正午を少し過ぎた頃。
車の窓を叩く陽はやや強くなってきていたが
車内には穏やかな空気が満ちていた。
ライエルは後部座席に身を沈めながら
後ろに積まれた
大きな風呂敷に視線を向ける。
二つ。
どちらもずっしりと膨らみ
丁寧に結ばれた風呂敷の布地の隙間からは
ぴしっと張りのある新鮮な葉野菜の緑
適度に脂の乗った肉の包装
保存に適した乾物や果物の姿が
ちらちらと覗いていた。
それらは、どう見ても──
〝誤発注〟の品ではなかった。
品質は高く、用途も配慮されている。
まるで最初から〝炊き出し〟を想定して
揃えられたような完璧さすらある。
ライエルは、ふっと微笑を浮かべた。
(⋯⋯優しい嘘ですね)
誰にも責めることのできない、柔らかな嘘。
誰かの心を傷つけないために
ただ静かに差し出された
〝気持ち〟の塊だった。
「中身を確認したら
追加で作れそうなものの
ピックアップをお願いしますね」
助手席の女性スタッフへ声をかけると
彼女は振り返って微笑み、頷いた。
「かしこまりました。
本日はスープとパンの予定でしたが
パンをサンドイッチに変更できそうですね。
それから
保存食を仕込んで配布するのも
悪くありません。
⋯⋯それにしても
スポンサー様である時也様⋯⋯
本当に奥様を大切にされているのですね」
ライエルはその言葉に一瞬黙し
車窓越しの空を見上げた。
白い雲が、春の陽に透けていた。
「えぇ⋯⋯
アリア様は、お顔に出されることは
決してございませんが⋯⋯
それでも、時也様のおかげで
お心の傷が癒えているのだと。
私も心から安心しております」
言葉は静かだったが
そこには確かな感情が滲んでいた。
そして、それだけではない。
ライエルが微笑む理由は、他にもあった。
今こうして
楽しげに語っている女性スタッフ。
穏やかにハンドルを握っている男性スタッフ。
かつて彼らは
アリアの〝血〟を狙っていた
フリューゲルスナイダーの
ハンターたちだった。
今は
アラインによって記憶を書き換えられ
〝最初から
ノーブル・ウィルの善意ある職員〟として
この活動に従事している。
──だが、その言葉に嘘はない。
彼らが記憶の奥底に持っていたはずの
憎しみや貪欲は
もうそこにはなかった。
今、彼らはアリアを思い
時也の気持ちを尊び
心から〝支えたい〟と思っている。
その事実が
ライエルには何よりも嬉しかった。
「⋯⋯ふふ。
また、時也様へのお礼に
絵を描くのも悪くないかもしれません」
その呟きに
ハンドルを握る運転手がふっと笑った。
「また⋯⋯小切手を渡されるのでは?」
「それが⋯⋯本当に、怖いのです⋯⋯」
助手席の女性も思わず吹き出す。
「〝金額を記入してください〟と
差し出された時の笑顔⋯⋯
未だに夢に出てくるんですよ
本当に⋯⋯あの時也様の
純度百パーセントの信仰顔⋯⋯!」
「お布施って
ああいうことを言うんですね⋯⋯」
三人の笑いが
車内に柔らかく広がっていく。
昼下がりの光の中
孤児院へ向かうその道の上には
確かに〝家族〟のような温もりがあった。
⸻
昼下がり。
春の風が緩やかに吹き抜ける
寂れた骨董市場跡の広場。
かつて賑わいを見せた石畳は
今ではひび割れと雑草に覆われていたが──
その場所は今日も
あの温かさに包まれていた。
炊き出しの準備が整い
幾つかのテーブルが整然と並べられている。
紙皿に重ねられたサンドイッチ
具だくさんのスープ、色鮮やかな果物。
今日の食材は前回よりも質が良く
量も多かった。
色とりどりのサンドイッチには
しゃきっとしたレタスや艶やかなハム
ふっくらと焼かれた卵が覗いている。
子供たちが
スタッフの見守る中でパンに具材を挟み
袋詰めをしながら嬉しそうに顔を見合わせる
「こっちにも、たまご、お願いね!」
「わかったー!」
並ぶ人々の中には
前回の配布会で出会った顔もいれば
今回初めて来た者もいた。
やせ細った手足、ぎこちない笑顔。
ほんの数分前まで
路地裏に潜んでいた彼らが
今は温かなサンドイッチを手にしている。
そして、広場の端には
即席の〝受付〟が設けられていた。
そこでは
衣服の下から見える痣や
骨の浮き出た手足を確認しながら
新たな保護対象と見なされた子供たちが
名前も年齢もあやふやなまま
スタッフに迎えられていく。
それは静かで
しかし確かな〝救出作業〟だった。
──だが。
その光景を、石垣の上から見下ろす
暗い視線があった。
ひとりの男。
革のジャケットの袖を雑に捲り上げ
煙草を咥えながら
その男は
じっと広場の喧騒を睨みつけていた。
(⋯⋯またかよ。
ほんと、調子に乗りやがって)
ギャング。
人身、臓器、売春──
都市の地下に根を張る〝裏〟の供給者。
この広場で配られる
一つ一つのサンドイッチが
自分たちの〝仕入れ〟を潰している
という認識。
ーおとなしく見ていられるのも
ここまでだー
苛立ちが喉の奥で泡立つように沸き
彼はゆっくりと石垣を降りる。
広場に歩を踏み入れたその瞬間
周囲の空気がぴんと張り詰めた。
手を止める子供たち。
顔を上げるスタッフたち。
その中心にいたのは
黒衣の神父──ライエルだった。
彼は足音に気付き、すぐに周囲を見渡した。
「子供たちを、囲ってください」
静かに、だが明確な指示がスタッフに飛ぶ。
即座に二人のスタッフが子供たちを背に庇い
配膳テーブルを横に寄せる。
幼い子供たちは
何が起きたか理解できぬまま
怯えたようにスタッフの服の裾を掴んだ。
ライエルは一歩、前に出る。
その動きはまるで
子供たちを囲いから隔てる盾のようだった。
「ご用件は⋯⋯?」
「用件だぁ?」
男は鼻を鳴らし
煙草をアスファルトに捨てると
靴で乱暴に踏み潰した。
荒れた手つきで上着の襟を引き
露出した刺青が首筋をのぞかせる。
「〝商品〟に
勝手に手ぇ出してんじゃねぇよ
神父サマよぉ?」
言葉が、刃物のように切りつけてくる。
それでも、ライエルの表情は崩れなかった。
「⋯⋯彼らは、命です。
〝商品〟ではありません」
「うっせぇんだよっ!」
怒声とともに、男の手が伸び──
ライエルの前襟をがしっと掴み上げた。
その手には無骨な力がこもり
神父服の布地がぐしゃりと歪む。
ライエルの身体が、わずかに浮いた。
男の額に、青筋が浮かぶ。
「どいつもこいつも⋯⋯
気取ってんじゃねぇっ!」
広場が静まり返る。
空気が凍りついた。
その中で、電柱の上──
一羽の烏が、瞬き一つせず
男を見下ろしていた。
風が一度だけ羽を揺らし
彼の瞳に、わずかな光が反射する。
ただ、じっと──
あらゆる瞬間を、記録するかのように。
そして
誰よりも早く〝次〟を察知していた。
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