ライエル用の宿直室には
朝の静けさが漂っていた。
ステンドグラス越しの淡い光が
木目の床に優しく落ちる。
外ではまだ鳥の声も疎らで
街はようやく目覚めかけていた。
ライエルは、静かに目を覚ます。
普段なら七時の起床が
定められた自分のルーティンだが──
今日は、少しだけ早い。
アラインに申し訳ない気持ちはあった。
だがどうしても
仕上げたいものがあった。
ベッドを抜け出し、洗面を終え
イーゼルの前に立つ。
「⋯⋯もう一度、確認を」
描かれたのは
少女のような微笑を浮かべたアリア。
その笑顔は、魔女狩りよりも遥か前──
まだ誰にも汚されていなかった頃の
記憶の中の〝彼女〟
ライエルは、既に絵の形を整えていた。
だが、今日が最終日だ。
絵の表面を指でそっとなぞると
パステルと油絵の中間のような質感が
指に微かに残る。
水分の定着は前夜のうちに済ませてある。
その上から、今日の朝は保存加工を施す。
まずは
表面を埃が立たぬようブロワーで清め
天然樹脂と人工樹脂を
独自配合した保護ニスを霧状に
細かく吹きかけていく。
「⋯⋯厚くも、薄くもなく。
表面を滑らせるように」
絵筆とは別の
特注の広がりを持った平筆で
まんべんなく塗布していく。
完全に乾燥させるには
湿度と気温を計算に入れなければならない。
ライエルは事前に部屋の空調を調整していた。
彼は時計を見やり
口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「⋯⋯打ち合わせが終わる頃には
完全に仕上がるでしょう。
午後からは、また炊き出しですね」
そして、打ち合わせ終了後。
絵を専用の輸送ケースにそっと収め
布で丁寧に包む。
それを手に、正午きっかり──
彼は用意してもらった車に乗り込んだ。
⸻
走り出して間もなく
ライエルは何かの気配に気付いた。
窓の外に、ちらつく黒い影。
「⋯⋯え?」
ふと振り向くと
空には黒い点がいくつも浮かんでいた。
そして──
「⋯⋯す、すごい量の烏が、車を⋯⋯
追って⋯⋯?」
彼の目には
まるでパレードの先導のよう
空を舞う大量の烏が見えていた。
⸻
その頃、喫茶桜の厨房では──
──ガタン!
珍しく時也がポットを勢いよく置いた。
張り詰めた空気に
店内の空気がピンと震える。
「青龍!」
「⋯⋯かしこまりました」
青龍は無言で
背丈ほどある風呂敷を持ってくる。
それを器用に広げると
冷蔵庫の前へと踏み台を運び
上段から手当たり次第に食材を詰めていく。
「ちょっと!?なになに!?なにごと!?
今日、棚卸しの予定じゃないよね!?
それ、今日のお肉だよ!?
今日のビーフシチュー用!!」
レイチェルが慌てて口を挟むが
青龍は返答もしない。
ただ、しっかりと
〝やれやれ〟という顔をしながら
溜息をつくような目線を投げただけだった。
それから間もなく
喫茶桜の前に一台の車が止まった。
扉が開いた瞬間──
「お待ちしておりました、ライエルさん!」
開口一番、時也が店から飛び出してきた。
思わず驚いたライエルは
輸送ケースを大事に抱えたまま目を丸くする
「わ⋯⋯おはようございます、時也様。
え、えぇと……例の絵
完成いたしましたので、持参いたしました」
「ありがとうございます!
あぁ⋯⋯本当に⋯⋯
毎日心待ちにしておりました!」
その様子は、どこか
〝初恋の手紙を受け取る少年〟
のようですらあった。
その後ろから
青龍がパンパンに膨れた風呂敷を
二つも両腕に下げてやってくる。
そのまま地面にそっと置かれるそれは
今にも爆発しそうなほどの食材で
膨れ上がっていた。
「本日、炊き出しの日でしたよね?
