康二と固まって一緒に過ごしていたと聞かされた。
それに、ふっかも照の家に泊まったと言う。
涼太は自分の昨日の動きを伝えるついでに、俺のアリバイも証明してくれた。
これは大変助かった。
実は昨日の夜、涼太が寝た後で家を出ていた、ということについてはもちろん黙っておいた。
最後に残っていたのは佐久間だけだった。
まっすぐ家に帰って寝た、と言う佐久間の言葉を誰も信じはしなかった。
会話に混ざらずとも、流れるように佐久間が処刑される形で話が進んでいった。
断頭台の高みから、佐久間はまた俺を見ては困惑するように、その瞳を揺らせていた。
俺は、また自分の手が佐久間の血で染まらなくて済んだという安堵から、ふっと口元に僅かな笑みを溢していた。
もう間もなくこいつは死んでしまう。
でも、これで良い。
俺なんかに殺されるより、今ここで時間を止める方がこいつにとってもきっと、気分的に幾らかは良いだろうから。
いや、違う。
ただ、俺が殺したくないだけ。
履き違えるな。
棚に上げるな。
結局は自分が一番可愛いんだろ?と、心の中で俺自身の声がして、必死に無視し続けている自分の嫌な部分が浮き彫りになったようで、そんな感覚に不快感が募った。
大きな刃が、佐久間の首目がけて一直線に落下していく刹那、全身の力がふっと抜けて、その場に倒れ込みそうになるような錯覚を覚えた。
次に目を覚ました時、俺はまた一人、ポツンと湖のほとりにいた。
「…またか……」
どうやら俺はまた、「始まりの日」まで帰ってきてしまったらしい。
この「戻る」という現象は、なんのためにあるのだろうか。
阿部ちゃんが時間を操作していることは間違いない。
ただ、今さっきまで過ごしてきたものを、阿部ちゃんは「もう一度繰り返せ」と言っているのか、「やり直せ」と言っているのか、どちらなのかが俺には分からなかった。
阿部ちゃんの気に入る展開だったのか、そうではなかったのか。
ひとまず、時間が巻き戻る条件についてはなんとなく分かってきたので、俺はまたその場で夜を待った。
淡く輝く月を真正面から目に入れた時、俺はまた抗い難い睡魔のようなものに負けて、「もう一人」の俺に大人しくその自我を譲り渡した。
雨上がりの冷たい空気に身震いして起き上がると、また朝になっていた。
手にはいつも通り、赤茶色の錆がこびり付いていた。
湖に両手を浸して洗い落とし、また照の家に向かった。
湖の半周分とはいえ、この水面はそもそもがとてつもなく大きく、毎回なぜこんなに歩かなければならないんだと、俺はブツブツと文句を言いながら歩みを進めた。
村の入り口に差し掛かった時、大きな荷物を背負って焦るようにこちらに向かって歩いてくる人とすれ違った。
見慣れない顔をしていたが、その体には所々包帯が巻かれていた。
俺の横を通り過ぎた瞬間に香ってきたその人の匂いに、俺はどこか覚えがあるような気がした。
きっと、ふっかが言っていた「軽傷で済んだ」俺ら以外の「最後の村人」だろうと思った。
俺の爪から、その人の包帯の奥底に隠れたものと同じ匂いがしていたから。
簡単だからこそ面倒に感じる自己紹介を形式的にやり過ごし、初日の会議をするために俺たちはまた輪を作った。
佐久間はままた、俺の記憶と違う行動をした。
目黒が話し出す前に、割って入るように話を切り出したのだ。
「人狼ってさ、昼の間は大人しいっぽいね。今日は朝から結構出歩いてたけど、そんなに危ない感じはしなかったし…」
まるで、目黒がこれから何を話そうとしていたのか、その内容を知っていたみたいだった。
「夜の間は、家の中にいたら安全なのかな?」
処刑を免れるために、佐久間はわざと話を逸らしたように見えた。
いつだって同じ行動を繰り返しているこいつらと、「始まりの日」に戻るたびに少しずつ言動が変わっていく佐久間とが存在している光景を、俺はどこか異様に感じた。
気のせいかもしれないが、佐久間は回数を重ねるごとにこの世界に順応し、会議の主導権を握り始めているような気がした。
しかし、そんなことがあるだろうか。
時間が巻き戻るのは、俺がそう願ったから。
佐久間を自分の手で殺さないようにするために、未来を変えたかったから。
だから、このループに関わっているのは俺だけのはずなのだ。
何かの手違いで少し内容が変わることもあるのかもしれないと、俺は短絡的に考えて、会議にもう一度思考を戻した。
佐久間が話を逸らしたことで、話し合いは初日の会議は誰と誰が一緒に過ごすか、という方向に切り替わった。
目黒、康二、ラウールの三人は、目黒の家で。
照とふっかは照の家で。
「翔太は今日どこで寝るの?」と涼太から聞かれて、俺は咄嗟に旅人になりきって、「あー、常に寝袋は持ってるし、どっかで野宿するつもりだったけど」と返答した。
