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これは――
知られざる過去を抱いた少女、セシルの物語。
⸻
1998年。
ドイツ北部、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州。
太陽のように明るいオレンジ色の赤毛。
ほんのりと薄づいたそばかす。
その姿は、お転婆で陽気な雰囲気を自然と漂わせていた。
彼女の名は、シセル・オットーマン。
不動産業を営む夫妻のもとに生まれ、
ごく普通の家庭で、何不自由なく育った少女だった。
――これは、
彼女が経験した「過去」と「現在」、
そして、まだ誰も知らない「未来」の物語である。
どこにでもいる、愛くるしい少女だった彼女は、
やがて――
世界を震撼させる存在へと変貌していく。
⸻
それは、10年前のこと。
シセルが、20歳の誕生日を迎えた日の夜だった。
誕生日の余韻が残るはずのその夜は、
なぜか異様なほど静かだった。
外から聞こえるのは、虫の声だけ。
まるで、世界が息を潜めているかのようだった。
高校を卒業した彼女は、
実家の近くにある地元の大学へ進学し、
経済学を学んでいた。
将来は、実家の不動産業を継ぐために。
そのために、真面目に、勤勉に、日々を過ごしていた。
近所では、
「明るくて、優しくて、礼儀正しい子」
そう評判の少女だった。
――まさか、この誕生日を境に、
人生が一変するなど、
誰が想像できただろうか。
⸻
その夜。
二階の寝室の窓が、開いていた。
どことなく気分が悪い。
だがシセルは、
「誕生日パーティーで疲れただけだろう」
そう思い、深く考えなかった。
窓を開けた覚えはない。
けれど、暑い季節だ。
いつ開けて、いつ閉めたかなんて、
いちいち気にすることでもない。
そうして彼女は、
静かに、深い眠りへと落ちていった。
⸻
次に目を覚ましたのは、
翌日の夕方、15時。
全身は、寝汗でびっしょりだった。
寝すぎたせいか、頭も重く痛む。
シャワーを浴び、
水をグラスいっぱい飲み干し、
軽く食事を済ませる。
大学の課題を終え、
ふうっと、ため息をついた。
そのときだった。
窓辺の風が、やけに強いことに気づいた。
不意に窓を閉めようとした――
その瞬間。
部屋の時計が、ぴたりと止まった。
外を歩く人も。
空を飛ぶ鳥も。
走行中の車も。
――すべてが、静止していた。
その瞬間から、
「時が流れているのは、私だけ」
そう理解するしかなかった。
そう。
時間という概念が、消えたのだ。
⸻
「……夢?」
現実とは思えず、
シセルは一階へと駆け下りた。
――誰もいない。
外に飛び出し、
近所のスーパーへ向かう。
だが、そこにも――
誰もいなかった。
気づけば、ここに来るまでの道中でも、
誰一人として、出会っていない。
「……お父さん……お母さん……?」
不安が胸を締めつける。
車庫から車を出し、
猛スピードで、両親の会社へ向かった。
――そこにも、誰もいなかった。
街から人が消えている。
異様な空気。
不気味な風。
そして――
なぜか、ずっと耳元で聞こえる「誰かの声」。
スマートフォンを見ると、
連絡先はすべて消えていた。
電話ボックスから電話をかけても、
誰一人として、つながらない。
……ただ、一人を除いて。
⸻
電話がつながった、その相手。
それは、
親友アナ・コーリンの彼氏――
ユージーン・マキシムだった。
なぜ、彼だけにつながったのか。
なぜ、私は彼に電話をかけたのか。
今思えば、すべてが不自然だった。
ユージーンは言った。
「この不可解な状況は、俺たちの影響だ」
「そして、俺たちは――
問題を解決できる、残された“英雄”なんだ」
正直、
何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
――ドラッグでもやっているんじゃないか。
そう思ったほどだ。
私は電話を切り、車に乗った。
もしかしたら、
両親が家に戻っているかもしれない。
だが――
家のどの部屋を探しても、誰もいなかった。
私は、覚悟を決めた。
ユージーンに、会うしかない。
⸻
彼の家の近くまで車で行くと、
ユージーンは家から飛び出し、
大きく手を振っていた。
車を降りた瞬間、
彼は駆け寄り、私を強く抱き寄せた。
そして――
私の顔を見るなり、泣き出した。
鼻を突く、強い酒の匂い。
私はただ、
一刻も早く、離れたかった。
――この男は、本当に味方なのだろうか。
ユージーンの家の前で、
私は彼から一歩、距離を取った。
泣きじゃくる彼の肩は、小刻みに震えている。
その姿は、どこか子どもじみていて、
同時に――異様だった。
「……落ち着いて」
そう言った私の声は、
自分でも驚くほど冷静だった。
ユージーンは、
赤く腫れた目で私を見上げる。
