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#シリアス
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あのコロッケの日を境に
ひまりの顔からは「怯え」という色の霧が少しずつ晴れ、年相応の明るさが戻りつつあった。
組の荒くれ者たちも、今や彼女を「守るべき対象」として完全に認識している。
ひまりが廊下を通るたびに、「お嬢、お帰りなさいッ!」「お嬢、お怪我はございませんかッ!」
と、さながら極小の組長を迎えるような怒号に近い挨拶が飛び交うのが日常になっていた。
だが、そんな日だまりのような穏やかな時間は、裏社会の住人にとっては何よりも脆く、長くは続かない。
その日の深夜、俺は肩を貸した和幸と共に、湿った血の匂いを全身から漂わせながら事務所へ帰還した。
敵対組織との小競り合い――いや、一方的な掃討だ。
人数差はあったが、力でねじ伏せてきた。
だが、代償は小さくない。俺の頬には深く鋭い切り傷が走り、白いシャツの袖は返り血で赤黒く重く染まっていた。
「……チッ、和幸。さっさと奥へ行け。ひまりに見られたら面倒なことになる」
「すみません、兄貴……俺が、俺がもっと上手く立ち回っていれば……」
苦悶に満ちた低い声で指示を出す。
だが、その言葉が終わる前に、廊下の奥からパタパタという軽い足音が響いてきた。
「おかえりなさ……っ、お、おじさん!?」
玄関で立ち止まったひまりは、大きく息を呑んだ。
殺気を帯びたままの鋭い眼光、服にべったりと付着した赤黒いシミ。
自分を助けてくれた時の「優しいおじさん」ではない
暴力の世界で生きる本物の極道の姿が、そこには剥き出しになっていた。
俺は反射的に、血に汚れた腕を背後に隠そうとする。
「……ひまりか。なんや、まだ起きとったんか。…これは、その、ただの赤いペンキや!心配すな、あっち行っとけ」
いつになく冷たく、突き放すような声を出す。
これ以上、汚れた世界を見せたくなかった。
遠ざけたい一心だったが、ひまりは動かなかった。
それどころか、今にも涙が零れそうな瞳で俺を真っ直ぐに見つめると、くるりと背を向けて自分の部屋へ全力で走っていった。
(……やっぱ、怖がらせたか。こんな姿じゃ、しゃあないわな…)
暗い自嘲と共に重い息を吐き、俺はソファに深く腰掛けた。
ドクドクと脈打つ頬の傷が、今更になって熱く疼き出す。
その時だった。
再び廊下を駆ける音が聞こえ、ひまりが息を切らせて戻ってきた。
その小さな両手には、和幸が「念のために」と買い揃えていた、安っぽいクマのシールが貼られた救急箱がしっかりと握られていた。
「おじさん、ちゃんと手当しないと、だめだよ…っ」
ひまりは震える手で救急箱を開け、中からキャラクターものの絆創膏を取り出した。
「あっち行っとけ」という俺の拒絶を、彼女はその小さな体で真っ向から跳ね返してきた。
「……汚れるぞ。そんな白い服で近づいたら、お前の手まで真っ赤になるわ。いいから、和幸にやらせる」
「いいの……!おじさん、痛いの我慢してるでしょ。いつも助けてくれるのに、私、何もできないの嫌だもん……っ」
必死に涙を堪えながら、絆創膏を準備する懸命な瞳。
その純粋すぎる熱に、俺の中に残っていた戦いの高揚も
頑固な拒絶心も、すべて毒気を抜かれたように消えていった。
俺は大きく一つ息を吐き、鎧のように固めていた肩の力を抜いた。
「……ほな。…せっかくや、貼ってくれるか?」
「うん……!」
ひまりは慎重に、まるで壊れやすい宝物に触れるような手つきで、俺の頬の傷へと指を伸ばした。
アルコールの冷たさと、彼女の小さな指先の温もり。
それが交互に触れるたび
数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた俺の心が、不思議なほど凪いでいくのを感じた。
「……できた。おじさん、痛いの痛いの、飛んでいけ、だよ」
ひまりが「えっへん」と、少しだけ誇らしげに胸を張る。
鏡を見なくてもわかる。
絆創膏は素人目にも不格好に斜めにズレているだろう。
だが、俺にとっては、闇医者のどんな高度な縫合よりも、組織のどんな権威よりも、深い効き目があった。
「……不思議なもんやなぁ、もうちっとも痛うないわ。おおきにな、ひまり」
俺は血の汚れを拭った掌を、彼女の柔らかな頭の上にそっと乗せた。
汚れを知らない無垢な小さな手と、多くの命を脅かしてきた血塗られた大きな手。
傷だらけの「日常」という名の戦場の中に
本当の家族のような、温かくて揺るぎない絆が、静かに、だが確実に根を張り始めていた。