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季節はもう五月の初旬、初夏に入っていた。イラクとイランの国境で、イラン革命防衛隊に護衛を引き継がれた、エルゼとラーニアを護送する車両コンボイは、緑豊かなイラン中部を抜け、アフガニスタンとの国境地帯にたどり着いた。
ここでアフガニスタン軍の護衛部隊と合流する手筈になっていたが、予定時刻を過ぎても引き継ぎの部隊が現れない。ミューラー中佐と美奈はもちろん、イラン革命防衛隊の護衛兵士たちも苛立ちをつのらせていると、二時間ほど後一台のジープ、それも動くこと自体が不思議に思えるほど古ぼけた車が、馬に乗ってライフルを背に担いだ五人の髭面の男たちとともに近づいて来た。
コンボイの先頭のハマーというアメリカ製軍用車両の運転席には数日前に交代したばかりのパキスタン人の運転手が座っていた。彼はハッと息を呑んでハマーの助手席のミューラー中佐にささやいた。
「アメリカの旦那、気を付けろ。あれはタリバンだ」
冷静沈着なミューラー中佐も思わず息を呑み、上着の内側の拳銃に手をやった。かつてアフガニスタンを支配し、2001年のアメリカの軍事進攻で政権から追われ、その後もアメリカの援助で成立した新アフガニスタン政府と米軍を中心とする多国籍駐留部隊にテロ攻撃を続けてきた、イスラム原理主義勢力。
アメリカ人であるミューラー中佐にとっては、最も出くわしたくない相手だった。中佐は素早く辺りを見回したが、そこは赤茶けた岩山に両方を囲まれた半砂漠の道で、逃げ込めそうな場所も身を隠せそうな場所も見当たらなかった。
やがて古ぼけたジープがハマーの前まで来て停まり、両側のドアから真っ黒に日焼けし、深いしわを刻んだ白髪白髭の老人と三十代半ばと見える頬から長い髭を伸ばした精悍そうな目つきの鋭い男が降りてきた。
馬に乗っていた男たちもそれぞれ降りて、二人につき従ってミューラー中佐の車の方に近づいて来た。パキスタン人の運転手は、何を思ったか、しわくちゃの一ドル札が詰まった袋の口を開いてそれを窓のすぐ側に置いた。
パキスタン人の運転手がまずパシュトゥーン語で声をかけた。相手がタリバンなら、アフガニスタンの公用語である言語に反応するはずだ。
「おい、あんたらは何だ? このコンボイに用でもあるのか?」
ジープから降りてきた若い方の男は杖をついてハマーに歩み寄る老人を後ろから支えるようにして、ミューラー中佐の方の窓に顔を寄せた。その様子から親子ではないか、と中佐は思った。馬でやってきた男たちは反対側の運転席の窓の近くに立つ。
「俺たちはアフガニスタン軍の部隊を待っているんだ。あんたたちは……」
運転手がさらに声を上げた時、意外な事に老人は流暢な英語でミューラー中佐に言った。
「軍の部隊は来られない。カンダハールの西で大きな崖崩れがあってな。車の半分が岩の下敷きになって使い物にならん」
「あんたたちがやったのか?」
ミューラー中佐は相手に気づかれないよう、じわじわと右手を胸の方に動かしながら尋ねた。額から汗が滴っていたのは暑さのせいばかりではなかった。老人はかすかに笑って答えた。
「いや、純然たる事故だ。我々は代わりにおまえ達を護衛するために来た。この先は道も悪いし盗賊も出る。長年この辺りに潜伏してきた、わしらの方が道には詳しい」
「俺はアメリカ人だ。それも軍人だ。ついでに運んでいる一人はイスラエル人だぞ。それは気にしないのか?」
そう皮肉っぽく言うミューラー中佐に、老人は杖の先でエルゼとラーニアが乗っている大型のキャンピングトレーラーを指しながら笑いを含んだ声で答えた。
「異教徒よ。もちろん、おまえたちとの決着はいつか必ずつける。我が祖国を取り戻すためにな。だが今はその時ではあるまい。クラーケンという化物を倒して世界を救う事が今は優先事項だ。それにあのイスラエル人の娘を殺せば、パレスチナ人の娘も死んでしまうのじゃろう? 同じムスリムを殺す愚を犯すほど、我々は馬鹿ではない」
やがて息子らしい若い方の男が、どうしていいか分からず立ち尽くしているイラン革命防衛隊の隊長に近づき、これも意外な程なめらかな英語で語りかけた。
「旗を渡して欲しい。護衛部隊である証の、OICの旗を預かっているはずだ」
イラン人の隊長は大声で車内のミューラー中佐に指示を求めた。なお迷っている中佐に運転手がそっと話しかけた。
「アメリカの旦那、信用していいと思いますぜ」
「なぜそう言える?」
いぶかしげにそう訊く中佐に、運転手は自分の膝とドアの間にある袋を指差した。
「あいつら、この金に目もくれなかった。もし口先だけなら、真っ先にこの金をふんだくったはずだ。俺はアフガニスタンとパキスタンの国境をまたぐ商売をしてきたからよく分かる。あいつらも俺と同じムスリムだ。ここは信用してやってくれ、旦那」