「君は……大丈夫なんだな」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「“大丈夫”って、何が?」
私がそう聞くと、
彼は一瞬、言葉に詰まり、
視線をそらした。
「……時間、止まってるだろ」
私は、息をのんだ。
「……なんで、それを」
「やっぱりか」
彼は、確信したようにうなずいた。
「俺もだ。
目を覚ましたら、世界が止まってた」
風が吹いているはずなのに、
木々は動かない。
遠くで止まったままの車。
空中で静止した鳥。
この異常な世界を、
“共有している人間”が、目の前にいる。
それが、
私をさらに不安にさせた。
「じゃあ……アナは?」
その名前を口にした瞬間、
ユージーンの表情が凍りついた。
「……アナは、いない」
その言葉は、
あまりにも、軽く――
あまりにも、残酷だった。
「いないって……どういうこと」
「消えたんだよ」
彼は、淡々と言った。
「この世界に残ってるのは、
俺と君だけだ」
嘘だ。
そんなはず、ない。
そう思おうとしたのに、
胸の奥で、
何かが静かに崩れ落ちていく音がした。
「……残された英雄、って言ってたよね」
私の声は、震えていた。
ユージーンは、ゆっくりと笑った。
その笑みは、
安心させるものではなく――
どこか、歪んでいた。
「選ばれたんだよ、シセル」
「俺たちは、“外側”に出た」
「時間も、人間も、
全部置き去りにしてな」
私は、後ずさった。
この男は、
何かを知っている。
そして同時に、
何かを隠している。
「……私、帰る」
そう言って、車に向かおうとした瞬間。
ユージーンの声が、背中に刺さった。
「逃げても無駄だ」
「この世界に、出口はない」
私は、振り返った。
「じゃあ……未来は?」
問いかける私に、
彼は静かに答えた。
「それを決めるのが――
君なんだよ」
⸻
ユージーンは、
私の沈黙を“同意”だと勘違いしたらしい。
「来いよ」
そう言って、
彼は何のためらいもなく背を向けた。
――私は、ついていった。
信用したわけじゃない。
助けを求めたわけでもない。
ただ、
この男が何を企んでいるのかを知る必要があった。
街は、死んでいた。
信号は赤のまま。
スーパーの自動ドアは、半開きで止まっている。
空気は、重く、濁っている。
「なあ、シセル」
ユージーンが、やけに軽い口調で言った。
「この世界さ、
俺たちの思い通りになるんだ」
私は、足を止めた。
「……どういう意味?」
彼は振り返り、
ポケットからナイフを取り出した。
次の瞬間。
――ナイフは、空中で止まった。
落ちもしない。
回転もしない。
ただ、
そこに“固定”されている。
「時間が止まってるからな」
彼は、楽しそうに笑った。
「物も、人も、運命も。
全部、動かせる」
嫌な予感が、
背骨を這い上がった。
「……それで?」
私がそう言うと、
ユージーンは一歩、近づいた。
「だから俺は――
この世界で“王”になれる」
その言葉を聞いた瞬間、
私は確信した。
この男は、危険だ。
だが同時に――
利用価値がある。
「アナは?」
もう一度、私は聞いた。
ユージーンは、
一瞬だけ、視線を逸らした。
……ほんの、一瞬。
「最初の“失敗作”だ」
その言葉で、
すべてがつながった。
「あなた、
彼女を“試した”のね」
私の声には、
怒りも、悲しみもなかった。
ただ、
冷たい理解だけがあった。
「時間の外に出られるかどうか」
「適性がなきゃ、消える」
ユージーンは、
まるで実験結果を語るように言った。
「……じゃあ私は?」
私がそう尋ねると、
彼は、にやりと笑った。
「成功例」
――その瞬間。
私の中で、何かが完全に切れた。
私は、
“選ばれた側”ではない。
“飼われる側”にされかけている。
「ねえ、ユージーン」
私は、静かに微笑んだ。
「あなた、勘違いしてる」
彼は、眉をひそめる。
「何をだ?」
「この世界で――
動かせるのは、あなただけじゃない」
次の瞬間。
彼の背後で止まっていた車が、
音もなく、浮き上がった。
ユージーンの顔から、
血の気が引いた。
「……なに、これ」
「私も、“外側”なの」
私は一歩、前に出た。
「でも――
あなたみたいに、
世界を“おもちゃ”だとは思わない」
彼は、後ずさる。
「待て、話が違う……!」
「ええ」
私は、淡々と答えた。
「だから――
あなたは、もう“仲間”じゃない」
車が、
彼の足元に叩き落とされた。
悲鳴が、
静止した街に、虚しく響いた。
私は、彼を見下ろした。
恐怖に歪んだ顔。
震える手。
――ああ。
この男は、
最初から“カモ”だった。
「教えて」
私は言った。
「この世界の“出口”を」
「言わなければ?」
彼の喉が、ひくりと鳴る。
私は、微笑んだ。
「時間を――
あなたから、剥がす」
その瞬間。
世界が、わずかに歪んだ。
空中に浮いていたはずの車は、
音もなく――
地面に戻っていた。
私は、瞬きをした。
……あれ?
