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あの夜からずっと。
胸の奥が、静かに痛んでいる。
海の中は変わらない。
光は揺れて音は遠くて
すべてが穏やかなまま。
なのに、自分だけが――
少しだけ、壊れてしまったみたいだった。
何もしていないのに、息が苦しい。
何もないのに、誰かを探してしまう。
あの人を。
名前も知らない、人間を。
「……また、会いたい」
呟いた声は、水の中に溶けて消えた。
届くはずがない。
わかっているのに。
それでも、願ってしまう。
その時だった。
「――叶えてあげようか」
声がした。
水が、歪む。
暗い影が、ゆっくりと形を成す。
長い髪。
人ではない気配。
けれど――同じ“海のもの”
「……だれ」
問いかけると、影は笑った。
「願いを持つ者に、名は必要?」
近づいてくる。
逃げなければいけないと、本能が告げていた。
けれど、体が動かない。
「人間に会いたいんだろう?」
「……っ」
図星だった。
何も言えない。
肯定してしまっている。
「陸に上がりたいんだろう?」
心臓が、強く打った。
そんなこと―― 考えてはいけない。
叶うはずがない。
それでも
“もしも”が、頭を離れない。
「方法は、あるよ」
囁く声は、やけに甘かった。
逃げるべきなのに。
それでも、耳を塞げない。
「ただし、対価がいる」
「……なにを」
水の中なのに、 喉がひどく乾いた気がした。
影は、少しだけ楽しそうに目を細める。
「君の声だ」
世界が、止まった。
「その綺麗な声。全部、もらう」
「……声、を……?」
「そう。歌えなくなるし、話せなくなる」
さらりと言う。
まるで、大したことじゃないみたいに。
「でも安心して。その代わりに足をあげる。」
影の指が、水をなぞる。
「人間の足。陸で歩ける体」
それは――
夢みたいな話だった。
篝火

79
あの人のいる世界に行ける。
触れられる。 隣に立てる。
同じ空気を吸える。
「歩くたびに、痛むけどね」
影は、笑った。
「骨が軋むような痛み。裂けるみたいな感覚」
軽く言う。
「それでも、進める?」
「……」
答えは、もう決まっていた。
痛みなんて、どうでもいい。
声だって。
言葉なんて、なくても。
どうせ――
あの人は、俺を知らない。
あの夜、助けたことも。 触れたことも。
全部、なかったことになる。
だったら、 せめて――
そばにいたい。 それだけでいい。
「……いい」
言葉にした瞬間、少しだけ震えた。
でも、止めなかった。
「声、あげる」
影が、嬉しそうに微笑む。
「いいね。そういうの、好きだよ」
指が、喉に触れた。
冷たい。
「最後に、ひとつだけ」
「……?」
「その人間、君を選ぶとは限らないよ?」
心臓が、強く跳ねる。
「他の誰かを愛するかもしれない」
知ってる。
そんなこと、わかってる。
「それでも?」
試すような声。
けれど。
僕は――
「……それでも、いい」
嘘だった。
本当は、よくない。
選ばれたい。 見てほしい。
名前を呼んでほしい。
でも
それ以上に。
そばにいたいと思ってしまった。
それだけで、十分だと。
自分に言い聞かせた。
「契約成立」
影の声が、静かに響く。
次の瞬間。
喉に、焼けるような痛みが走った。
「――ッ!!」
叫んだはずなのに、音にならない。
何かを、引き抜かれる感覚。
声が。
自分の一部が、消えていく。
苦しい… 痛い、 怖い
それでも――
やめるなんて、思えなかった。
やがて、痛みが収まる。
代わりに、 何も出なくなった。
「ほら」
影が、満足げに笑う。
「これで君は、何も伝えられない」
喉に手を当てる。 声が、ない。
本当に、なくなっている。
「でも、いいでしょ?」
水が、光を帯びる。
「会いに行けるんだから」
体が、変わっていく。
尾が裂ける。
骨が組み替わる。
痛みが、全身を走る。
それでも
意識の奥で、ただひとつだけ。
あの人の顔を思い浮かべていた。
名前も知らない。
それでも、確かに――
好きになってしまった人。
(……会える)
声は、もうない。
それでも
この想いだけは、消えなかった。
次に目を開けた時、 そこは海じゃなかった。
冷たい砂の上。
波が、足元を撫でていく。
足。
本当に――足があった。
立ち上がろうとして、すぐに崩れ落ちる。
「――ッ」
痛い。 想像以上に。
骨が軋む。
裂けるみたいに、痛む。
それでも
這うようにして、前に進む。
陸へ。 光のある方へ。
そして
「……っ」
見つけた。
あの人だ。
浜辺に立っていた。
無事だった。
ちゃんと、生きていた。
胸が、いっぱいになる。
駆け寄りたいのに、足が言うことを聞かない。
それでも、手を伸ばす。
届かない距離。
それでも――
彼が、こちらに気づいた。
「……誰だ」
低い声。
警戒と、戸惑い。
当然だ。
知らない男が、倒れている。
何も話せない、奇妙な存在。
それでも。
彼は近づいてきた。
手が、触れる。
あの夜と同じ温度。
「……お前」
彼が、少しだけ眉を寄せる。
「どこかで……」
期待が、胸を刺した。
思い出してくれるかもしれない。
あの夜のこと。僕 のこと。
けれど
「……いや、気のせいか」
あっさりと、否定された。
心が、静かに沈む。
やっぱり 届かない。
最初から、わかっていたのに。
「……喋れないのか?」
問いかけられる。
答えようとして、口を開く。
でも、 何も出ない。
音がない。
「……そうか」
彼は、それ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑う。
「行くあて、ないんだろ」
その言葉に、頷くことしかできない。
「なら、来い」
差し出された手。
あの夜、掴めなかったもの。
今、ようやく届く距離にある。
震える手で、掴む。
温かい。
それだけで、涙が出そうになる。
でも――
声は出ない。
名前も呼べない。
想いも、伝えられない。
それでも
この手を、離したくないと思った。
――それが、すべての始まりだった。
届かない恋の。
壊れていく関係の。
取り返しのつかない、選択の。