ミューラー中佐は意を決して窓から顔を出し、イラン人の隊長に言う通りにするよう頼んだ。イラン人の隊長は自分の車のトランクから、折り畳んだ旗を取り出しタリバンの男に手渡した。男はそれを受け取ると乗って来たジープに小走りで戻り、金属製の物干し竿の様な棒を二メートルほどに伸ばし、それに旗をくくりつけ始めた。
ミューラー中佐の横の老人が言った。
「あれはわしの息子だ。わしらの次の族長になる。だから安心して道案内を任せるがいい。この先はムスリムの支配地域が続く。反政府武装勢力、民兵、強盗団、追いはぎに至るまで、ムスリムならあの旗を掲げた車列には手を出さんように、話はついておる」
族長の息子と言われた男は旗を取り付け終わり、棒をジープの後ろの筒に差し込んだ。二メートルのポールの先に旗が広がった。緑の地の真ん中に白い円、そしてその中に上が開いた真っ赤な三日月模様。さらにその三日月の中に黒い複雑な曲線が数本、不思議な模様を描いている。
イスラム協力機構、通称OICと呼ばれる、アフリカから東南アジアに広がるイスラム教諸国の国際組織の旗だった。若い男は旗が広がりきったのを確認すると、ジープの荷台の上に立ち、両腕を高々と天に向かって伸ばし、辺り一帯の岩山が震えるような大きな、そして力強い声で叫んだ。
「アッラー、アクバール!」
神は偉大なり。そう意味するアラビア語の叫びに、周りの岩山の上から大勢の、数えきれないほどの人数の、声が続いて唱和した。
「アッラー、アクバール!」
岩山の上に、次々にライフルを天高く突き上げた格好の男たちが姿を現した。その数ははっきり確認出来ただけでも五十を超えていた。
「いつの間に!」
思わずミューラー中佐は怯えた声を上げた。野戦の訓練を何度も受けた中佐でさえ気づかないうちに、これだけの人数に囲まれていたのだ。もし、襲撃のためだったら。そう考えたミューラー中佐は改めて背筋いっぱいに冷や汗が流れ落ちるのを感じた。
族長らしき老人は馬に乗り換え、息子だという若い男と馬でやって来たもう一人の若い男がジープに乗り込んだ。息子の方が手を振ってついて来いという合図をして車が動き出す。ミューラー中佐はハマーからエルゼとラーニアが乗っているキャンピングトレーラーに移った。
動き始めた車の中、ベッドの上では美奈とエルゼが抱き合うように体をくっつけて青い顔で震えていた。だが、ラーニアはニコニコとした表情で笑ってミューラー中佐に問いかけた。
「あの人たちとは、仲良くできたの?」
力なくうなずく中佐を見て、ラーニアは無邪気な表情と声で傍らのエルゼと美奈に言った。
「ほら、言ったでしょ? ムスリムの友達は友達。あたしはムスリムだから、あたしはあの人たちの友達。エルゼも美奈もボブもあたしの友達。だからみんなもあの人たちの友達! ムスリムは自分の友達の友達を傷つけたりしないって」
ミューラー中佐はドアの脇の床に尻もちをつくように座り込んで、額の汗を拭きながら思わず笑い出した。
「ハハハ! そりゃいい。じゃあ、いっそ俺が、いや、アメリカ人全員がイスラム教に改宗したらどうだ? そうすりゃ、この世界も少しは平和になるのかもしれないな。ハハ、アハハハハ」
そして万能艦隊はクラーケンを捜索しつつスリランカ沖に向かっていた。潜水艦ピョートル大帝号が海中を先行、巡洋艦アンザック・スピリットが海上で先導し、艦隊はアラビア海を抜け、スリランカ島とモルジブ諸島の中間海域を航行した。
クラーケンがインド亜大陸とスリランカ島の間のポーク海峡を通過する可能性を考えて、ペンドルトン提督はスリランカ島の西側と南側に空母クレオパトラの艦載機を哨戒に出し、二手に分けて警戒させた。
そして二日後、ピョートル大帝号が、スリランカの南端、マタラという町の南方二百キロの海上で海面に浮上してきたクラーケンを発見、ただちに艦隊に報告。万能艦隊はクラーケンの南側に回り込み、攻撃準備に入った。クラーケンをそのまま東進させ、マレー半島の西側のアンダマン海に誘導する事が目的だった。
クラーケンは東北東に海上を進んでいた。ベンガル湾に面したインドの人口密集地帯に接近させないよう、空母エヴィータ、空母クレオパトラの艦載機は順次発進。クラーケンの北側から空爆による攻撃を開始しようとした。
最初にその意変に気づいたのは、護衛艦おぼろづきのレーダー監視補佐をしていた女性乗員だった。彼女は隣の席の哨戒長にあわてた表情で報告した。
「ユーロファイターⅡの第一波攻撃隊、位置がずれ過ぎています。ニコバル諸島上空、陸の上に展開しています」
「そんな馬鹿な。おや、本当だ」
おぼろづきの通信士が隊長機に無線で警告すると、パイロットからおかしな返事が戻って来た。
「何を言っている? こちらは肉眼でクラーケンを確認しているぞ。それに直下に陸地などない」
おぼろづきのレーダーの故障の可能性を考えた提督は、アンザック・スピリットにレーダーで航空部隊の位置確認を依頼。するとアンザック・スピリットのレーダーでは当該機は三百キロ南にいるはずとの結果が出た。だが、それはピョートル大帝号から報告されたクラーケンの位置とはさらに百キロ東にずれていた。