胸の奥が、
ひどく冷えた。
ユージーンは、
倒れてなどいなかった。
普通に立っている。
少し距離を取って、
こちらを見ている。
「……シセル?」
彼の声は、
さっきまでと違っていた。
震えていない。
怯えていない。
ただ――
現実的すぎるほど、落ち着いている。
「どうした?」
私は、息を整えようとした。
「……今、あなた……」
言葉が、続かない。
頭の中で、
何かが食い違っている。
ユージーンは、
ゆっくりと両手を上げた。
「落ち着け」
その仕草が、
あまりにも“慣れて”いて――
胸がざわついた。
「また、か」
彼は、
小さく、そう呟いた。
「……また?」
私が聞き返すと、
彼は一歩、後ずさった。
「シセル」
低い声だった。
「君、
自分が何を考えたか――
覚えてるか?」
頭痛が、
一気に強くなる。
止まっていたはずの時計が、
背後で――
かちり、と音を立てた。
私は、振り返った。
動いている。
世界は、
止まっていなかった。
車も、人も、鳥も。
すべて、
普通に動いている。
「……嘘」
私は、膝から力が抜けた。
ユージーンは、
私を見下ろしていない。
ただ、
距離を取って、警戒している。
「医者から、聞いてる」
彼は言った。
「妄想性障害」
その言葉が、
刃物みたいに、突き刺さる。
「強いストレス下で、
現実と想像の境界が崩れる」
「君は――
“選ばれた”と思い込む」
私は、首を振った。
「違う……
時間は止まってた……」
「止まってない」
即答だった。
「止まってたのは、
君の認識だけだ」
その瞬間。
――理解してしまった。
この街から人が消えたんじゃない。
私が、
見えていなかっただけ。
「……じゃあ、アナは?」
私は、縋るように聞いた。
ユージーンは、
一瞬だけ、沈黙した。
その沈黙が、
何よりも重かった。
「……彼女は、現実だ」
その言葉に、
背筋が凍る。
「そして――
殺された」
空気が、
一気に冷えた。
「……誰に?」
私の声は、
自分のものじゃないみたいだった。
ユージーンは、
私をまっすぐ見た。
「連続殺人事件」
「まだ、犯人は捕まってない」
彼は、
静かに続けた。
「そして――
君が“時間が止まった”と感じ始めた頃から、
被害は、止まってる」
私の喉が、
ひくりと鳴る。
「……それって」
「違う」
彼は、はっきり言った。
「君じゃない」
その言葉が、
逆に怖かった。
「犯人は、
俺だ」
――世界が、音を失った。
「君は、
何度も俺を“化け物”に仕立てた」
「支配者にして、
英雄にして、
最後は――倒す存在にした」
ユージーンは、
悲しそうに笑った。
「それが、
君の心の“防衛”なんだ」
私は、後ずさった。
「近づくな……」
「大丈夫」
彼は、立ち止まった。
「俺は、
君を殺さない」
「君は――
俺にとって“唯一の目撃者”だから」
その言葉が、
何よりも恐ろしかった。
妄想か。
現実か。
英雄か。
獲物か。
――私は、
どっちなんだ?