俺の身を案じてくれた涼太は、俺の返しにまた、「泊まっていけ」と言ってくれた。
しかし、その直後、涼太は「佐久間もうちにおいでよ」と言った。
佐久間は嬉しそうに、「え!いいの!?ありがと!」と笑った。
一方の俺は、心中穏やかではなくなった。
同じ家で夜を過ごすとなった場合、俺は真夜中にどんな行動を取ってしまうのかと、気が気ではなかった。
前回の記憶が正しければ、俺はまた今日も同じように夜中に起きて外に出るはずだ。家の中から外までの道のりの中に佐久間がいれば、確実に殺してしまう。
そう予感しては、焦燥の念に囚われた。
そんな俺の気持ちを知らない佐久間は、「じゃあ、今日は江戸川トリオで夜更かししようぜー!」と右手を高く上げた。
涼太は佐久間の掛け声にポカンとしていたが、俺はそこで確信した。
こいつは、俺と同じ現実世界の記憶を持っている、と。
「江戸川」なんてワードは、この世界にはきっと存在していない。
涼太の反応を見れば分かる。
それに、「エドガワ…?」と聞き返した涼太の鸚鵡返しに、佐久間は「なんでもない」と焦ったように即座に取り繕っていた。
この世界とは別の場所に「江戸川」なるものが存在しているが、ここにいる奴らはそれを知らない、というところまで分かっているからだろう。
その正体を知りたがった涼太に、「旅してきた先で「エドガワ」を見たことはある?どんなものなの?」なんて聞かれてしまったら、たまったものではない。
みんなと解散して、涼太の家へ向かう道中、俺は「後で行くからー!」と声を上げた佐久間に近寄っていった。
お前の発言で俺にまで飛び火されてしまっては困る。
涼太がここ以外にもう一つの時空があることを認知していなくても、周り回って俺のところまでそのトンチキな話や質問が飛んできては面倒だし厄介だ。
そんな億劫がる気持ちを抱きながら、俺は佐久間の腕を引き、耳元で囁いた。
「お前、あんま余計なこと言わない方がいいぞ」
なぜそう伝えたか、それを説明して佐久間にこちらも現実の記憶を持っていると悟られるのも、後々のことを考えると面倒くさかったので、それだけ言って、俺は涼太の後について行った。
夜飯も済ませて布団に入ったが、全く眠れる気がしなかった。
この部屋を隔てたどこかの別室で、今、佐久間が眠っている。
そのことに俺の意識は全て向いていて、この後にやってくるかもしれない悲しい惨劇の光景が脳裏を過ぎっては、一層目が冴えていった。
涼太が作ってくれたシチューとバゲッドを腹一杯食べても、まだ満たされていなかった。
何か、喰いたい。
小腹が空いた、なんてそんな生温い感覚ではない。
乾いているような、食べ物は体の中に取り込んでいるはずなのにいつまでも飢えているような、そんな体中を掻き毟りたくなるほどの強い渇望が、とめどなく溢れ出続けていた。
ふと、遠くの方から聞こえてくる駆け足の音に俺の耳はピクッと動いた。
次第に強まってくる匂いを感じた俺の体はひとりでに起き上がり、一直線に玄関の方へと向かっていった。
人間の手で、その鍵を開けて外へ出る。
すぐ近くまで迫ってきているその芳香を頼りに、次第に前屈みになって最後には地面に付けた両腕も使いながら四つ足で駆けて行った。
闇夜の中で息を整えていた黒い影は、こちらを振り返るとハッとしたように目を見開いた。
僅かな光源を頼りに反射したその眼球の輝きめがけて、俺はその影に飛び付いた。
「ごめんな」
そう思ったことは、確かだったはずなんだ。
しかし、それを確かめる前に、俺の意識はどこかに追いやられてしまった。
「あ、あった」
「やった、一つ目のかけらだ」
「消えた星の隙間から」
「一つ落ちる」
「月の破片」
「拾い集めて胸に抱く」
「硝子の小瓶が満ちるまで」
「ふふっ、楽しみだなぁ」
草むらを掻き分けるように何かを探していた青年は、闇夜に輝く小さな粒を拾っては、手に持っていた小さな小瓶の中にそれを閉じ込めた。
雲間に刺す月の僅かな光にその容器をかざして、青年は、静かに一人微笑んでいた。
浮上した意識に誘われるまま目を開けると、そこは涼太の家の客間だった。
いつの間に帰ってきているんだと、いつも疑問に思うのだが、そんなこと考えたくもないとも思う。
外に出て、何をしてからまたここに帰ってきているかなんて、俺が一番よく知っている。
そこに思考を巡らせても、ただ苦しくなるだけなら何も考えない方がいいだろう。
俺を責め立てるかのように、また錆びた鉄の匂いが体から漂ってきた。
洗い流そうと思い体を起こすと、壁を隔てた隣の部屋からギィィィ…と戸の開く音がした。
あたりはまだ真っ暗である。
こんな時間にどこに行くのだろう、純粋にそう思った。
誰だ?
