テラーノベル
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一、 業火の逃走と異界の生還
灼熱の炎が天を焦がす中、彼は敗残兵を率いて必死の逃走を続けていた。
数十万の大軍は火攻めによって壊滅し、今や残されたのは焦土と散り散りになった兵たちだけだった。
「撤退せよ! 生きて帰るのだ!」
彼の声が轟く中、燃え盛る船上では家臣たちが懸命に活路を見出そうとしていた。
彼は決して諦めなかった。 己の野望を、この炎の中で終わらせるわけにはいかない。
船体が大きく傾き、甲板から投げ出される者もいる。
彼は重い甲冑に身を包んだまま、燃え盛る船から川へと身を投じた。
水面に叩きつけられる衝撃と共に、意識が遠のいていく。
二、 日本橋の異邦人
男が彼を見つけたのは、日本橋の上から月を眺めている時だった。夜風に揺らめく川面を、何かが流れてくる。
「やいやい、嫌なものを見ちまった」
男はそう毒づきながらも川辺に降り立った。
泥と水にまみれた彼の装束を掴むと、自分も体勢を崩して溺れそうになりながら、まだ息がある異邦人をなんとか川から引き上げた。
「こいつぁ……こりゃまた、とんでもねぇ獲物だ」
男は、異邦人が身につけていた見慣れぬ甲冑や、水に濡れてもなお威厳を放つ顔立ちに目を見張った。
顎に手を当て少し考えると、男は、自分より遥かに大柄な異邦人を背負い、よたよたと危ない足取りで、自宅である粗末な小屋まで運んだ。
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翌日、彼は障子越しの優しい朝日を浴び、ゆっくりと目を開いた。
身長に対して丈も幅も足りない布団から身を起こすと、見慣れない室内をぐるりと見渡す。
小屋のように狭い部屋には、無数の水墨画や書き損じが、まるでゴミのように放置されていた。
だが、その一枚一枚は、今にも鳥が羽ばたき、滝から水しぶきが飛び、花の香りが漂いそうなほど繊細で躍動感にあふれている。
彼は、近くにあった丸まった紙の皺を手のひらで伸ばしながらつぶやいた。
「これほどの絵を描く者は、一体何者か……」
彼は答えを求め、部屋から一歩踏み出した。
その男は、隣の部屋で彼の身につけていた甲冑や兜の断片を一心不乱に模写していた。
「おう、起きたか。借りてるぜ」
男は顔も上げずに言った。彼はその言葉に眉をひそめた。
言葉が全くわからないのだ。
しかし、相手は彼の様子など気に留めることもなく、ただ筆を動かすことに没頭している。
その姿は、一切の邪魔を禁じ、礼や挨拶など最低限の声かけすらも許さない、孤高の「表現者」の空気を漂わせていた。
三、 覇者の内政
男の生活は、飯を食うのも忘れるほどで、部屋はゴミの山と化していた。時々弟子らしき者が訪ねてきては片付けをしているようだが、当の本人はそれすらも気づいていない様子だ。
かつて数十万の軍勢を指先一つで動かし、広大な大陸に厳格な法を敷いた男にとって、この混沌は耐え難い惨状だった。
男は、腐った握り飯と描き損じの画仙紙が地層を成している床を見て、深いため息をついた。
言葉は通じずとも、男の「統治本能」が黙っていなかった。
「……やるか」
彼は即座に行動を開始した。
まず着手したのは、「画材の兵站管理」である。
散乱する筆を一箇所に集め、毛先が死んでいるものは容赦なく破棄し、生き残った筆を毛質ごとに整列させた。固まった墨汁は敵軍の残党のごとく削り取り、硯を鏡のように磨き上げる。
次に着手したのは、「環境衛生の徹底」だ。
男は絵師の汚れた衣類をまとめて掴むと、井戸端へと向かった。「どけ、そこは私の戦場だ」と言わんばかりの威圧感で洗濯板を操る姿は、近所の女たちを震え上がらせた。
