懸念していた盗賊たちに再び出会うことはなかった。さらに一晩を経て、蝙蝠が塒へ帰る頃、十数人の大所帯でビンガの港町へと戻ってくる。
町にたどり着くより前に人々の悲鳴が海のない海岸から波濤の如く押し寄せてきた。
「逃げろ!」「高い所へ!」「海嘯だ!」
またフォーリオンは約束を破ったのだ。三日目だが、三日経ってはいない。ユカリはこみ上げる怒りを抑える。三日待つという今度の約束は魔法の誓いですらない口約束だ。ユカリも想定していなかったわけではないが、信じたくはなかった。
枯れた海の地平線を越え、水平線があるべき高さを越え、雲をもつかみ、山をも覆う大海嘯がこちらへ迫っている。黒々とした海の壁に突き押され、海風が地鳴りの如き唸りを伴って吹き荒ぶ。
シグニカという土地でこの海嘯から逃れられる高い場所というと、国の中心から東西南北に伸びる高地をおいて他にない。高地を越えることはなかったとしても、シグニカ北部の東西の領域、シュジュニカとガミルトンは海に沈むだろう。
ユビスが先行して十数頭の馬がビンガの町を駆け抜ける。大通りを半分も過ぎた頃、ユカリの視線の真っすぐ先に見覚えのある人物がいた。
「ノンネット、海岸へ急いで! ここは任せて!」とユカリは指示する。
風を逆巻き、髪を逆立てる戦士ヘルヌスが一人、剣を抜いて立ちはだかっている。
「グリュエー。いける?」
「駄目。あの盗賊たちと同じ」
風除けの護符とやらがグリュエーを阻んでいるらしい。
「やっぱりヘルヌスが手を貸してたんだね」
先行したユカリは真珠の刀剣リンガ・ミルを右手に、馬上から飛び掛かる。他の馬たちが高らかに蹄を響かせて通り過ぎる中、魔法の剣リンガ・ミルは獰猛に、まるで餓えた獣のようにヘルヌスに襲い掛かる。右から左から、ユカリの腕の可動範囲を限界まで使って斬りかかる。ユカリもまた何とかその魔法に追いすがろうと真珠剣の間合いを意識して足運びに集中する。ただでさえリンガ・ミルは短剣にしては長いが、長剣にしては短い。手練れの剣技がその魔法の剣から繰り出されるが、空ぶってしまえば元も子もない。その上、目の前の敵は以前よもりリンガ・ミルのさばき方を心得ていた。
ヘルヌスは真珠剣の五月雨の如き撃ち込みを弾きつつ、さらに息切れすることなく流暢に呪文を唱える。その魔法は嵐や雷さえ退ける力を秘めていた。西方に名高きかの魔術師、竜巻殺しの石楠花の怒りと力に満ちた遺言は後の世の魔法使いに見出されて以降、様々な魔術に利用されている。この魔術もまたある流派に伝わったランゲンの遺言の末裔だった。
猛る風は護符に見逃され、今のグリュエーが打ち消すには力及ばず、ユカリは尻もちを打つ。防戦に注力するリンガ・ミルを頼って合切袋を探っていたユカリの左手が真珠の銀冠を頭に持ち上げるが、魔法の剣を掻い潜ったヘルヌスの剣技に叩き落とされてしまった。
しかしヘルヌスはそれ以上ユカリに構わず、間合いを取って馬の走り去った方を向く。そこにヒューグと加護官たちが残っていた。
「何してるんですか!?」とユカリは怒鳴るようにヒューグに問いただす。
まさかノンネットに限って、目の前の海嘯に目もくれず、取引を優先してヒューグが戻ってくるまで昇天の儀を行わないということはないだろう。ただしノンネットはまたも裏切られてしまうことになる。
「忘れたか? 元よりこの者は私が目当てだ!」一番槍の戦士が名乗りを上げるように勇まし気にヒューグは答える。「君はシグニカを救わねばならないだろう!? アギノアを頼む」
ユカリは腑に落ちない気持ちを抱きつつ、無言で駆け出して、ヘルヌスもヒューグも加護官たちも置いて海岸へと走る。町民たちはもうどこにもいない。ユカリはただ一人ひた走り、海なく海嘯迫る海岸へとたどり着く。
昇天の儀式は既に始まっていた。これ以上の災いなきよう神に祈る時のように砂浜に跪き、首を垂れるアギノアの背を見下ろして、ノンネットが粛々と天と地に道を結ぶ祝詞を唱えている。
「ユカリさん」面紗付きの帽子を脱いだアギノアの寂しげな真珠の声に呼びかけられ、そばへ行く。「彼に伝えてくれますか?」
ヒューグがここへ来るべきもう一つの理由に、ユカリは今になって気づいてしまった。が、何も言わずアギノアの隣に跪く。
