テラーノベル
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東京、渋谷区のオフィス。エアコンの駆動音だけが淡々と響く静かなシステム部のフロアで、陽一は一人、モニターの青白い光に顔を照らされていた。
彼の目の前にあるのは、札幌本社から送り込まれた「呪物」――通称「迷宮(ラビリンス)』。専務こと、白石大五郎が現場時代に「気合」と「筋肉」だけで書き上げたという社内基幹システムだ。
(……なんだ、このコードは。バグが起きないのが奇跡だぞ……)
陽一はこめかみを強く押さえた。 通常のプログラムは、論理的な分岐(If-Then)の積み重ねで構成される。
しかし、大五郎のコードは違う。「ここは動くはずだ!」「止まったらスクワットしろ!」といった、整然とした現代の理論を嘲笑うかのような、強引で野蛮な――さながら巨岩を素手で積み上げた「城塞」のような古い仕組みだった。
「……くっ、ここはこう繋がっているのか……」
陽一は額に浮いた汗を拭い、無意識にシャツの袖を捲り上げた。
その瞬間、フロアのあちこちで「……っ」と女子社員たちが息を呑んだことに、彼は気づかない。
昼は通常業務に加え、基幹システム統合の準備、そして夜は大地(白石さんの兄)との過酷なトレーニング。覚悟を決めた彼の身体は、劇的な変貌を遂げていた。
捲り上げられたシャツの腕からは、前腕の筋肉が浮き出し、最近窮屈になったワイシャツは、厚みを増した大胸筋によって張り詰めていた。
「……ねえ、見て。春川さんって、あんなに筋肉あったっけ?」
「あの前腕、やばくない……?」
女子社員たちの間で、さざ波のような噂はあっというまに広がった。
しかし、当の陽一は絶望の淵にいた。
(まずい……。みんなが僕をジロジロ見てる。きっと、お義父さんのコードを解読できずに手間取っている無能さを監視されているんだ……!)
陽一は顔を青くして、さらにタイピングの速度を上げた。
噂を聞きつけて、用もないのにシステム部のフロアまで様子を見にやってきたひよりは、陽一に向けられる女子たちからの視線に気づき、カモフラージュ用の書類をぐしゃっと握りしめた。
(……なん……なんなの、あの野良猫(女子社員)たちの視線は……!私だけの陽一さんを卑しい視線で勝手に鑑賞してる!!)
心は、嫉妬で荒れ狂っていた。
私にとって、陽一さんは唯一無二の「専属モデル」であり、誰にも触れさせてはならない「神聖な受け」なのだ。かつては「優しいけど、ちょっと頼りないSE」だったはずの彼。
それが今や、白石家の「猛獣」(父や兄)たちの手によって、物理的な説得力を備えた「最強の個体」へとアップデートされている。
(陽一さんが私好みに育ってくれたのは嬉しけど、それをみんなに見られるのは嫌!……。あの逞しい前腕を、あんな無防備に晒すなんて……。陽一さんは、永遠に私だけのものなのよ!)
その時だった。一人の女子社員が、意を決したように彼に近づいた。
「春川さん、あの……。もしよければ、今日のお昼、一緒にどうですか? 美味しいお店を見つけたんです」
私の脳内に、警報音が鳴り響く。だが、陽一は画面から目を離すことなく、低く、しかし凛とした声で応えた。
「すみません。今、彼女のために必死なんです。……一刻も早く、期待に応えられるように『形』にしなきゃいけないので」
陽一が意図したのは、もちろん「大五郎から課されたシステム移行の納期」のことだ。しかし、この言葉はフロアに「究極の愛妻家宣言」として響き渡った。
「『白石さんのために』……! あんなにかっこいいのに、一途なんて最高すぎる……」
女子社員たちは感動の溜息を漏らす。だが、私の心は晴れなかった。
(陽一さんは、私の知らないところで、勝手に『みんなの陽一さん』になろうとしてる……! 世界中の誰にも、あの筋肉の一筋すら見せたくない……!)
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芙月みひろ
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