彼が手際よく干した洗濯物は、軍旗のように一寸の乱れもなく整列し、風にたなびいている。
さらに、時折やってくる弟子たちに対しても、その指揮能力は遺憾なく発揮された。
「貴公はそこの塵を掃け。お主は版元へ行って未払いの原稿料を徴収してこい」
言葉は通じない。
だが、彼の仕草と表情からその意図は明確に伝わり、弟子たちはこの異邦人の指示に従って動き始めた。
最後は、男の「財政再建」だ。
男は部屋の隅に転がっていた算盤を手に取ると、凄まじい速度で弾き始めた。
家賃の滞納や画材のツケを把握し、未払いの原稿料を受け取り、収支を正確に帳簿に記入していく。
数日もすると、この長屋の生活環境は完全に統制された状態へと変貌を遂げた。
男は彼の好きなようにさせ、することに黙って見ていた。
彼もまた弟子には指示を飛ばすが、男に対しては何も言わず、好きなように絵をかかせた。
彼は、この小さな世界での秩序の回復に、束の間の充実感を覚えていた。それは、かつての敗北の痛みを少しずつ癒やしていくようでもあった。
四、 記憶
しばらく経ったある日、その絵は彼に見せつけるように床の間に飾られていた。
言葉も通じぬ相手であったが、この男は自分の正体を知っていたのか。
その絵には、これから起こる大きな戦で勝利を確信する、優雅で堂々と自信に満ちた武将の姿が描かれていた。
そして彼方、空を飛ぶ烏鵲(うじゃく)は、この戦で彼に起こる不運を暗示していた。
「月明星稀、烏鵲南飛……」
あの夜、酔った勢いで詠んだ詩を「不吉だ」と諫めた家臣を、怒りのままに斬り殺してしまった。
もし、己の傲慢さを改めて謙虚になっていたら、この戦の結果は違っていただろうか。もう少し家臣の忠言を聞き入れていたら……。
彼はぐっと拳を握り、敗北の悔しさに体が震えた。
「おいおい、そんな顔すんのはここだけにしとけよ。てめぇはいつだって強くなきゃいけねぇ」
男は彼の横に座り込み、煙管を叩いた。
「私は、戻らねばならぬ」
彼は絞り出すように言った。言葉は通じなくても、男は理解した。
「だろうよ。ここじゃ天下は獲れねぇ」
男は笑った。
「一度負けたくらいで終わるような野望じゃねぇだろうよ。みんな、傲慢で自信家なてめぇに憧れてんだ。この絵みたいに堂々としてりゃいいんだよ。別に変わる必要なんざねぇさ」
男は立ち上がり、完成した絵の前に立った。
「てめぇは、まだ帰って、やらなきゃならねぇこと残ってんだろ」
男は静かに言い、絵に向かって彼の背中を押した。
瞬間、絵から猛烈な熱気が吹き荒れた。
水と炎の匂い。遠くで鬨(とき)の声が聞こえる。彼の体は光に包まれ、絵の中へ吸い込まれていった。
五、 帰還
遠くで自分を呼ぶ声がする。家臣が、目を覚まさない彼を心配し、幼子のように泣きじゃくっている。
「すまん、心配をかけたな」
目を覚ました彼は、赤壁からの退却路の途中、森の中で倒れていた。
体は泥まみれだが、心の中は清々しい。
異世界での男の言葉が深く刻まれていた。
自分には、まだやることがある。
改めて決意する。
この乱れた国を統一するのだと。
「さぁ、泣いている場合ではない。行くぞ!」
落ち込む家臣を奮い立たせ、彼は再び前を向いて歩き出した。
エピローグ
「やぁ! いるかい?」
男のところに、馴染みの本屋が饅頭を持ってやってきた。きれいに整えられていた家は、たった三日と持たず、元のゴミ屋敷に戻っている。
「おぉ、こりゃまたいい絵だねぇ」
馴染みの本屋は、床の間に飾られた絵を見て感嘆の声を漏らした。
鎧は細部まで描き込まれ、自信に満ちた表情と今にも動き出しそうな躍動感は、彼の作品の中でも格別だ。
「まるで、実際に本人に会って描いたようじゃないか!」
本屋が言うと、男はへへへと笑った。
「おうよ。そいつぁ一昨日までここにいたからよぉ」
男の言葉に、本屋は「これぞ狂人の境地か」とニヤリと笑った。