足音はゆっくりと遠ざかって行っていて、二回目の戸が開く音がした後、何も聞こえなくなった。
俺も部屋を出て居間の方へ行った。
鼻をすんすんと鳴らしてみる。
この部屋の中に、まだ微かに残っているその香りに覚えがあった。
この匂いは、いつも秋を思い出させる。
寒くもなく暑くもない。過ごしやすくて、木の葉が綺麗な黄金と紅に色付く季節だ。
これが鼻腔をくすぐるとき、俺はいつも落ち着いた気持ちになれる。
「佐久間か…」
そう独言てから、俺は水浴びをしに川へ向かった。
心なしか嫌な匂いも取れただろうというところで、川から上がって涼太の家に戻ると、涼太から「一緒にラウールを探して欲しい」と言われた。
涼太に急かされるまま、そこら中を駆けずり回ったが、俺にはラウールがどこにいるのか、ちゃんと分かっていた。
朝に感じた鉄の匂いと、人間の嗅覚ではもう判別できないくらいにしか残っていない僅かなラウールの血の匂いは、全く同じだったから。
一つ前の時間で目黒を埋めた場所に、ラウールを入れて、土をかけた。
自分たちの弟分が殺された、ということに、みんなは静かに怒っているようだった。
俺は俺で、今晩も佐久間が涼太の家に来ては困ると考えていた。
加えて、段々とこの話し合いに立ち回れるようになってきている佐久間に、これ以上生き残られていても厄介だと感じた俺は、あえて佐久間が疑われるようにしようと企んだ。
今日の夜明け前に佐久間が出掛けてくれたことは、俺にとっては好都合だった。
「佐久間、お前、今日の明け方どこ行ってた?」
「え?どこって…」
「すっとぼけんじゃねぇ。お前が夜明け前に涼太の家から出てくの、気付いてたぞ」
「佐久間くんは、今日の朝、俺と湖に行く約束してて、起こしにきてくれたんすよ」
佐久間を庇うように間に割って入った目黒に、押し負けてしまわないように、俺は更に畳み掛けた。
「それいつ頃の話だ?」
「えーっと、陽が登った頃だったと思います」
「俺が気付いたのは陽が昇る前だ。目黒を迎えに行くまでには大分時間があったよな?何してたんだよ」
「そ、それは…」
「言えないことしてたってわけか?」
我ながら、ひどく上手い演技ができたものだと、その冷たさに逆に感心するような気持ちだった。
言えないことをしていたのは俺の方だというのに。
「白々しい」
阿部ちゃんの言う通りだ。
俺は自分がしたことの全てを佐久間になすりつけて、見殺しにした。
誰になんと言われようと、別に構わない。
俺には俺の守りたいものがある。それだけだ。
それが失われないのなら、俺はなんだってする。
嘘を吐くことも、俺の罪を他の誰かに着せることも、なんだって。
偽りの事実に絡め取られた全員の疑いの目が、佐久間に向いていく。
それを遠巻きに眺めながら、俺は自分の思惑通りに佐久間が捕えられていく光景に、左の口角が自然と上がってしまうのを感じ取っていた。
あの断頭台の上で佐久間を見るのは、もう三回目だろうか。
俺は、なんとも言えない切なさを感じていた。
やっぱり自分の大切な人が死んでしまうのは悲しいし、寂しい。
でも、一番嫌なのは、俺が自分の手でこいつを殺めてしまうこと。
夜になれば体の動きは制御できないし、なんなら人間である時に持っている意識と自我は強制的にシャットダウンされてしまう。
そんな状態で容赦なく誰よりも大事に思っていた奴を殺してしまうくらいなら、今のように目の前で処刑されて欲しかった。
結局、俺は傷付きたくないのだ。
あの日のように、自分が壊してしまったんだと気付かされた瞬間に味わった痛みを、もう一度この身に受けることが怖かったんだ。
その苦しみから逃げたくて仕方なかった。
佐久間を失うことの寂しさ、自分という人間の悪どさに、俺は力無い自嘲的な笑みが顔面に浮かんでいくのを感じていた。
また巻き戻されるのだろうか。
こいつが処刑されるたびに時間は最初の日に戻る、ということはなんとなくわかってきた。
今回も条件としてはそれに当てはまっている。
俺が仕向けたも同然の、断頭台の大きな刃がガコッと音を鳴らし、佐久間のうなじに向かって垂直に落ちていく光景を目を閉じながら見送った。
しかし、これから遠くなっていくであろう意識は、次に目を開けた時も変わらずここにあって、目の前には真っ二つになった佐久間の首が転がっていた。
佐久間が死んでからというもの、俺たちは顔を合わせるたびに、お互いを憎しみ合うようになった。
俺は、夜になれば誰かも分かっていないまま手当たり次第にメンバーを襲い、朝が来たと同時に川で体を洗った。
昼になると誰かがいなくなったと、また別の誰かが騒いでそこら中を探し回る。
大きな穴を掘って、花を手向けた後は会議をする。
「家が隣だったから」「今日はパンを持ってきてくれなかったから」「寝不足に見えるから」
そんな訳の分からない理由をこじ付けては一人、また一人と処刑されていった。
不思議なくらい、俺はずっと疑われなかった。
恐らく、「ここに戻ってきたばかりで何も知らない」と最初の日に言い続けていたことが要因であるとは思うが、おかしいくらい俺以外の誰かが疑われて処刑されていった。
「お前昨日どこ行ってたんだよ…」
「涼太の家借りて寝てたけど?お前こそなんかしてたんじゃねぇの?」
「は?誰が真夜中に出歩くかっつーの。阿部ちゃんが行方不明な以上、お前しかいねぇだろ」
「バカかよ。つい何日か前にここに戻ってきた俺が、土地勘もねぇのに、んな夜中に出歩くわけねぇだろ」
「お前じゃねぇなら他に誰がいんだよ!」
「知らねぇよ。誰か森にでも潜んでんじゃねぇの?」
「…時間の無駄だわ。俺は俺で過ごす。こんな得体の知れないやつと一緒になんか過ごせるかよ」
