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スタート





――悪夢の境界線:侵食(ドイツ視点)

どれほど眠っていないのか、もう覚えていない。

膝は震え、手は冷え、視界は常に揺れている。


職場の蛍光灯が僅かに瞬くたび――

俺の目に映る世界は、別の場所へと変わった。


同僚の足音が響くたび、遠くの廊下で靴音が返ってくる。

あの、夢の中の靴音。

“彼”が歩いてくるあの音。


そして――


(……また聞こえる……歌が……)


書類を捲る音に混ざって、どこかで低く、幼い子どものような鼻歌が流れ始めた。


俺だけに聞こえる声。

だが今日のそれは、あまりにも近かった。


「……なんで、ここで……」

喉が震えた。



「ドイツ?顔真っ青なんね……?」

イタリアの声が少し遠い。


俺は口を開こうとしたが、言葉より先に“景色”が歪んだ。


目の前の会議室が――

白い霧に浸食され、床は暗く、壁は剥がれ落ちたコンクリートへと変貌する。


(……は……?ここ……夢の……)


視界の奥。

長い廊下の向こうから、黒い影がこちらへ向かって歩いてくる。


靴音が響く。


――コツ、コツ、コツ。


歌声が重なる。


低く囁くような、不気味な子守歌。

俺が忘れられないあの曲。


“眠れ……眠れ…………ドイツ”


違う。

ここは職場のはずだ。

俺は起きている。

なのに――夢の中と完全に重なってしまっている。


(来るな……来るな……来るな……!)


震える手で机を掴んだ瞬間、

自分の手が、ぐしゃりと“赤いもの”を踏んだように見えた。


――俺の手は、返り血で真っ赤に染まっていた。


「……っ……やめろ……」

腕が震え、呼吸が乱れる。


実際には何もついていない。

だが俺には、ぬるりとした温かい血の感触が、はっきりわかった。


指の隙間から滴る赤。

机を汚し、床に落ちる音さえ聞こえる。


イタリアが戸惑った声で言う。


「ド、ドイツ……?なんで震えてるなんね……?」


違う。

俺の目の前にいるのはイタリアじゃない。


――ナチだ。


血まみれの軍服で、黒い影のような顔で、ゆらりと笑いながら近づいてくる。


歌いながら。


歌いながら。


“逃げるな……ドイツ。お前はまた俺のところに戻るんだ”


「……いやだ……来るな……来るな……ッ!!」


俺は立ち上がり、後ずさった。


視界が揺れ、世界が回り、

壁に掛かった鏡が目に入った。


そこに映っていたのは――


俺ではなかった。


血のように赤い背景の中央で、

ナチが笑っていた。


鏡と視界の向こう側。

両方で奴が俺を見ている。


影のような黒い目が、ゆっくりと形を成していく。


(……消えろ……消えてくれ……頼むから……)


耳の奥で歌が爆発するように大きくなる。


“眠れ、ドイツ……俺から逃げるな”


「やめてくれ……っ……!」

膝を抱え、耳を塞いでも意味がない。


歌は頭の中から直接響いてくる。


イタリアの声も聞こえた。


「ドイツ!?どうしたなんね!?怖い顔して……!」


でも俺には――

イタリアが叫んでいるようには聞こえない。


耳に届くのは、

ナチの声だけ。


“また一緒に戻ろう……ドイツ。

お前の手はもう汚れているんだ。ほら……見ろ……”


俺の手の返り血が、ますます濃く、鮮明になっていく。


その赤が――

俺の眼球にまで染みてくるようだった。



(……もう、わからない)


ここはどこだ?

俺は誰だ?

これは夢か?現実か?


鏡の中の“あいつ”が、笑いながら手を伸ばしてきた。


「……やめろ……触るな……ッ!!」


俺は叫び、後ろに倒れ込む。


職場の床のはずなのに、

冷たいコンクリートが背中を叩いた感触がした。


――世界が夢に飲み込まれていく。


俺は、逃げる場所を失っていた。




次書けたらまた投稿しよ

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