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芙月みひろ
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数日後、出社すると、システム部内はものものしい雰囲気だった。
札幌本社から派遣されたという「特別監査チーム」がフロアを徘徊し、部長は顔を真っ青にしている。
「春川……お前、一体何をやらかしたんだ? 専務から直々に呼び出しだぞ」
部長の震える声に、僕は自身の脳内サーバーをフルスキャンした。仕事のミスか? いや、直近のデバッグは完璧だ。……ならば、答えは一つしかない。
(……あの、『エレベーター事件』だ……!!)
復旧した瞬間の数秒間、防犯カメラに映っていたのかもしれない。
僕は「コンプライアンス違反」での解雇を覚悟した。
「……部長。もしもの時は僕のデスクにある私物、処分しておいてください。」
「春川!? お前、遺言みたいなこと言うなよ!」
重役フロアへ向かうエレベーターの振動が、処刑台へ昇る音に聞こえる。扉が開くと、そこには氷のような美貌の秘書が立っていた。
「春川さんですね。専務がお待ちです」
重厚な扉を前に、僕は覚悟を決めた。
(よし。クビになったら、実家の水道屋を継いで汗水垂らして働こう……!)
扉をノックする。
「……入れ」
地響きのような、聞き覚えのある重低音。
都内の夜景を一望できる広大な空間。その主が、重厚な革張りの椅子をゆっくりと回転させた。
「……ようやく来たか、ゴボウ」
「……っ!? お、お、お義父さん!?」
そこに座っていたのは、北海道で僕を一升瓶の海に沈めた「北のヒグマ」、白石大五郎その人だった。
仕立てのいい紺色の三ピーススーツを纏ってはいるが、放たれる殺気は数倍に増幅されている。この会社の最高責任者が、彼女の父親……?
「驚くことはない。……ひよりは内緒にしていたようだがな。あいつは身内のコネを嫌う」
大五郎さんがサングラスを外し、鋭い眼光を射抜くように向けてくる。僕は反射的に、ポケットから用意していた『退職願』をデスクに滑らせた。
「……白石専務。エレベーターの件、誠に申し訳ございませんでした。責任を取って、辞めます」
「エレベーター? 何のことだ?」
大五郎さんは僕の退職願を一瞥もせず、代わりに一束の分厚い、黄ばんだ紙の束を僕の前にバサッと置いた。
「春川、貴様に新しい業務を与える。我が社の基幹システム、通称『ラビリンス(迷宮)』だ。これを三ヶ月以内に全面刷新し、札幌本社と完全統合させろ。……これが、貴様への最終試験だ」
提示された資料を捲り、僕は戦慄した。
そこにあるのは、論理的な設計図ではない。お義父さんが現場時代に「筋力と根性」だけで組み上げたという、複雑怪奇な独自コードの羅列。
コメント欄には「ここは気合で動く」「筋肉を信じろ」「理由は不明だが動く」といった言葉が並び、マニュアルは一切存在しない。理系SEの常識が通用しない。
「統合に失敗すれば、我が社の全機能は停止。貴様はクビだ。……もちろん、ひよりとの結婚など、夢のまた夢と思え」
「……なっ……」
「だが、やり遂げれば……。俺は貴様の『器』、認めざるを得んだろうな」
大五郎さんは、不敵にニヤリと笑った。
「……承知いたしました。……完遂してみせます」
こうして、僕の人生で最も過酷な、そして最も熱い、「仕事」と「恋」のデスマーチが幕を開けた。
***
誰もいない深夜のビル管理室。定年を控えたおじいちゃん警備員は、茶菓子を手にふっと目尻を下げた。
モニターの再生ボタンを押すと、非常灯の薄明かりの中で睦み合う若い二人の姿が映し出される。
「ほう……最近の若者は情熱的じゃのう。まるで昭和の映画スターのようだわい」
陽一のネクタイを強引に引き寄せるひよりの姿に、おじいちゃんは「ヒューッ」と小さく口笛を吹く。
陽一が「コンプライアンス違反」で戦慄した映像は一人のおじいちゃんの個人的な『お宝名場面集』として、大切保存され、秘匿されていたのである。
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