各艦の艦長以下、ブリッジ要員全員が首をかしげたが、提督はクラーケンを目視で捉えていると言うユーロファイターⅡのパイロットの言葉を信じて、ミサイル発射を命じた。そして数秒後、パイロットたちの悲鳴のような声が母艦とおぼろづきのブリッジに響いた。
「ミサイルを誘導できない! どれも見当違いの方向に飛んで行ってしまう」
十機展開していた攻撃隊の一機だけなら、何か機体のトラブルという可能性もあった。だが、十機全てのミサイル誘導が一度に狂うとは偶然とは思えない。ペンドルトン提督は攻撃を一旦中止するよう命令。
今度は空母エヴィータのB-3爆撃機が、帰艦すべき母艦の位置を見失ったと緊急報告。指定された海域のどこにもエヴィータが見当たらないという。燃料を使い果たすギリギリまで飛び回ってやっとエヴィータを目視で探し出し、なんとか着艦を果たす騒ぎになった。
急遽各艦のブリッジを映像でつないで作戦会議が開かれ、ユーロファイターⅡが撮影したクラーケンの映像が解析された。巨大な島のようなクラーケンの中央部には、三個の大きな円盤上の物体が天に向かって突き出していた。それは馬鹿でかいパラボラアンテナのように見えた。
ペンドルトン提督がいきなり椅子から飛び上がるように立ち上がってスクリーン越しに各艦長に命じた。
「全艦、おぼろづきとの位置をレーダーで確認。それをこちらに送信。おぼろづきは報告された位置が、こちらの測定と合っているか確認。急いで!」
十分後、万能艦隊の各艦から位置のデータが送られて来た。そしてそれらはひとつ残らず、おぼろづき側の測定した位置とはとんでもなく食い違っていた。提督がまた全艦長に、悲鳴のような声で怒鳴った。
「万能艦隊、全艦、衛星通信のリンクを全面カット! これはサイバー攻撃よ!」
それから提督は守山艦長に、いつになく険しい表情で尋ねた。
「この艦の対サイバー攻撃用のシステムはどうなっていますか?」
守山艦長はまだ事態が正確に理解できていない様子で戸惑い気味に答える。
「本艦のコンピューター操作要員は、ひと通りの電子戦の訓練は受けております。しかし提督、今サイバー攻撃とおっしゃいましたが、この状況で誰がそんな事を?」
提督はおぼろづきのブリッジの大型スクリーンに映るクラーケンの姿を指差しながら言った。
「クラーケンだと考えるべきですね。あの頂上部のパラボラアンテナの様な形の物体は送受信機なのでしょう。あれから衛星通信回線に信号を送って侵入し、各艦のコンピューターをハッキングしているのです。さっきからの位置情報の異常は、GPSからの受信データをクラーケンのハッキングによって書き換えられていたのです」
それを聞いていた哨戒長と砲雷長が思わず、周りにもはっきり聞こえるほど大きく息を呑んだ。砲雷長がうめくような口調で言う。
「だとしたら一大事です。どんな最新鋭の武装を持っていても、GPSからの位置情報が信用できなければ、ミサイルも艦載機も誘導できない。ほとんどの武装が役に立たなくなる」
「そう。それが現代の軍隊の最大の弱点なのです」
提督はそう言って顎に握りしめた右手をあてて考え込んだ。守山艦長はスクリーンの中のクラーケンを睨みつけるように見つめながら独り言をつぶやいた。
「化物め。次から次へと知恵をつけてきているのか?」
やがて提督が両手を座席のコンソールの上に叩きつけるように置き、守山艦長に命じた。
「キャプテン・モリヤマ。コンピューター担当のクルーに対ハッキング戦の用意をさせて下さい。このおぼろづきのみ、衛星回線との接続を再開。艦隊の他の艦はおぼろづきからGPSその他のデータを受信させます」
「本艦でハッキングを阻止しつつ、他の艦へのデータの中継を行うという事ですか?」
そう訊いた守山艦長に提督は無言でうなずく。守山艦長はコンピューター担当の乗員の方を向いて「出来るか?」と声をかける。担当乗員のチーフは顔をしかめながらも答えた。
「やってみます。いえ、やらざるを得ませんね」
五分後、おぼろづきは衛星回線への接続を再開。案の定、おぼろづきの全てのコンピューターに外部からデータ、プログラムを改変する不審な情報操作が進行中である事が確認された。
おぼろづきのコンピューター担当者は全員で侵入してくるハッキングデータをブロックし、既に改変されたプログラムの復旧を行った。同時にGPS他衛星通信回線から受信したデータを艦隊の他の全ての艦に通常の無線で転送。
これにより艦隊の他の艦の航行、作戦行動に必要な電子データが回復し、空母エヴィータ、空母クレオパトラは艦載機を再び発進させた。ヘリ空母ジャンヌ・ダルクの搭載ヘリは念のため通常無線以外の通信を使わず、目視飛行のみで艦隊外縁部に展開した。
ペンドルトン提督はB-3爆撃機とユーロファイターⅡにクラーケン頂上部のパラボラアンテナ状物体の破壊を最優先するよう指示。だが各艦載機が直接衛星からのデータを受信出来ないため、クラーケンを肉眼で確認できる距離まで接近しなければならず、クラーケンから次々に飛び出したケツァル級翼竜に攪乱され、なかなか目的を果たせなかった。