「勝手にしろ。俺だってお前と寝るなんざお断りだね」
俺とふっかだけが取り残された照の家の中で、会議は決裂した。
揉めるつもりはなかったが、お互いに意見がぶつかり合って話はまとまらず、結局別々に夜を明かすことになった。
ふっかたちは阿部ちゃんを行方不明だと思い込んでいる。
ここで阿部ちゃんのことについて触れれば返って怪しまれてしまうと思った俺は、阿部ちゃんと数日前に接触していたことについては話さないでおいた。
夜になり、俺の体が生暖かい温度と血肉を求めて動き出す。
昼間に嗅いだふっかの匂いを辿って、ゆっくりと歩みを進めていく。
雲が切れ、丸く太った月が冷たい地面を照らした。
その黄金色を見上げていると、体が疼いた。
気付けば俺は、思考も意識も全てかなぐり捨てて、本能のままに吠えていた。
あの金色に輝く大きな月まで届くように。
人ならざる者が、この世界でただ自分だけが持つ、捻れた正義を主張するように。
「ねぇ、もし明日…もしも明日、、、」
どこかからそんな声が聞こえてきた。
聞き馴染みがある気がしたが、誰の声かは分からなかった。
ゆっくりと目を開けてみても、周りには誰もいなくて、俺だけが湖のほとりにいた。
「また戻りやがった…なんなんだよ…」
あとはふっかだけになった、というところになって、また時間は巻き戻ってしまった。
記憶も無いままふっかを殺して、俺の勝ちになるはずだった。
やっと元の世界に帰ることができるんだと、そう思っていた。
しかし、それはどうやら叶わなかったようだ。
何が気に入らなかったのだろうか。
俺が勝てば、それで良いのではないのか。
その気の赴くままに、阿部ちゃんが操作する「時間」に、俺は苛立った。
また初めからやり直しだが、やるしかない。
俺はまた夜が来るまで木陰に隠れて昼寝をした。
翌朝、もう何度も繰り返している赤茶色の錆を落とす作業をしてから、照の家に向かった。
「人狼がこの村に隠れてる。俺たちで人狼を探し出して、倒そう。誰か、人狼の特徴とか知ってることとか、何か情報を持ってる人はいる?」
照の言葉を皮切りに康二やラウールが、その瞳に怯えの色を纏わせて動揺する中で、目黒がすっと右手を上げた。
「話してもいいすか?」
俺は、この光景を懐かしく感じた。
一つ前の時間では、佐久間がその全てを遮っていたから。
今回、佐久間が騒ぎ出さなかったことに俺は内心驚いた。
佐久間は、ただじっと全員の顔を見回していた。
目黒の言う「噂」は、殆ど合っていた。
昼と夜とでは俺の姿は全く違う。
心も失ってしまう。
だからこそ、探し出すのは難しい。
俺だって、まさか自分がこんな姿になってしまっていたとは思わなかった。
佐久間の死に直面するまで、俺自身がその事に気が付いていなかったくらいなのだから。
目黒が話し終わると、それを待ち構えていたように、やはり佐久間が口を開いた。
「夜はみんなで固まって過ごした方がいいんじゃない?って思うんだけど、どうかな」
まだ初日ということもあってか、そこまで緊張していない様子のみんなは、佐久間の提案に緩く賛同した。
「俺、明日の朝、めめと湖に行く約束してんだ!めめ、どうせならお前ん家泊まっていい?その方が寝坊しないしさ!」
なるほど、そう来たか。
佐久間はどうやら、自分の予定を全員の前で提示しておくことで、こいつらの意識を初日の処刑から逸らし、加えて明日のアリバイまで示してみせたようだった。
佐久間に同調するように、康二とラウールまでもが目黒にくっついて行った。
あとはこれまでと同じ組み合わせで、初日の夜を過ごすことになった。
まずい。
かなりまずい。
こいつ…人狼ゲーム上手くなってきてやがる…。
俺は焦る気持ちを抑えつつ、平然を装い続けた。
「葡萄酒でも飲みながら、旅の話聞かせてよ」と微笑みかけてくれる涼太に、
「悪りぃな。世話んなるわ」と生返事をしてナップザックを背負い、照の家を出ていった。
振り向きざまに見た佐久間の顔は、嬉しそうに綻んでいた。
夜になり、俺はまた涼太の家を抜け出した。
どこかから聞こえる、木と紐のようなものが鈍く擦れる音に向かってゆっくりと近付いていく。
「こんな時に限って水切らしてた…最悪…。一杯だけ汲んで早く戻ろう…」
あの声は照だろうか、そう認識した途端、「俺」の心は今日もまた、眠ってしまった。
翌朝、体中に残る鉄臭さで目を覚ますと、俺はまず外に出た。
洗濯物を外に干していた涼太とかち合うと、涼太はふわっと微笑んだ。
「翔太、おはよう。ゆっくり眠れた?」
「おう。おかげさまで。床固かったけどな」
「ふふ、貴族じゃないんだから、ふわふわなとこで寝れるわけないでしょ?」
「それもそうだな」
お前の口からそんな言葉が出てくるなんて、と思う。
やっぱりこの世界は狂ってる。
何もかもがあべこべだった。
「川で体洗ってくる」
「昨日の雨でかさが増してるから危ないよ?ほんとに行くの?」
「…毎日そうしないと気が済まないんだよ」
「相変わらず綺麗好きなんだから。翔太がなんで旅人になったのか、ほんとに不思議」
「俺もそう思ってたとこ」
涼太と短いやり取りをしてから、急いで川へ向かおうとすると、遠くから目黒がこちらへ駆け寄ってきていた。
「あ、目黒。おはよう、どうしたの?そんなに慌てて」
「舘さん、岩本くんが…!」
「照?照がどうしたの?」
「岩本くんが、死んでた…」
やっぱりか。
ただその言葉だけが、頭の中に浮かんでいた。
俺たちの前を早歩きで進んでいく目黒に連れられて、体は洗えないまま、湖のそばの大きな岩へと向かった。
そこに照は横たわっていた。
