ビンガの港町へ戻る途上で夜を迎え、一行は野原の真ん中のありふれた遺構のそばで野宿をすることになった。帰り道はユビスだけでなく加護官たちの乗る普通の馬たちも一緒だからだ。ユビスならばノンネット、アギノア、ヒューグを乗せられるし、その上で普通の馬よりも速く走れるが、加護官たちに断固として拒否されてしまった。仕方がないのでノンネットたちの馬に合わせて草原をひた走ったのだった。ユビスの苛立ちはユカリに伝わってきたが、意外にも直接文句を言われることはなかった。
大所帯での野宿は首席焚書官サイスの部隊と共にした時以来だ。つい最近まで盗賊たちと巡ったシュジュニカ行政区では宿か隠れ家に泊まれた。彼らは意外に段取りが良かったのだ。
ユカリはいくつかの焚火の一つを前に、ノンネットたちに分けてもらった食事を前にそわそわとしている。小豆蔲の甘やかな刺激に彩られた麦粥も、厚みのある燻製鰊の塩辛さも、甘藍の漬物のしゃきしゃきとした歯ごたえも、ユカリの意識を向けさせるには力及ばずユカリの知らぬ間に腹の中に収まった。
ノンネットと、なぜか特に強面の加護官たちに囲まれた食事。ノンネットはこれまでの確執などなかったかのように、アルダニ地方で別れてからの修行の旅を話して聞かせてくれる。ユカリは適切に相槌を打ち、ほどよく質問をした。ノンネットは自信に満ち溢れた少女だが、それでも多くの護女の中で最も聖女に近い者は他にいるらしい。それでも諦めず、めげず、夢に邁進しているそうだ。耳を傾ける加護官たちの表情はまるで孫に対する祖父母のそれだ。
気もそぞろな食事を終えたその時、ユカリは別の焚火のそばにいるアギノアの姿を見つけ、そして決心する。その場を離れ、アギノアの元へ移る。
アギノアとヒューグが楽し気に語らっているのを見て、ユカリは気が引ける。勇気を出して一歩を踏み出す前にヒューグが気付き、アギノアが振り向いた。
「ユカリさん。どうしました? 食事はまだですか? こちらで一緒に食べます?」
再び下ろされた黒い面紗の向こうでアギノアが微笑んでいるのが分かる。何より旅が楽しいというアギノアにとって、大所帯での野宿もまた新鮮な経験なのだろう。
「少し、二人きりでお話してもいいですか?」
ユカリは控えめに身を庇うように、ばれないように祈るかのようにお腹の前で手に手を握り、逃げようとする視線を面紗に留める。
「もちろん。この短い間に積もる話もありますよね」
ユカリとアギノアは一行から離れ、知る者にとっては予兆めいた星月夜の下、倒れ伏した古の柱に腰かける。
暫く夜を眺めた沈黙ののち、ユカリは意を決して口を開く。「私、アギノアさんに謝らないと、と思って」
「謝る? ユカリさんが? なぜです?」アギノアは驚いた様子で振り返る。「迷惑をかけたのも我が儘を言ったのも私たちの方ばかりですよ。あまつさえ、あの馬、ユビスが盗んだものだったなんて。彼は、ヒューグに至っては善人とは言えない人物です。そんなことに気づきもしなかった私も私ですが」
その言葉とは裏腹に、その声には熱が籠っている。
「でも、私、事情も知らないのにずけずけと、真珠を寄越せと言っていて――」
「それだって事情を話さなかった私たちにそもそもの原因があります。とても信じてはもらえないと思っていたのですが……」
そう言ってアギノアは蓮の花のように密やかに笑う。
ユカリは失礼にならない程度にまごついて言う。「えっと、何が可笑しかったんですか?」
「いえ、ユカリさんの事情もとても信じられない出来事だったな、と思いまして」
「そうですね。私もどこまで話したものかと迷いました。でも事の根が同じだったなんて。もっと早く話していれば良かったです」
話していれば何が違っていただろう。ほとんど何も変わらないような気もした。たった一人と一つの国の半分を天秤にかけるようなものだ。
「謝罪したいことは感謝したいことばかりです」とアギノアが言った。「ユビスを盗んでしまい、申し訳ありません。でも、ユビスの背の上で浴びた風は生まれてから最も心地よい風でした。騙すように大隧道抜けを手伝わせて申し訳ありません。でも、あれほど手に汗握るできごとは初めてでした。浄火の礼拝堂まで付き合わせて申し訳ありません。でも、生まれ育った土地に
帰ってくる感慨は存外快いものでした。どうして旅はこんなにも楽しいんでしょうね?」
ユカリは少し考えてから答える。「それはやっぱり、新しいに沢山出逢えるからじゃないですか?」
この旅で、見慣れたものなどほとんどなかった。ユカリは、あるいはラミスカは幼い頃から想像の翼を広げ、未知の帳の向こうへ何度となく行き来したものだが、全ては朝には消える夢のようなものだった。今こうして見上げる星空や春の青い草の匂いでさえも故郷には欠片も存在しなかった。決して同じではなかった。
「新しい」と舌触りを確かめるようにアギノアは呟く。「確かにそうですね。この旅は新しいばかりでした。新しい風景。新しい体験。新しい楽の音。新しい味わい。新しい香り。新しい気持ち。私の人生も、つまり生前の話ですが、別に退屈というわけではありませんでした。喜びも悲しみも驚きもなかったわけではありません。細やかな信仰の日々、仲間たちとの緩やかな営み、どれをとっても優しく色づいています。ですが、そのことに気づいたのは、この旅に出てからのことでした」
アギノアがそう言うと再び二人の間に沈黙の柔らかで厚みのある壁が現れる。
ユカリの方は違った感慨だった。故郷のオンギ村での日々は遠く霞んでいる。記憶になくなったわけではないが、色褪せて感じた。あるいはさらに旅を続ければ、感じ方も違ってくるのだろうか。
アギノアが少し俯いていることに気づく。
「大丈夫ですか? アギノアさん。気分が悪かったり、とか」
亡霊にそのようなことがあるのかは分からないが。
「ユカリさん。一つお願いしても良いですか?」
「はい。何でも仰ってください。どこまでできるか分かりませんが。できる限りのことはします」
「できる限りのこと、と言ってくださるのですね」とアギノアが悲し気に呟く。
「え? はい。できる限りのことしかできないので」とユカリは少し不安になって言う。
「ああ、いえ、ごめんなさい」アギノアは歯切れの悪い言葉を並べる。「そうですね。そんなに大それたことじゃないんですよ。えっと、その、少し恥ずかしいですが、昇天の、儀式か何かの時はユカリさんにもそばにいて欲しいな、と」
「そんなのお安い御用です。というかもとよりそのつもりですよ。ノンネットが文句言っても居座ってやりますから」
アギノアは朝露のように控えめに微笑んで、ユカリを覗き込むようにして言う。「頼もしいです。沢山ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。でもユカリさんに出逢えたこともこの旅の大きな喜びの一つです」
「そう思っていただけたなら嬉しいです。私もアギノアさんに出逢えて良かったです」
アギノアは加護官たちの熾した温かな焚火の方を振り返る。「新しい出逢いもまた旅の醍醐味の一つですね」
ユカリも振り返るが、そこにいる大半との出会いはアルダニ地方でのことで、新しい出会いではないことに気づいて、一瞬だけ躊躇してしまい、変な相槌を打ってしまった。
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