そしておぼろづき艦内では、コンピューター担当の乗員が悲鳴を上げ始めた。クラーケンからのコンピューターへの侵入の速度が時間と共に増していき、おぼろづきのコンピューターを守るだけで手いっぱいになりつつあった。
「火器管制、制御不能!」
ついに担当乗員の一人が叫んだ。
「だめです! メインサーバーが乗っ取られるのは時間の問題……」
その時、おぼろづきのブリッジの大型スクリーンの画面が一瞬砂の嵐になった。ついにクラーケンにコンピューターを制圧されたと思ったブリッジの全員が顔面蒼白になった。
だが次の瞬間スクリーンに奇妙な画像が映った。それは仮面だった。上部は四角で顎の方にかけて細長く尖っていて、眉毛、横に長く伸びた口髭、顎の真ん中を下に向けて伸びる髭が描かれている。右目の下にはピエロの化粧の様な赤い涙の粒が描いてある。
呆気に取られているブリッジの乗員の中で、雄平が真っ先にそれに気づいた。
「ネオ・アノニマス!」
雄平の叫びに通信長が、「あっ」と驚きの声で応じる。
「あの世界的なハッカー集団か? 最近再結成したらしいとは聞いていたが」
守山艦長が椅子の背もたれを拳で力任せに殴りつけ、この上ない怒気をはらんだ声で怒鳴る。
「悪ふざけにも程がある! 何を考えているんだ、こいつらは? 今人類の命運を賭けた戦いをしているのが分からんのか!」
その時、インターネットのとある会員制掲示板では次の様なチャットのやり取りが行われていた。
「まったく見ちゃいられないな。軍隊のセキュリティってこの程度か?」
「おおい、チェコ共和国の仲間がパターン解析したぞ。複雑に見えるけど、基本パターンはSQLインジェクションだってさ」
「はあ? データの更新の時間系列を入れ替えるアレか?」
「そんな古典的な攻撃かよ。宇宙生物のクラッキング攻撃っていうから、どんなすごい物が見られるかと思ったのによ」
「ま、使ってるのは地球人のハードとソフトだからな」
「だったら逆ハッキング用のソフト、俺が持ってるぞ。みんなダウンロードしてくれ」
「よし、おまいら、今から五分後に全員で始めるぞ。今回の参加番号が奇数のやつはカウンターハッキング、偶数のやつは日本の軍艦のプログラム修復手伝ってやれ」
「オーケー。逝ってよし!」
きっかり五分後、おぼろづきのブリッジでコンピューターのコンソールと真っ青な顔で格闘していた乗員がまた驚きの声を上げた。コンピューターサーバー上で乗っ取られた領域を示す赤い表示がじわじわと縮小し始めたのだ。
別のコンピューター担当者もさっきとは違う意味での悲鳴を上げた。
「何だ、これは? 火器管制用のプログラムが勝手に回復している」
世界中から国連海軍のコンピューターシステムに侵入したネオ・アノニマスのメンバーたちが衛星通信を経由しておぼろづきのコンピューターを遠隔操作。クラーケンからのハッキングを中和すると同時に、破壊あるいは改変されたデータ、プログラムを修復していたのだ。
さらに、おぼろづきのコンピューターが回復したところで、ブリッジのコンピューター担当者がまた悲鳴を上げた。報告を求めた守山艦長に担当者の一人が泣き出しそうな声で告げた。
「今度は本艦のコンピューターから、我々が関与していない送信が行われています。止められません」
一時的におぼろづきのコンピューターを乗っ取ったネオ・アノニマスはクラーケンに対してハッキング攻撃に転じていた。衛星回線を通じてクラーケンに大量の無意味なデータを送り続け、相手の機能を麻痺させる戦法だ。
クラーケン上空を哨戒飛行していたユーロファイターⅡのパイロットの一人が目視で、パラボラアンテナ状の物体が根元から破裂するように吹き飛び、小山の様なクラーケン本体を転がり落ちて海面に転落したのを確認。
これと同時に、クラーケンからのハッキングは完全に停止した。おぼろづきのブリッジのスクリーン上では、ネオ・アノニマスのシンボルマークである仮面が消え、世界各地の言語で激励とおぼしき文章が次々と現れた。最後に「萬能艦隊、加油」という一文が踊り、スクリーンは平常の状態に戻った。
「今回のリーダーは台湾人みたいですね」
提督がいつもの半分笑ったような表情に戻って、最高指揮官らしからぬ、いたずらっ子の様な口調に戻ってつぶやいた。
「加油は中国語の『がんばれ』。それに万の字が繁体字ですからね」
守山艦長はほっとした表情を一瞬浮かべたが、すぐに真っ赤な顔になって声を荒げた。
「いえ、提督、笑いごとではありません。あれは確か、世界中を大混乱させて、一部のメンバーは国際指名手配された犯罪者集団でしょう? 仮にも国連海軍が犯罪者集団に助けられたなどとは……」
だが提督は意に介さない口調でニコニコ笑いながら答えた。