「暗く冷たい海の底から連れ去ってくださって嬉しかった、と。彼に連れられて行く旅は楽しかった、と。ただそばにいて言葉を交わしてくださっただけで救われた、と。そして貴方の自由であるべき旅路を縛り付けてしまったことを悔いていた、と」
「はい。伝えます。どうか……」ユカリは絞り出すように請け負う。「どうか、心安らかに」
「ありがとうございます。ユカリさん。貴女にも沢山助けられました」アギノアは鈴の音のような声で笑う。「私の霊は、魂は海の底に戻るわけではありませんから。心晴れやかなものです」
ユカリの胸が罪悪感で押し潰されそうになる。たった一枚の銀貨のためにフォーリオンの海を怒らせ、アギノアの真珠の身を海に連れ戻す事態になったのだ。そうでなければ、アギノアもヒューグも亡霊の有り様とて、もっと長く旅を続けられて、より納得のできる形で旅を終えられていたかもしれない。
「私も同じように思っていた」と言ってヒューグが虚空から現れる。
どうやら真珠の銀冠をかぶって逃げ果せてきたらしい、アギノアと共に昇天するために。ヒューグはユカリに真珠飾りの銀冠を渡すと、アギノアの隣で同じように跪く。ノンネットが口を挟まない辺り、どうやらそれで問題はないらしい。
大海嘯の水の壁が北の空を覆っている。間もなくフォーリオンが上陸し、このままでは人も街も祈りも嘆きも何もかもを押し流してしまう。
ノンネットの祝詞が力ある律動を生み、辺りの空気を震わせる。今まさに二人の魂が天に召されようとしているのだ、と儀式の内実も分からないユカリにも理解できた。
その時、突然アギノアが立ち上がる。護女ノンネットは数拍だけ祝詞を止めたが、何も言葉を挟まずに二人の亡霊を慰めるべく儀式を続ける。
「私、やはり貴方には自由に旅をして欲しいです、ヒューグ」アギノアは慈しみの眼差しをヒューグに向け、乞うような瞳でノンネットを見る。「ノンネットさん。どうか、彼を見逃してください」
ノンネットに問答する気はないらしく、昇天の祝詞は早まる。
アギノアは意思も感情も読み取ることのできない真珠の瞳を海嘯へ向け、祝詞から逃れるように海へと走り出した。
「アギノア!」そう叫んで青銅像ヒューグは真珠像アギノアを追った。
一人海の底へ戻ろうとするアギノアをヒューグが引き留める。アギノアはヒューグを拒もうとするが、青銅の両腕に抱えられてしまう。
迫る海は呆気なく、二人を、二体の像を呑み込み、ユカリとノンネットの目前で、まるで見えない壁にぶつかったかのように止まる。その一瞬、その静寂が永遠に続くように思われた。
ユカリが誰かの名を口にしようとしたその時、海がすごすごとあるべき場所へ帰って行く。天まで届く巨大な水の壁が海底の寝床へ戻っていくと同時に、枯れ果てていた海が元通りに湛えられ、大人しい波が寄せては返す。まるで何事もなかったかのように、海にあるべき平穏が取り戻された。
ユカリは全ての不安と恐怖を吐き出すように深く息をついた。
いつの間にか祝詞を止めていたノンネットが呟く。「意味が分かりません。どうしてアギノアさんは昇天を拒否して、魂を像に閉じ込めたまま海に飲み込まれたのですか?」
ユカリは喉の奥に引っ込んでいた声を何とか押し出す。
「ノンネット、約束したでしょう? アギノアさんを昇天させる代わりに、ヒューグさんも昇天させてもらうって。だから自分さえ昇天しなければ、ヒューグさんも昇天せずに済む、とアギノアさんは考えた」
ノンネットは呆れたような怒るような表情をユカリに向ける。
「そんな馬鹿な! 別にヒューグさんを昇天させられなくても、拙僧はアギノアさんが望むなら昇天させて差し上げましたし、そうでなくてもただの口約束です!」
「ノンネットのこと、信じてくれたってことだよ」
ユカリにはそう言う他なかった。全ては想像に過ぎない。
ノンネットは忌々し気に海を睨み据えて言う。「愚行を美談にしないでください」
「それを愚かか美しいかで判断したのはノンネットだよ。昇天するにしても海の底へ沈むにしても、アギノアさんを一人にしたくない、とヒューグさんは考えたんじゃないかな」
ユカリの心はまるで冷たい海の底に沈んだかのようで、ノンネットの問いに答えている今も後悔の渦に囚われていた。
愚かしいか美しいかなど、ユカリにはどうでもよかった。ただ、こんな結末を望んでなどいなかった。それだけだ。
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