最後に照の姿を見たのは、照の家のそばにある小さな井戸のあたりだった。
どうやら、俺が致命傷を負わせた後、照は一人でここまで移動したらしい。
全員でその動かなくなった体を埋めてから、主人がいないその家へと集まった。
昨日、照と一緒に過ごしていたふっかに、自然と矛先が向いていく。
ふっかだって、何が起きているか分かっていないだろうに、今こうして全員から疑いの目を向けられていては、たまったものではないだろう。
段々とふっかが苛立っていくのが分かる。
無理もない。身に覚えのない事件の犯人として疑われていれば、誰だってそうなる。
ふっかが正直に事の全てを話しても、誰もそれを信じなかった。
ただ一人、佐久間だけは、ふっか以外に犯人がいるのではないか、と迷うように瞳を揺らせていた。
「寝てる間でもいいからさ…なんか物音とかしかなかった…?」
「んぁ?…あー、なんかあいつ、喉乾いたとか、水が切れてるだとか、そんなこと言ってたな。井戸に水でも汲みに行ってたんじゃねぇの?でも、寝てる間の話だから、確実ではないよ」
そう、ふっかの言ってることは正しい。
でも、俺がそれを言うわけにはいかない。
昨日の晩、照の最期を知っているのは、俺だけなのだから。
結局、ふっかは誰にも信じてもらえないまま、諦めたように自ら断頭台の上に降り立ち、その全てを受け入れていた。
ふっかの時間が止まった後、鐘の音が一つ鳴った。
今の俺には、それがものすごくうるさく聞こえた。
照とふっかが死んだことで、俺たちの間に流れる空気は一変した。
昨日までの穏やかな雰囲気はどこにも見当たらず、ただ、どんよりとした重たいものだけがここにあった。
一つ前の時間に感じた気まずさが、もうすぐそこまでやって来ている、そう予感した。
涼太の家に帰ってくるなり、俺は涼太に声を掛けてから川へ向かった。
目黒に呼び出されたことで、洗えずじまいになってしまっていたあの匂いを、一刻も早く洗い落としたかった。
ああしてみんなと話しているうちに、その場にいた全員が、この生臭い鉄の匂いに気付いてしまうのではないかと思うと、ずっと落ち着かなかった。
早く消さなければ。
その一心で、俺は無我夢中で全身を擦りまくった。
夜になり、通常の食事では満たされることのない腹の虫に起こされる。
何かに取り憑かれたようにむくっと起き上がるこの体は、もう「俺」の力では止められない。
静かに涼太の家から抜け出すと、雲の切れ間から漏れる月の光が俺の影を地面に映し出した。
その姿は、なんとも中途半端だった。
これからじわじわと変わっていくのだろうか。
二本足で立つその黒いシルエットには、長い尾と大きな三角形の耳がくっきりと見えていた。
「やっぱり…君だったんだね…」
背後から、息を呑むような声が聞こえてきた。
背の高いその体は、喰べられるところが多そうで、美味そうだった。
そんな風にしか人を見られなくなってしまった「もう一つ」の本能を物悲しく思っていると、「俺」の意識はまた強制的に端に追いやられた。
目の前のそいつに向かって駆け出していく瞬きの間に、俺の体は前屈みになっていったような気がした。
翌朝、涼太の家で目を覚ましたあと、また川で体を洗って涼太と朝飯を食べた。
涼太は固いフランスパンを豪快に齧りながら、困ったように眉を下げて外を眺めていた。
「最近は雨続きだね」
「そうだな」
「こうも晴れないと、洗濯物が乾かなくて困っちゃうよ」
「家の中で干せば?」
「それだとお日様の匂いがしないでしょ?洗濯物が太陽の光でぽかぽかに温まってるのが好きなの」
「そうかよ」
取り止めのない会話をしていると、また突然、目黒が俺たちの家に入ってきた。
ドアが開け放たれた瞬間、目黒の体からなんとも言えない生臭い匂いが香ってきた。
目黒はただ一言、怒りを押し殺して振り絞るように言った。
「ラウールが、殺された…っ」
ラウールの顔は真っ白だった。
服は血まみれなのに、顔だけは綺麗で、不自然だった。
その疑問はすぐに晴れた。
ラウールの血の匂いを辿った先に、佐久間の濡れた袖があった。
きっと、佐久間が拭ったのだろう。
それは真っ赤に染まっていた。
ラウールを埋葬して、残ったメンバーでまた照の家に入った。
ここまで佐久間が残ってしまっていることに、俺はかなり焦っていたが、今俺の目の前で口論している目黒と康二に割って入るほどの度胸は、流石に無かった。
「…〜っ、だから!昨日の夜一人だったのはお前だけだろ!」
「俺がラウにあないな酷いことするわけないやんか!!」
「だったら、お前じゃないって証明できること、なんかあんのかよ!」
康二は強く目黒に追及されると、いよいよ言葉に詰まってしまったようだった。
この状況で「佐久間怪しくねぇか?」なんて、突拍子も無いことを言ってくれるバカがいるなら、誰か呼んできて欲しかった。
このままでは、康二が処刑されてしまう。
となると、今日の夜に残るのは涼太、目黒、佐久間、俺の四人だけ、ということになる。
今日の夜、涼太を殺してしまったら、今日も今日とて一緒に夜を過ごすことになるであろう俺は、確実に疑われる。ここにきて、急に涼太の家に泊まるのを断るのは間違いなくこいつらの目に不自然に映るだろうから、これは避けられない。
目黒を殺してしまったとしたら、涼太に、佐久間か俺が疑われる。恐らく佐久間自身は市民側として話を進めていくだろうから、そうなると涼太と組んだ二対一の構図が出来上がり、言い逃れの方法が全く分からない俺は、きっと押し負けてしまう。
そして、佐久間は殺せない。
八方塞がりだった。
どうしたらいい?
どうしたら俺が望む結末を手に入れられる?