「いいじゃありませんか。結果的にクラーケンのサイバー攻撃を撃退出来たのですから。ハッカーも地球の危機、人類の危機にはひと肌脱いでくれたという事です。世界はひとつ、人類みな兄弟」
なおも異論を唱えようとした守山艦長に向かって哨戒長が緊迫した声で叫んだ。
「翼竜多数! 三時の方向、距離……五百メートル」
「何!」
守山艦長以下ブリッジの全員がまた顔面蒼白になった。哨戒長が言葉を続ける。
「プテラノドン級、低高度からの接近で探知出来なかったものと思われます」
「くそ、サイバー攻撃のどさくさで気づかなかったか。衛星通信は使用可能か?」
そう叫んだ守山艦長に通信長があわてて機器のパネルを操作する。
「通信可能、問題ありません」
「対空火器、ただちに始動。砲雷長、CICに移動する時間はない。ここから撃て!」
「了解……対空ミサイルは間に合いません。ファランクス全門、自動照準!」
次の瞬間、ブリッジ全体が横から突き飛ばされた様な衝撃に包まれた。守山艦長の席の非常用電話機が鳴った。
「こちら艦長、どうした?」
「ダメージコントロール二班。右舷後方に翼竜が激突! ファランクス対空砲大破、火災発生中!」
「日野副長!」
守山艦長は雄平に向かって叫んだ。
「手の空いている者を全員集めて右舷甲板に向かえ。ダメコン二班を支援!」
「了解!」
雄平はブリッジを飛び出し、手当たり次第に乗員に声をかけ、数人とともに甲板上へ出た。右舷後方、ヘリ格納庫に近い所で火の手が上がっていた。
「まずい! 格納庫に近すぎる。航空用燃料に引火したらおしまいだ」
途中でかき集めてきた消火器で、先に到着していたダメコン班と共に消火しようとしたが、ファランクス対空砲が大破して油圧ジョッキの中のオイルに引火したらしく容易には火の手は収まらない。
戦闘中に艦隊が損傷した時、ただちに駆けつけて応急修理にあたるのが任務の、機関科の乗員から成るダメコン班は既にファランクスの中の弾薬を抜いていたので誘爆の心配はなかったが、このまま火が延焼してヘリ用の燃料タンクに届いたら大参事になる。
何かのオイルにさらに引火したらしく、新しい火の手が二メートルほどの高さで上がった。そして雄平の隣にいた、防護服を着ていなかった増援の乗員が一人、もろにその炎に包みこまれ全身が燃え上った。
甲板に倒れ込んでのた打ち回るその乗員に駆け寄った雄平は手にした消火器の筒先を向けたが、すぐに消火剤が尽きた。雄平はシャツを脱いで火に包まれている乗員の体を覆い、火をもみ消そうとしたが、苦しがる乗員の動きが激しすぎて押さえつけきれない。
さらに新しい火の手が一つ、ヘリの格納庫のさらに近い地点で上がった。一瞬あきらめかけた雄平の眼前に、騒ぎの音に紛れて気づかなかった、巨大なヘリコプターがホバーリングしていた。
それは機体全体が赤く塗装され、機体上部前方にエンジン吸排気口が横に二つ並んだ大型ヘリだった。機体の底の部分から筒状の物体がせり出して来て、その先端から白い霧の様な物が、雄平たちのいる火災現場にすさまじい勢いで放射された。
その液体をもろに体に受けた雄平たちは、圧力で甲板上に転がった。雄平が起き上がって目をこらすと、あれほどしつこく燃え盛っていた炎が見る見る小さくなっていく。
雄平が抱きかかえていた乗員の体の火も消えていた。だが火傷を負ったらしく、意識朦朧とした状態でうめいている。
赤いヘリはさらに数度、消火材らしい液体を甲板上に散布、火災は完全に鎮火した。上空で旋回しておぼろづきから離れていく赤いヘリと入れ替わるように、今度は白く塗装した似た形のヘリがおぼろづき甲板の真上にホバーリング。
ヘリの機体の横には目にも鮮やかな赤い十字のマークがあった。白いヘリの横側の扉が大きくスライドして開き、数本のロープが垂れ下がって来た。そしてロープをつたって二人の白い服の男たちが甲板に降りてきた。
警戒して身構えた雄平たちに対し、その二人は自分たちのライフジャケットの胸の部分をしきりに指差した。そこには衛生兵である事を示す「MEDICS」という文字があった。
二人は「メディックス! メディックス!」と叫びながら、雄平の元へ駆けつけ火傷を負った乗員の体を引き取った。焼け焦げた制服をてきぱきとはさみで切り取りながら体の状態をチェックし、腰に下げたバッグからジェル状の何かを火傷の上に塗って行く。
しばらく呆気に取られていた雄平があらためて白いヘリに視線を向けると、ヘリから簡易担架のような物が吊り下げられて、おぼろづきの甲板に近づいていた。
二人のメディックは負傷したおぼろづきの乗員を担架に乗せ、大きく手を振ってヘリに合図を送った。すると担架はそのままするすると上に持ち上げられ、ヘリの内部に収容された。
再びヘリから、足を乗せるバーがついたロープが甲板上に下ろされ、二人のメディックはそれに捕まってヘリに戻ろうとしていた。雄平は思わずそのうちの一人に掴みかかって問いただした。
「君たちは誰だ? うちのクルーをどこに連れて行く?」
「心配なら君も一緒に来い」
そのメディックはやや訛りのある英語で答えた。
