テラーノベル
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海の底は、思っているよりも静かだ。
音がないわけじゃない。
ただ、すべてが遠くて、やわらかくて、世界が水に溶けているみたいに曖昧になる。
だから――その音だけは、はっきり聞こえた。
船が軋む音 風が帆を裂く音。
そして、誰かの笑い声。
僕は、浮かび上がる。
水面に近づくほど、光が増えていく。
眩しくて、少しだけ怖い。
それでも――見たかった。
人間を。
ずっと、禁止されていた存在。
近づけば、戻れなくなると言われていた世界。
水面から顔を出した瞬間
夜の空気が肌を刺した。
冷たい。
けれど、それ以上に――綺麗だった。
「……あ」
声が、漏れた。
甲板に立っていた
ひとりの男と 目が合ったから。
黒い髪が風に揺れていた。
月明かりに照らされて
その横顔がやけに綺麗で。
笑っていた。
誰かに向けて。
僕じゃない、誰かに。
それなのに、どうしてか。
胸が、苦しくなった。
息ができない。
ここは水の中じゃないのに
溺れているみたいだった。
男は気づかない。
当然だ。こんな暗い海の中、俺の姿なんて見えるはずがない。
それでも、目が離せなかった。
笑う顔も。 誰かに触れる指も。
すべてが――眩しすぎて。
知らない感情が、胸の奥に沈んでいく。
これは、なんだろう。
痛いのに、目を逸らせない。
苦しいのに、もっと見ていたい。
その時。
空が、裂けた。
雷が落ちたかと思うほどの閃光と、遅れてやってくる轟音。
風が荒れ、波が牙を剥く。
船が大きく傾いた。
「――っ!」
人間たちの悲鳴。 木が折れる音。
海に投げ出される影。
気づいた時には、もう体が動いていた。
考えるより先に、泳いでいた。
沈んでいく人影の中から、あの男を探す。
いた。
水の中で、もがいていた。
さっきまで笑っていた顔が、歪んでいる。
息を求めて、必死に手を伸ばしている。
届かない。
ここは、僕の世界なのに。
なのに――
僕は、彼を抱き寄せた。
腕の中で、体温があった。
人間は、こんなにも温かいのかと、驚くほどに。
重い。 脆い。
壊れそうだ。
それでも離せなかった。
水面へと引き上げる。
何度も波に叩かれながら、それでも。
やっとの思いで、岩場へと辿り着いた。
彼を寝かせる。
胸が上下しているのを確認して、少しだけ安心する。
目を閉じたまま、動かない。
人工呼吸をした。水を抜くために。
ただの人工呼吸のはずなのに――
僕は妙に意識してしまった。
長い睫毛。 濡れた髪。
触れれば壊れそうなほど、静かだった。
「……」
手が、伸びた。
頬に触れる。 温かい。
それだけで、胸が締め付けられた。
どうして。
どうして、こんなに――
胸がざわつくのだろう。
会ったばかりなのに。
名前も知らないのに。
それでも、もう。
離れたくないと、思ってしまった。
その瞬間。
彼の瞼が、わずかに震えた。
「……っ」
目が、開く。
暗い海と、月明かりの中で。
確かに――目が合った。
時間が、止まったみたいだった。
何かを言おうとして、口が動く。
でも、言葉は出ない。
俺はただ、見つめることしかできなかった。
彼の瞳に映る、自分の姿。
人間じゃないそれを、彼は――
理解する前に 意識を失った。
再び、瞼が閉じる。
「……起きて」
言葉が、喉に引っかかる。
声は出ているはずなのに、届かない気がした。
怖い。
このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。
せっかく触れられたのに。
せっかく―― 見つけたのに。
遠くで、足音がした。
人間の声がする。 仲間だろう。
ここに来る。
「……」
僕は、彼から手を離した。
離したくなかった。
でも――
ここにいてはいけない。
知っている。
僕は、人間の世界に触れてはいけない存在だ。
それでも。
最後に、もう一度だけ。
顔を近づける。
息が触れる距離。
ほんの少し、躊躇って。
それでも―― 額に、触れた。
唇から。
それが何かも、よくわからないまま。
「……また」
言葉にならない声で呟く。
届かないとわかっていても。
それでも、願ってしまった。
また、会いたいと。
海へと沈む。 光が遠ざかる。
彼の姿が、見えなくなる。
胸の奥に、何かが残ったまま。
名前も知らない感情が、深く沈んでいく。
きっとこれは――
触れてはいけないものだった。
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