考えても考えても、いい案は浮かばなかった。
こんな時こそ、時間を巻き戻して欲しかった。
何もかも思い通りにならなくて、歯痒かった。
でも、これが普通のことなんだ。
自分が一番「無理」だと分かっていたではないか。
時間は巻き戻らない。
当たり前のことだ。
この世界がおかしいだけで、現実に生きていたらこんなこと、起こるわけがないんだ。
失ってしまったものは、戻らないんだ。
諦めたように目を伏せると同時に、目黒が康二の首に手刀を振り下ろした。
力無く断頭台の木板に首を預ける康二を、遠巻きに見ていた。
その高みに登った目黒と佐久間が、小さい声で話をしていた。
よく聞こえる今の俺の耳には、その全てが筒抜けだった。
「めめ、やめようよ…きっと、康二じゃないよ…」
「佐久間くん、ここで見過ごしたら、また明日も同じことが繰り返されるかもしれない」
「でも…っ」
「眠ってる間に終わらせる。今まで一緒に過ごしてきたんだ。それくらいの情けはかける」
「…だめ…めめ、、れんっ、やめて…っ」
「佐久間くん、ごめんね」
佐久間が小さく紡いだ目黒の名前は、胸が締め付けられるほどに痛そうだった。
この世界で、佐久間は初めて“めめ”ではなく、“蓮”と呼んだ。
名前を呼ぶことで、目黒の意思を止められると思ったのだろうか。
はたまたそれは、あいつの現実世界での目黒の記憶が、今目の前に立っている目黒と重なり、仲間にそんなことをさせたくないと願って出てきた咄嗟のものだったのか。
佐久間の気持ちを押し測ることはできなかったが、その痛切な声に俺の胸は苦しくなった。
目黒の手からロープが離され、一瞬のうちに大きな刃が康二の首に落ちると、大量の赤が弾け飛んだ。
その強すぎる匂いに、俺は顔を顰めて目を逸らした。
雨の匂いが強くなった。
ゴロゴロと唸るような低い轟音が、遠くの方から近付いて来ているのを俺の耳は敏感に感じ取っていた。
雷と強い雨が引いたのを確認してから、俺は外に出た。
体を振るって乾かすのが大変だから、極力濡れたくなかった。
水が嫌いな犬もここにいたな、なんて徐々に狂い始めている頭でそんなことを考えていた。
ぐちゃぐちゃとぬかるんだ道を、四つ足を使って歩いていく。
肉球にまとわりつく水と泥が気持ち悪かった。
風に乗って運ばれてきた生臭い匂いを瞬時に嗅ぎつけた俺は、素早くそれに反応して駆け出した。闇夜に紛れるようなその黒い後ろ姿に、俺の体は狙いを定めるように自然と低い姿勢を取っていた。
俺の気配に気付いたそいつは、銀色に輝く一本の剣を俺に向けた。
そいつは紛れもなく目黒だった。
目黒は、久々に見かけた傘を差している奴を背中に隠して、ニヤリと笑っていた。
目の前に転がる喰い物に、俺の体は何もかもを忘れて飛び付いた。
翌朝、ひどく体が痛くて目が覚めた。
昨日の夜の記憶はもちろん無い。
覚えているのは、暗闇で冷たく笑っていた目黒の顔だけだ。
ゆっくりと体を起こして、痛む箇所に目をやると、身体中に切られたような傷があった。
目黒にやられたんだろうと思った。
それは、服の下でいつまでもジクジクと痛んでいた。
相変わらず、俺の体からは鉄の匂いがした。
自分のものだけではない。
きっと、目黒の…そう、あいつの匂いも混じっていると思う。
すぐに洗い流そうと思い立ち、俺は川へ向かうために狭い部屋のドアを開けた。
家の中はしんと静まり返っていた。
涼太の寝息も、どこかで動き回るような音も聞こえなかった。
涼太が毎日焼くあの麦の匂いもしなかった。
「涼太?どこだ?」
少し不気味だった。
いつでもどこかしらにいた涼太の痕跡が、今はどこにも無いのだ。
俺は、空気中にわずかに残っている涼太の匂いを追って、外に出た。
腰を低く曲げて、地面を凝視しながら歩いていくと、小さな薔薇園に行き当たった。
綺麗に整えられたその植木の一角が歪んでいた。
恐る恐る近づくと、その植え込みに沈むように、涼太がそこで静かに眠っていた。
「…涼太…?」
「おい、どうした?ここで寝るなよ…おいって…」
何度肩を揺すっても、涼太は目を開けなかった。
何が起こってる…?
おかしい。
そんなわけがない。
だって、認めているわけではないが、俺が昨日殺したのは目黒のはずなのだから。
それに、涼太には今まで俺がみんなに付けてきたような咬み傷の一つも無かった。
何故だ。何故涼太は死んだんだ…?
まさか、俺以外にも人狼がいたのか…?