「ペンドルトン提督の許可は取ってある」
意外な答に数秒とまどったが、雄平は意を決して彼らと一緒にヘリに乗り込んだ。機体の中は驚くほど広く、救急用のベッドが二つ、その他様々な救命救急装置が並んでいた。
パイロットが二人、さっきのメディック二人の他に医師らしい男女ひとりずつのクルーがいた。顔つきなどからインド人らしかったが、負傷したおぼろづきの乗員の手当に忙殺されている様子なので、雄平はあれこれ質問するのは控えていた。
ヘリの窓からさっきの赤いヘリが先行して飛行しているのが見えた。その機体を観察した雄平は、Mi26、通称ヘイローと呼ばれるロシア製の輸送ヘリではないかと思った。
世界最大の搭載量を誇る大型ヘリで、インドでも軍用だけでなく民間用に使用されていると聞いた事があった。だが、消火器や救急設備を備えた型があるとは聞いた事もなかった。
約二十分後、水平線の向こうから、これまた巨大な船が姿を現した。全長二百五十メートル、排水量三万トンは優にありそうな巨大な貨物船のような形だ。甲板上には巨大な貨物運搬用のクレーンが三本そびえ立っている。
さっきの赤いヘリがその艦に近づいたが、この白いヘリに先に着艦するよう指示が出たらしい。雄平が乗っている白いヘリはその巨大な艦の右舷から正面を横切る形で甲板後部のヘリポートに向かって方向を変えた。
雄平は窓に顔を文字通りくっつけてその艦体を食い入るように見つめた。船体の右舷前方の横腹には「UNN-06」の白い文字。そして左舷横を通り過ぎる時、艦名が見えた。そこには同じく白い文字でこう書かれていた。「MOTHER TERESA」。
白いヘリが着艦すると待ち構えていた白衣の数人がストレッチャーを押して駆け寄り、負傷したおぼろづきの乗員を乗せ、猛然と艦内に向けて走り出した。雄平もとにかく後を追って走った。
廊下をしばらく走ると、二つ並んだドアの一つの中にストレッチャーは運び込まれた。雄平は中に入らないように押し戻されたが、ちらりと目に入ったその施設は、まるで大病院の手術室のように見えた。
治療中を示す赤いランプがドアの上で点灯し、周りに誰もいなくなった雄平は何がなんだか分からないまま、廊下の反対側の小さなベンチに腰を下ろして茫然と時を過ごした。
やがて治療室のドアが開き、医師らしい数人が廊下を去って行った。最後に出てきた年配の白衣の男が雄平のそばに歩いて来て、少し訛りはあるが流暢な英語で告げた。
「君の部下は心配ない。ひどい火傷だったが、幸い皮膚の表面の損傷だけだ。今念のために細胞を採取してiPS細胞を培養している。半月もあれば回復できるだろう」
「艦内の医療施設でそんな事が出来るのですか?」
雄平は信じられないという口調で尋ねた。その医師は意味ありげな微笑を浮かべて、治療室を指差しながら自慢そうに言った。
「その気になれば、ここで心臓移植だって出来るさ。ただしばらくは君の部下は面会謝絶だ」
「この艦は、万能艦隊の構成艦なのですか?」
「それは私の口からは答えられない質問だ。だが、今この艦は君の乗艦、確か日本の駆逐艦だったね、それと合流する予定だ。ヘリポートの側の控室で待っていたまえ」
一時間後、甲板上の雄平からおぼろづきが見えて来た。右舷後部は遠目でもはっきりと分かるほど損傷していたが、航行に支障をきたす程ではないようだ。
翼竜の姿は見当たらなかった。どうやら撃退に成功したらしい。雄平の乗っている巨大な艦は後方からおぼろづきの右側に並走した。そして雄平の目におぼろづきの船体が急に大きく映り始めた。
何か違和感があって雄平は甲板上の手すりから身を乗り出すようにして海面の様子を見た。そして目を丸くしてつぶやいた。
「何だ? この船、まさか真横に動いているのか?」
甲板の反対側に走って行き、海面を見ると、この艦の船体の前後から真横に向かって白い泡、航跡がわずかな距離だが伸びていた。近くでそれをにやにや笑いながら見ていた艦の乗員が声をかけた。
「この艦にはサイドスラスターがついているんだ」
「サイドスラスター?」
「艦首と艦尾の下に横向きのスクリューがあるのさ。この艦はそれを使って海上を横向きに動けるんだ」
やがて艦とおぼろづきとの距離が二十メートルほどになった時、甲板にそびえ立っていた三本のクレーンのうち外側の二本が、重々しい音を立てて横に倒れ始めた。その先端にはマジックハンドのような装置がついていて、それがおぼろづきの舷側をつかんだ。
艦の横向きの移動はそこで止まり、真ん中のクレーンが横に倒れて長さが伸び、おぼろづきの甲板の上まで届いた。よく見るとそれはクレーンではなく、両端に手すりがついた通路になっていた。これを渡って他の船の甲板に直接行き来できるようだ。
艦のクルーに促されて、雄平はその通路を渡っておぼろづきの甲板に戻った。そこには守山艦長、ペンドルトン提督、玉置一尉が既に待機していた。
狐に化かされたような顔をしている雄平に向かって守山艦長が言った。
