スタート
――悪夢の境界線:侵食(ドイツ視点)
どれほど眠っていないのか、もう覚えていない。
膝は震え、手は冷え、視界は常に揺れている。
職場の蛍光灯が僅かに瞬くたび――
俺の目に映る世界は、別の場所へと変わった。
同僚の足音が響くたび、遠くの廊下で靴音が返ってくる。
あの、夢の中の靴音。
“彼”が歩いてくるあの音。
そして――
(……また聞こえる……歌が……)
書類を捲る音に混ざって、どこかで低く、幼い子どものような鼻歌が流れ始めた。
俺だけに聞こえる声。
だが今日のそれは、あまりにも近かった。
「……なんで、ここで……」
喉が震えた。
◆
「ドイツ?顔真っ青なんね……?」
イタリアの声が少し遠い。
俺は口を開こうとしたが、言葉より先に“景色”が歪んだ。
目の前の会議室が――
白い霧に浸食され、床は暗く、壁は剥がれ落ちたコンクリートへと変貌する。
(……は……?ここ……夢の……)
視界の奥。
長い廊下の向こうから、黒い影がこちらへ向かって歩いてくる。
靴音が響く。
――コツ、コツ、コツ。
歌声が重なる。
低く囁くような、不気味な子守歌。
俺が忘れられないあの曲。
“眠れ……眠れ…………ドイツ”
違う。
ここは職場のはずだ。
俺は起きている。
なのに――夢の中と完全に重なってしまっている。
(来るな……来るな……来るな……!)
震える手で机を掴んだ瞬間、
自分の手が、ぐしゃりと“赤いもの”を踏んだように見えた。
――俺の手は、返り血で真っ赤に染まっていた。
「……っ……やめろ……」
腕が震え、呼吸が乱れる。
実際には何もついていない。
だが俺には、ぬるりとした温かい血の感触が、はっきりわかった。
指の隙間から滴る赤。
机を汚し、床に落ちる音さえ聞こえる。
イタリアが戸惑った声で言う。
「ド、ドイツ……?なんで震えてるなんね……?」
違う。
俺の目の前にいるのはイタリアじゃない。
――ナチだ。
血まみれの軍服で、黒い影のような顔で、ゆらりと笑いながら近づいてくる。
歌いながら。
歌いながら。
“逃げるな……ドイツ。お前はまた俺のところに戻るんだ”
「……いやだ……来るな……来るな……ッ!!」
俺は立ち上がり、後ずさった。
視界が揺れ、世界が回り、
壁に掛かった鏡が目に入った。
そこに映っていたのは――
俺ではなかった。
血のように赤い背景の中央で、
ナチが笑っていた。
鏡と視界の向こう側。
両方で奴が俺を見ている。
影のような黒い目が、ゆっくりと形を成していく。
(……消えろ……消えてくれ……頼むから……)
耳の奥で歌が爆発するように大きくなる。
“眠れ、ドイツ……俺から逃げるな”
「やめてくれ……っ……!」
膝を抱え、耳を塞いでも意味がない。
歌は頭の中から直接響いてくる。
イタリアの声も聞こえた。
「ドイツ!?どうしたなんね!?怖い顔して……!」
でも俺には――
イタリアが叫んでいるようには聞こえない。
耳に届くのは、
ナチの声だけ。
“また一緒に戻ろう……ドイツ。
お前の手はもう汚れているんだ。ほら……見ろ……”
俺の手の返り血が、ますます濃く、鮮明になっていく。
その赤が――
俺の眼球にまで染みてくるようだった。
◆
(……もう、わからない)
ここはどこだ?
俺は誰だ?
これは夢か?現実か?
鏡の中の“あいつ”が、笑いながら手を伸ばしてきた。
「……やめろ……触るな……ッ!!」
俺は叫び、後ろに倒れ込む。
職場の床のはずなのに、
冷たいコンクリートが背中を叩いた感触がした。
――世界が夢に飲み込まれていく。
俺は、逃げる場所を失っていた。
次書けたらまた投稿しよ







