日和美の寝室で背表紙が一際濃いピンク色の本を何気なく手に取って読んだら、部分的に記憶が戻ってきた不破だ。
その本だけ何だか他と背の色が違って……たまたま目を引かれたから手にしてみただけ。
それだけに過ぎなかったのだけれど、一応どんな本かな?と思って背表紙に書かれたタイトルを見たら『犬だと思ったら姫でした!?~俺の愛犬が最高にイケイケで可愛すぎる件について~』という何とも長ったらしいもので面食らってしまった。
(凄いタイトルだな……。まるであらすじだ)
それが、この本を見た時に不破が抱いた率直な第一印象だったのだけれど。
パラパラとページをめくって何の気なしにルクレッツィーという犬のヒロインが出てくるところを拾い読みしていたら、不意に飼っていたゴールデンレトリバーの女の子、ルティシアのことを思い出した。
日和美が教えてくれて、ずっと心の中に引っ掛かっていた「ルティ」と言うのは、自分にとって掛け替えのない愛犬の愛称だったのだとストンと心の中に落ちてきて。
それと同時。そのルティがつい先日老衰で旅立ってしまったことも思い出してしまった不破だ。
ペット葬祭へ連れて行って荼毘に付して。
遺骨を抱えてマンションに戻った記憶も蘇ってきた。
真っ暗闇の中、何もする気になれなくてルティの遺骨を抱きしめて眠って。
それから――。
その頃にはもう本の文字はちっとも頭に入って来ていなくて。
ルティシアのことを思い出して切ない気持ちが溢れんばかりにこみ上げて、気が付いたらポロポロと泣いてしまっていた。
自分が何も持たずにふらふらと町を彷徨っていたのと、ルティシアの死には何か関連があったのだろうか。
そこを思い出そうとしても頭に靄が掛かったようでちっとも思い出せない。
そればかりか、頭が割れるような頭痛までし始めて、その場にうずくまる羽目になってしまった。
畳に手をついて四つん這い。しばらく痛みに耐えながら、見るとはなしに目の前の棚に視線を向けた不破だったけれど。
どうも日和美は先に不破が読んだ一冊目、『犬だと思ったら~云々かんぬん』の作者〝萌風もふ〟とやらのファンらしい。
その作者の本を中心にズラリと本が並んでいて。
さすがにここまで「好き!」を感じさせられたら気になってしまうではないか。
痛む頭を押さえながら何冊か手に取って表紙を見て。
中世ヨーロッパの王侯貴族が身にまとっているような煌びやかなドレスを着たヒロインや、いかにも王子さまでございと言った男たちが描かれた表紙に軽い嫌悪感を覚えてしまう。
(何でだろう。……僕はどうやらファンタジーものに拒絶反応があるみたいだ)
表紙絵はそこまでファンタジーしていないものもあるにはあったけれど、タイトルを見るとどう考えてもそれっぽいのばかりだったから、結局犬の本みたいにページをめくる事もなく棚に戻したのだけれど――。
何故か頭の中に、こういうジャンルの本はティーンズラブって言うんだっけ、と言う知識がふわりと舞い降りてきて、不破は「おや?」と思わされる。
(僕は……何故そんなことを知ってるんだ?)
ルティのことを思い出させてくれたことと言い、ファンタジーものに対する不可解な拒絶反応と言い、何故知っているのか分からないような妙な知識が突如降って来たことと言い……。
(この手のジャンルの本に触れたら何か思い出せるかも?)
不破がそう思ってしまったのも無理はないだろう。
(日和美さん、ごめんなさい……)
不破が昼食を食べるために、と日和美が置いて出てくれた千円札を握りしめると、不破は日和美の勤め先とは違う本屋に足を向けたのだった。
そして出向いたその先で、不破はある人物と出会うこととなる――。
***
「あの……今、その本は不破さんの私物だって聞こえた気がしたんですけど……」
――何かの間違いですよね?
そう続けようと戸惑いに揺れる瞳で不破を見詰めたら、「はい、確かにそう言いました」と信じられない言葉が返ってきて。
日和美は思わず「嘘……」とつぶやいていた。
「男がこういう本を好きだと気持ち悪いですか?」
途端悲しそうに眉根を寄せられて、今の「嘘」は決してそんな偏見から出た言葉ではないのだと、日和美は思いっきり首を横に振る。
「ちっ、違うんですっ。あ、あのっ。わ、私もっ……実はそういう本が大好きで……。でも大抵誰に話しても『ああ、エッチなやつね』って軽くあしらわれちゃってたから……。その、ひ、人に言うのはダメだと思い込んでて……それで……」
最近は同性の友達にだってこういうTLが好きだとは言えなくなっていた日和美だ。
ましてや王子様のようにキラキラした異性の不破にそれがバレるのはご法度だと思っていた。
なのに。
「不破さんこそ……こういうのを読む女の子は……え、エッチで嫌だって思ったりしないですか?」
恐る恐る問い掛けたら、何故かクスッと笑われてしまう。
「どうして? 僕も日和美さんもいい大人です。エッチなものが好きだっていいじゃないですか」
言って、日和美の頬にそっと触れてきた不破の手が何だか色めいて感じられてドキッとした。
でも、気のせいだろうか。
一日離れて戻ってきたら、不破の雰囲気がどこか変わってしまったような違和感を覚えた日和美だ。
別に口調だって穏やかなまま。
表情だって日和美のよく知る王子そのものなのに。
だけど……何かが決定的に〝違う〟と、日和美のなかの本能的な部分が訴えている。
「あの……不破さん……。それが私物ってことは……もしかして記憶が戻られた……?」
ここへ来た時、不破は着の身着のまま。服と靴以外は何も持っていなかったはずだ。
それなのにいきなりオフィスラブもののTL本が自分の私物だと言うのは、絶対におかしいではないか。
「記憶? さて……どうでしょうね?」
日和美が恐る恐る問い掛けた途端、不破がクスクス笑って。
その様が、やっぱり自分の知っている不破とは違う気がして日和美はますます落ち着かない。
それで半ば無意識。
思わず後ずさろうとした日和美だったのだけれど、いきなり伸びてきた不破の手に腰をガッチリ掴まれて、逆に彼の方へ引き寄せられてしまう。
「あ、あのっ……不破さんっ?」
現状が理解出来なくてオロオロと真正面から自分を見下ろしてくる不破を見上げたら、
「不破じゃない。立神信武、ね?」
その体勢のまま、不意にそんなことを言われてますます困惑して。
「あ、っと、それ……は……」
「ピンとこない? 俺の本当の名前だよ、日和美」
ニヤリと〝雄〟の顔をして笑った不破――もとい立神は、もはや日和美の知るふわふわ王子ではなかった。
草食系ゆるふわ王子だった不破譜和さんが、いきなり肉食系ワイルド王子になりました――っ!?
神様、これは夢ですか!?
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