「ご苦労だった。負傷者も命に別状がなくてなによりだ。私は提督と一緒にあの艦の視察に向かう。日野副長はすぐにブリッジへ戻って留守中の指揮を取れ」
「クラーケンはどうしました?」
一番気になっていた雄平の質問に守山艦長は自分もほっとした表情で答えた。
「逆ハッキングでダメージを受けたのか、今は動きがない。だが、この状況では艦長と副長が同時に艦を離れるわけにはいかん。くれぐれも警戒を怠るな」
そして橋のように渡された通路を通って、ペンドルトン提督、守山艦長、玉置一尉はその巨大な艦に乗り移った。他の艦の艦長たちも次々とヘリで到着した。全員がそろったところで、一人の長身で恰幅のいい中年の女性が彼らを出迎えた。
軍服から見てこの船の艦長らしかった。彫りの深い顔立ちに青い目、額にはヒンズー教徒の印である赤い点を塗っている。
「ようこそ、みなさん。私が艦長の、インド海軍中佐、アイーシャ・シン・ミルザです」
そしてミルザ艦長の案内で、一行は艦内の施設を見て回った。ヘリポートに近い上層部は例の医療設備がある一帯で、緊急手術室が二つ、集中治療室いわゆるICUが六部屋もあった。下層部は薬品、食料などの生活用品の保管庫になっていた。
船体中央左舷部はミサイルなどの弾薬の倉庫になっていて、万能艦隊の構成艦の兵器も一定数そろっていた。中央右舷部は艦のエンジン部で他の艦に供給する燃料タンクもあった。
甲板後部ヘリポートから発信するのは二機。ロシア製ヘイローを独自に改造し、ヘリコプターとしては世界最大の積載量を活かし、一機は消火剤タンクを搭載した消防ヘリ、もう一機は救急救命装置を満載した救急ヘリ。
ひと通り施設を見て回り、ブリッジの操舵室の説明を終えたところで、ミルザ艦長はペンドルトン提督の前に威儀を正して直立し、右手を敬礼の姿勢で構えて言った。
「このように本艦は、補給、救難、救助、緊急医療、全ての後方支援を行うための艦です。国連海軍、南西アジア・ブロック代表、インド海軍所属、後方支援艦マザー・テレサ。万能艦隊への合流を許可願います!」
ペンドルトン提督は素早く敬礼を返して答えた。
「許可します!」
そして提督は、今までの艦長たちとのやり取りでは見せなかった満面の笑顔でミルザ艦長に握手を求めた。
「女性の艦長をお迎えしたのは初めてです。お国では女性の登用が進んでいるのですね」
「本艦は武装艦艇ではありませんので、直接戦闘に参加する事は出来ません。しかし、艦隊の乗員全員の栄養、健康、日々の生活を司るという重要な任務を与えられています。軍艦でありながら、人の命を奪うためではなく救うための船。そういう意味で、わが国が世界に誇る、生涯を貧者、弱者救済に捧げた聖女の名を艦名としていただきました」
そこでミルザ艦長は子供の様ないたずらっぽい目つきになって言った。
「その最高責任者という大事な仕事、がさつな男なんかには任せられませんわ」
ペンドルトン提督は思わず吹き出した。
「あははは! それは違う意味で頼もしいで~す。頼りにさせてもらいます」
それから例によって提督の要望通り、後方支援艦マザー・テレサの食堂へ一行は向かった。
船体が大きい分、食堂のスペースはかなり広いようだった。おぼろづきの食堂の三倍以上の面積のようだ。一行は最初、入り口のドアが三つあるのか、と思った。
だがよく見ると、それぞれのドアの表面にアルファベットで「ベジタリアン」「ノン・ベジタリアン」「ハラル」という表示が書かれていた。ドアが三つあるのではなく、食堂そのものが三つあるのだ。
ピョートル大帝号のソラリス艦長は特に驚いたようだった。数ある軍艦の中でもスペースが狭い事では折り紙つきの潜水艦乗りとしてはあきれる他ない、という表情をしていた。
「この表示はどういう事でしょうか? ハラルというのがイスラム教徒向けの食事というぐらいは分かりますが」
空母エヴィータのフィツジェラルド艦長も首をかしげながら尋ねた。ミルザ艦長は微笑みながら答えた。
「インド人には宗教上の理由で、一切の動物性食品を食べない国民も多いのです。たとえばジャイナ教徒ですね。肉魚はもちろん、卵やミルクさえ摂りません。私はヒンズー教徒で、ノン・ベジタリアンです」
ミルザ艦長は、空母クレオパトラのマフムード艦長に視線を向け、やや遠慮がちな口調で言った。
「ノン・ベジタリアン用のメニューは、ムスリムの方にも差支えない内容にはなっていますが」
マフムード艦長は笑顔で答えた。
「それで構いません。ムスリムと言ってもエジプト人は結構世俗的でしてね。私もあまりそういう事に神経質ではないので、お気遣いなく」
一行はノン・ベジタリアン用の食堂に入り、席についた。三つあるうちの一つの食堂だけでも、やはりおぼろづきのそれより広いぐらいだった。
若い水兵たちがプラスチックのトレイに乗った料理を運んで来る。案の定インド風のカレー料理だった。ナンと呼ばれる平べったい小麦粉のパンを取り囲むように、三種類のカレーの皿が並んでいる。ナンを手でちぎってカレーをすくい取るようにして食べる物だ。さっそくパクついたペンドルトン提督が歓喜の声を上げた。