であれば、それは誰なのか。
堂々巡りの考え事をしながら、ぼーっと空を眺めていると、土を蹴る音が聞こえてきた。
それは相変わらず、とろくさかった。
「翔太!翔太っ!大変なの!!めめが!阿部ちゃんがっ!」
ほんとに声でかいな。
そんな大声で話さなくたって聞こえてるよ。
今の俺は、耳が良いんだから。
俺は佐久間の大きな声を全て聞き流して、途切れ途切れに今の状況を伝えた。
「涼太が、死んだ」
佐久間と二人で三人分の穴を掘るのは、なかなかに骨が折れた。
道具だって心許ないものしか揃っていないこの時代で、俺たちはただの木同然の杭で穴を掘り続けた。
手首にかかる袖が邪魔で、俺は意図せずそれを捲った。
露わになった腕には、めめに切られたのであろう大きな傷があって、それは大きくぱっくりと割れていた。
風に触れると、またそれはじくっと痛んだ。
佐久間は涼太の墓に抱えきれないほどの薔薇の花を入れていた。
目黒は、俺たちがどう頑張って剥がそうとしても、決してその腕を阿部ちゃんから離しはしなかった。
だから、二人でそのくっついた二つの体を抱き上げて、大きい穴に入れて埋めた。
俺は膨らんだ六つの膨らみをぼーっと眺めながら、まだ心に残っている疑問に考えを巡らせた。
昨日のことを覚えていないのでなんとも言えないが、俺の体からは目黒と俺の血の匂いしかしなかった。
阿部ちゃんを殺したつもりはなかった。
それに、最後に会った時から昨日に至るまでずっと、阿部ちゃんが姿を見せなかったことについてもよく分からなかった。
阿部ちゃんの匂い、音、気配さえ、今の俺が敏感に感じられる五感の全てを持ってしても、その痕跡は、いつもどこにも無かったのだ。
それがどうしてか、阿部ちゃんは昨日の晩、突然現れた。
あれはなんだったのだろう。
謎は解けるどころか、更に山積みになるばかりだった。
一筋縄では行きそうに無い問題に一人頭を悩ませていると、佐久間が突然俺の左腕を取った。
「手当て、してあげる」
その声は、全てを諦めたように沈み、静かに震えていた。
悲しんでいるのか、怒っているのか、佐久間の声と表情からはうまく読み取れなかった。
感情を無くしたようなその全てに、心が痛くなった。
そんな佐久間を初めて見た。
でも、佐久間をこんな風にしたのは、俺なんだ。
そう思ったら途端に息が詰まった。
自分の顔が歪んでいくのが分かる。
佐久間はそれを、傷口に水が染みたせいだと思ったらしい。
「ちょっと我慢してて」
と言われて俺は、大人しく「ん」と返事をした。
佐久間と、二人だけ。
こんな時間、初めてじゃないだろうか。
どこかぼーっとした頭でそんなことを考える。
ここに迷い込む前から、今に至るまでずっと、佐久間と二人きりになろうと思ったことがなかった。
近付くほど、俺は俺の気持ちから目を背けられなくなっていきそうだったから。
今のままでいい。
このままでいい。
想ってしまったら、伝えてしまったら、きっと壊れる。
見込みなんて、無いってわかってたから。
毎日、こいつが楽しそうにしててくれさえいれば、それを遠巻きに見て、面白い時は笑わせてもらえていられれば、それで良かったんだ。
いつか無くなると思っていた。
この気持ちが、引き波に攫われたように、すっと跡形も無く綺麗さっぱり消える日が、いつか来ると思っていた。
しかし、そんな矢先にこの世界に迷い込んでしまった俺は、今も目の前のこいつを想ったままで、どうにもすぐには、この気持ちを絶ち切れそうになかった。
大事だけど、いつかは無くなる。
無くなるだろうけど、今は消えない。消せない。
そんな中途半端な状態の今の俺は、まるで人狼そのもののように思えた。
人でもない。
獣でもない。
こんなはっきりしない体じゃ、こんな矛盾と偽りだらけの気持ちじゃ、お前を抱き締めることなんかできやしない。
何も言わず、されるがままに佐久間に左腕を開け渡し、泣き出したくなるような葛藤を抱えていると、佐久間はまた、ぽそっとした声で俺に問い掛けた。
「ねぇ、翔太」
「あ?」
「俺が人狼だって思う?」
「は?」
「殺したいと思うなら、そうして。俺はなにもしないから」
俯いていた俺は、佐久間の声にはっと目を見開いた。
俺が殺さなくても、処刑されるように仕向けたこと、佐久間が疑われても庇わなかったこと、それは自分が殺したことと何も変わらないんだ。
自分にとって都合の良いようにしか考えられなくて、俺はいつの間にか大切なものと大事な奴の心に、傷が付いてしまっていたことに見て見ぬふりをしていたんだと気付かされた。
それに、もうこいつは気付いているはずだ。
人狼が誰なのか。
それなのに、なぜ、自分を犠牲にしようとしているのか。
お人好しにも程がある。
やめろ。そんなこと言わないでくれ…。
今の俺にだって、人狼になった後の俺にだって、できない。
お前は、お前だけは、絶対に殺せない。
だって…。
だって、何よりも、誰よりも、大事な奴だから。
窒息しそうなほどに苦しくなる息をどうにか吸い込んで、俺は喘ぐように小さく佐久間に言葉を返した。
「んなことできるかよ…」
佐久間は「ぇ?」と困惑したような声を漏らした。
俺は振り向きもせず、佐久間の家を出て行った。
外に出ると、昨日とは打って変わって空は晴れ渡っていた。
俺の気持ちと、その天気は全くもって噛み合っていなくて、照り付ける日差しに忌々しさを感じた。
もう、全てどうでも良かった。
日焼けするとか、肌荒れするとか、免疫力が落ちるとか、そんなのなんとでもなれと思った。
どうせ、今日の夜には全てが終わるんだから。
もう繰り返さなくていい。
もう、疲れたんだ。
俺は何も持たずゆっくりと歩き出した。
ふと、全てが始まったあの場所に行ってみようと思った。
湖の淵を辿って、村の対岸沿いで足を止めた。
誰もいない。何もない。
今ここで自分の命を終わらせてもいいかもしれない、そんなことを思って湖を眺めていると、後ろから声が聞こえた。
「許さないよ。最後まで見届けて。せっかく元に戻してあげたんだから」
「んぁ?……は?なんでお前がここにいんだよ」
「その答えは、翔太が俺に辿り着いたら教えてあげる」
「うっざ。何しに来た」
俺に声を掛けたのは阿部ちゃんだった。
今日の朝、確かにこいつを埋めたはずなのに、何故ここにいるのだろうか。
その理由を阿部ちゃんは教えてくれなかったし、何をしに来たのかすら答えてはくれなかった。
「ねぇ、翔太。もう二度と元に戻らないものが、一番大切なものだったって気付いた時、翔太ならどうする?」
阿部ちゃんからの質問に、俺はなんと言うこともできなかった。
うまく考えつかない答えを奥の方まで手を突っ込んで手繰っている間に、阿部ちゃんの姿はどこにも見えなくなっていた。
相変わらず、匂いも音も、気配すら感じなくて、気味が悪かった。
草の上に座っていると、次第に陽は暮れて、また夜がやってきた。
全ての感覚が鋭利になっていく。
傷だらけの手足から、触り心地が良さそうなふさふさの毛が肌を埋め尽くすほどに生え始めていた。
頑張って脱毛してたのにな、なんて、最後の足掻きのように、そんなことをふと思った。
佐久間が巻いてくれた包帯の隙間からも、柔らかい毛が少しずつはみ出してきていた。
頭から耳が、腰のあたりから大きな尻尾が、それぞれにょきっと出てくる感覚がする。
視点が低くなる。
吐く息の音が短く、忙しくなる。
湖を隔てた向こうから、あの匂いがする。
やけに落ち着く、あの秋の匂いが。
俺の体はその香りを鋭い鼻で嗅ぎ取って、瞬時に駆け出した。
森に入り、大きな岩を飛び越えて、体が草木にぶつかるのも厭わずに、ただ前へ前へと突き進んでいった。
いやだ。
行きたくない。
止まれ。
止まれよ。
…っ、止まってくれよ…ッ“!!!!!