実はですね⋯⋯誤発注してしまいまして。
もしよければ、ぜひお役立て頂ければと!」
「え⋯⋯?誤発注なんて何も──むぐっ!」
思わず口を開いたレイチェルの口を
ソーレンがすかさず塞ぐ。
無言で、しかし
〝余計なこと言うな〟という
鋭い視線を飛ばしていた。
ライエルは、そんな様子を見ながらも
丁寧に微笑みを浮かべて一礼した。
「よろしいのですか?
いつもご厚意に甘えてしまってばかりで⋯⋯
ありがとうございます、時也様。
これで、さらに多くの方に
温かな食事を届けることができます」
「いえいえ!
余らせてしまう方が、勿体ないですから。
助かりました」
それは、どちらも〝誠意〟だった。
だが
一方は〝純粋な善意〟であり
もう一方は〝信仰と執着〟による
必然でもある。
それでも──
今日もまた、命を支える何かが
確かに動いていた。
⸻
喫茶桜の一角、配膳台の上には
丁寧に包まれた
黒の輸送ケースが置かれていた。
ライエルが去って数分──
店内には、湯気を立てる紅茶の香りと
心なしか浮ついた気配が漂っていた。
「⋯⋯ふふふ」
誰のものともつかぬ
妙に軽やかな笑い声が漏れたのは
厨房から戻ってきた時也だった。
絵の入ったケースを
まるで壊れ物のように大事そうに抱え
包みの端をそっと捲っていく。
「⋯⋯丁寧すぎるほどの加工⋯⋯
さすが、ライエルさん」
指先で表面をなぞると
薄く吹きつけられた透明の保護膜が
さらりと滑った。
光の加減でわずかに艶を返すその絵には
まるで時間ごと封じ込めたような
温もりがあった。
描かれていたのは
まだ何も背負っていなかった頃のアリア。
無垢で、柔らかく、そして何より──
笑っていた。
「はぁぁ⋯⋯こんなアリアさん⋯⋯
アリアさんですら
もう忘れてしまったかもしれない⋯⋯
けど、僕は⋯⋯僕は⋯⋯!」
もはや陶酔の域に達していた時也は
絵を額縁に納めると
満足そうに店内を見渡した。
「⋯⋯さて、この美しい一枚を
どこに飾りましょうか──
やはり、特設席ですかね?」
その瞬間──
店内の一角、特設席のガラス越し。
淡い光の中で静かに佇むアリアが
ぴくりとも動かず
しかし明確な威圧を放っていた。
無言。
だが、伝わる。
圧が──すごい。
「⋯⋯え?
店内は、駄目ですか⋯⋯?」
顔色一つ変えず
時也は瞬時に方向転換した。
「⋯⋯では、リビングに⋯⋯
も、駄目ですか。
はい⋯⋯はい、寝室にします」
言葉ではない。
声なき〝心の声〟が
明確に否を突き付けてきた。
冷静を装いつつも
彼はしっかりと背筋を伸ばして
小さく頭を下げると
絵を再び胸に抱え
居住スペースへと向かっていった。
木製の階段を踏みしめながら
時也の胸は高鳴っていた。
(⋯⋯〝本物の私が居るだろう〟
だなんて⋯⋯!
愛しすぎます、アリアさん⋯⋯っ!)
誰にも届かない、誰にも聞こえない
彼だけが知るアリアの心の声。
それを独占できる幸福に
頬が緩んで仕方がなかった。
2階の寝室。
窓際には陽が差し込み
白いカーテンが揺れている。
時也はその窓辺に
そっと額装された絵を立てかけた。
アリアが眠るこの空間に
〝もうひとりのアリア〟が微笑んでいる──
それだけで、彼の胸は満ち足りていた。
誰にも邪魔されず、誰にも見せず
ただ、彼だけが〝それ〟と向き合う場所。
それから一日、時也は終始上機嫌だった。
掃除も皿洗いも、指先まで完璧な所作。
カウンターでの接客では
意味もなく褒め言葉を多用し
厨房ではレイチェルに
「このまま時也さんが
壊れるんじゃないかって心配だわ」
と囁かれるほど。
だが、そんなことはどうでもよかった。
──アリアの笑顔が、彼のそばにある。
それだけで、世界は美しいのだから。
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