「これはおいしいです。日本のカレーライスもおいしいですが、さすが本場の料理ですね。この肉もちょっと噛み応えがありますね。これは何ですか?」
「それはビーフです」
そのミルザ艦長の答に玉置一尉が一瞬驚いた表情を見せた。
「あの、艦長はヒンズー教徒だと言ってらっしゃいましたよね? 今ではヒンズー教徒の方も牛肉を食べるんですか?」
ミルザ艦長は一瞬きょとんとしたが、すぐに豪快な笑い声を上げて質問に答えた。
「インド人がビーフと言った場合、それは水牛の肉の事ですよ。インドにおいでになった事はありますか?」
「いえ、残念ながらまだ一度も」
「ヒンズー教徒が神聖な動物だから殺してはいけない、というのはオックス、カウの牛の事です。水牛の肉はヒンズー教徒も食べて構わないのですよ。というより、近年は水牛の肉の消費量はうなぎ登りなのです」
「はあ、そういう事ですか」
「この戦いが終わったら、ぜひ一度私の国に遊びにいらして下さい。インドの大きな町では、ベジタリアン、ノン・ベジタリアン、ハラルの三種類の食堂が隣り合っている光景は珍しくないのですよ」
食事が終わり、チャイという牛乳で煮出した紅茶を飲みながら、提督がテーブルに海図を広げて今後の説明を始めた。
「おぼろづきの修理のために一旦インドのチェンナイ港に寄港します。そして修理と補給が終わり次第、全艦でクラーケンをこの方向へ追い込みます」
提督の指先が海図の上を滑り、ミャンマー沿岸のアンダマン海を指す。
「以前にもお尋ねしましたが、それでは海上交通の要衝を通過させてしまう事になりませんか?」
ヘリ空母ジャンヌ・ダルクのポルナレフ艦長が戸惑った表情で訊く。提督は海図をたたみながら言った。
「そこを逆手に取るのです。作戦の詳細は発動時にあらためて説明します。クラーケンが動きを止めている間にチェンナイへ急ぎましょう」
それから艦隊はベンガル湾に面するインド東岸の国際港、チェンナイに入港。おぼろづきはスリランカ沖で受けた損傷を修理するため、港に接岸した。
もう日がとっぷり暮れていた。修理の指揮のために上陸した守山艦長に代わって雄平がブリッジに詰めた。
航海長の席に女性乗員がやって来て、こう告げた。
「ペンドルトン提督の命令で勤務を交代します」
「ん? 艦長からは何も聞いていないが」
「提督のご判断だそうです。これからの戦闘に備えて専任の乗員は休息を取らせるとの事で」
「おお、そうか。では後を頼む」
ほんの数分後、別の女性乗員が哨戒長の席へやって来て似たような事を告げた。哨戒長も提督の命令と言われて、席を立った。
「しかし室内が暑いな。冷房は故障か?」
「修理点検のために、必要最低限以外の電源は落としておくそうです」
「そりゃ大変だな。じゃあ、後を任せる」
さらに数分の間を開けて次々に女性乗員がブリッジにやって来て男性クルーと交代して行った。いつの間にかブリッジの中では、雄平以外は全員女性の乗員ばかりになった。
それに気づいた雄平はペンドルトン提督の含み笑いを浮かべた顔を思い出していた。おぼろづきが「婚活用護衛艦」である事と共に。冷房を切られたブリッジの中は段々蒸し暑くなり、交代要員の女性乗員たちは、シャツを大きくはだけて胸元をファイルであおぎ始めた。ブリッジ全体に若い女性の体臭が広がる。その中に男は雄平ただ一人。
「やっぱり提督の仕業だな」
雄平は周りに聞こえないように小声でつぶやいた。
「何を考えてるんだ、あの人は」
おぼろづきの船体の損傷は思ったより軽かった。だが破壊されたファランクス対空砲を取り換えるには本格的な修理が必要で、守山艦長はそれを断念。
破損した対空砲を取り外し、焼け焦げた船体部分を鋼鉄シートで補強して応急処置を施すに留めた。
負傷したおぼろづきの乗員はマザー・テレサの医師団の治療で、松葉杖で歩けるまでに回復したが、守山艦長はチェンナイから空路での帰国を命じた。
港に迎えに来たインド軍の兵士に支えられながら、おぼろづきを去る彼の姿を甲板の手すりから身を乗り出して大声で見送る女性乗員がいた。
それに気づいた雄平がふと周りを見回すと、あちこちに男女のペアが肩を並べているのが見えた。どうやらペンドルトン提督の作戦が徐々に奏功して、いつの間にかカップルが増えてきたらしい。
ブリッジで一緒になる事が多い航海科の乗員が雄平に近寄って来て耳打ちした。
「副長、だいぶ番が増えたようですね」
「おい、ツガイはないだろ。でも確かに吊り橋理論てのは当たっているのかもな」
「副長はどうなんです? 最近モテモテらしいじゃないですか」
「俺に彼女がもういるのは知ってるだろ。それにああいうのは女難と言うんだよ」
翌早朝、偵察飛行中の空母クレオパトラのグローバルホークがクラーケンの移動を確認。万能艦隊はおぼろづきを先頭に追跡を開始、ベンガル湾を東北に移動した。