どんなに心の中でそう願っても、俺の四つ足は動きをやめなかった。
走り走るうちに、「俺」の視界は暗転していって、眠りについた時のように何も感じ取れなくなった。
どのくらい眠っていただろうか。
すぐ近くで、もう長いこと嗅いでいなかったあの匂いがした。
鉄と、小さいオレンジ色の甘い花が混じったような香りだ。
この匂いを俺は知っている。
忘れたくても忘れられなかった。
自分の感情全てが、沸騰した熱湯のように湧き上がっては、絶対零度まで冷え固まって絶望した夜に嗅いだ、あの匂い。
これは、佐久間の血の匂いだ。
「俺」を覆っているその体の中で目を開けると、俺の下には地面に倒れた佐久間の顔があった。
佐久間は苦しそうに眉を歪めて、俺の喉を抑えていた。
覆い被さった俺の爪が佐久間の肩に食い込んでいた。
ずぷっと肉を突き破っていく感触が、じんわりと腕まで伝わってくる。
頭から喰らおうとしたその牙が、佐久間の頬を掠める。
月夜に赤黒く反射した雫が、つうっと佐久間のこめかみまでをゆっくりとなぞっていった。
その輝きに当てられて、今すぐにでもこいつを喰い尽くしてしまいたいという欲が、体の中で勝手に湧き上がってくる。
なんで毎回、佐久間を殺す時だけは、意識が戻ってきてしまうんだと、俺は姿形の無い何かを恨んだ。
みんなを殺った時みたいに、何も知らなかったままでいさせてくれよ…!!!
そんな都合のいい我儘な要求が心の中を埋め尽くしたが、反面、どこか落ち着いた頭の中で、それとは異なる考え事も浮かんでいた。
きっと、この世界に神様のようなものがいるんだとしたら、そいつは今俺に言っているんだ。
自分にとって一番大切なものを壊す瞬間を、そこでちゃんと見ていろ、と。
これまで俺がしてきたことを、ちゃんとその目で認識しろ、と言っているんだろう。
だとしても、これだけじゃとても償いきれそうになかった。
次第に佐久間の力が弱くなっていく。
きっと、あと少しでこの夜は終わってしまう。
ごめんな、痛いよな。
辛いよな、怖いよな。苦しいよな。
ごめんな…、っごめんな………っ…。
でも、朝が来るまで、俺は俺を止められない。
お前を貪りきって満足するまで、こいつはやめてくれない。
何度謝ったって足りない。
俺の目の前で少しずつ壊れていくお前を、ここからただ黙って見ていることしかできないんだ。
あぁ、俺はまたこうやって、見て見ぬふりしかできないんだな。
もう戻れない。
今から俺が、俺自身が、この手で全てを過去にする。
だから、せめて、最後に。
これだけは言わせて。
ずっと言えなかった。いや、知らないふりをしていた。
怖かったから。
ずっと心の中にあった気持ちに蓋をして、何事もなかったように俺自身に見せていた。
何かが崩れるような、そんな気がしていたんだ。
認めてしまったら、もう後戻りできないような気がしていたんだ。
でも、結局、今から自分が全て壊してしまうのなら。
どうせ、元には戻らないのなら。
阿部ちゃんの質問に、今なら答えられそうな気がした。
安心しろ。
お前の時間が止まったら、俺も逝くから。
きっとみんなも、どっか同じ場所で固まって待ってんじゃねぇかな。
ほんとは寂しがり屋なお前が、心細い思いなんてしなくて良いように。
後から追いついたら、俺がお前をみんなのとこに連れてってやるよ。
それまでは、少しのお別れだ。
こんなイカれた世界で、お前と死ぬのも悪くないかもしれねぇな。
でも、最期に。
一つだけ、これだけ想うことくらいは、赦してくれる?
いつだってケロッとした顔で明るく振る舞ってるくせに、ほんとは誰よりも繊細で傷付きやすいとこも
うるさくて、すばしっこくて、鬱陶しくて、いつも振り回してくるとこも
芯があるのに空高くまで響く綺麗な声も
お人好しなくらい優しいとこも
傷んでるのに輝いてる透けた髪も
ふわっと香る、あの秋みたいな、落ち着く金木犀の匂いも
笑った顔も
何もかも全部
全部
…全部、っ…
好きだったよ……っ、
何もかもが壊れた。
俺の下で静かに目を閉じた佐久間を見た瞬間、俺の目を伝って、そいつが握りしめていた硝子の小瓶の上に、一粒の雫が零れ落ちた。
「やっと、満ちた。」
「この瞬間を………ずっと待ってた」
コメント
2件
あべちゃんは一体何者なんだろう…
しょっぴー視点!!続きが気になる🥹✨💙