テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
承和六年(八三九年)水無月(六月)…
四年前に空海が虚ろとなり、淳和上皇が崩御する一年前のことである。
場所は、雨上がりの東寺…
境内の池のほとりに、一人の青年がうずくまっている。
高貴な衣を身に纏っているにも関わらず、その衣が、泥にまみれることも気にせずに、何かに見入っているその姿は、まるで童のようだ。
「何を見ておるのだ」
驚いた青年が顔を上げると、いつの間に現れたのか、白髪白髯にボロを纏った物乞いが、高貴な青年を見下ろしていた。
だが、青年は物乞いを無視して、すぐに俯いてしまう。
「何じゃ、物乞いと語る口など持たぬと申すのか?」
その言葉に、再び顔を上げた青年は、悲しい表情で首を振る。
不審に思った物乞いが、別の問いを投げ掛けてみた。
「何じゃ、病で声が出せぬのか?」
また、青年が首を振る。
「分かった。
では、無理に話さずともよい。
ワシが、お主の心を読むので、それで語り合おうではないか」
青年は、不思議そうに物乞いを見つめている。
物乞いが、独り芝居のように語り始めた。
「何故、口をきかぬのじゃ?」
「なに、なに…
ほう。母君から、母君と乳母(めのと)以外とは、口をきいてはならぬと言われておるのか」
この言葉に驚いた青年は、まるで童のように、口をポカンと開けながら物乞いを見つめてしまう。
「何故、口をきいてはならぬのじゃ?」
「なに、なに…
そなたは、前世の呪いによって、穢れつきとなり、言葉がままならぬとな」
それを口にしたとたん、物乞いの表情がわずかに険しくなる。
「みそらまる…」
物乞いが、ポツリと呟いた。
「お主は何者じゃ?」
その問いに対する答えに思い至ったのか、物乞いの顔に驚きが広がっていく。
「何と、お主は恒貞親王なのか…
大きくなられたのう」
恒貞親王は、まだ、呆けたように口を開けたまま、物乞いを見つめている。
S.T.M.yo
1,913
131
1
90
「されど、なにゆえ、このような場所に独りでおるのじゃ?」
「なに、なに…
蟻が働くさまを見ておったとな…
違う、違う。そうではない。
何故、東寺におるのかと聞いておるのじゃ」
「なに、なに…
なるほどのう。そうであった。
大伴(おおとも・淳和上皇の諱)は、病であったな。
では、淳和上皇の病平癒に参っておったか…
されど、なにゆえ独りなのじゃ?」
「なに、なに…
舎人も乳母も、お主を境内に置いてどこぞに行ってしもうたとな…
愚か者どもめ」
すると、慌てた恒貞親王が首を振りながら立ち上がる。
「なに、なに…
舎人や乳母を叱らないでくれと。
私が、うつけなのが悪いのですとな…」
物乞いは、しばらくその場に立ち尽くしてしまう。
さきほどまでの威厳はなりをひそめ、その姿は、まるで道に迷うた童のようだ。
恒貞親王が心配そうに、物乞いの顔を覗き込む。
それに気付いた物乞いは、気を取り直して、恒貞親王に語りかける。
「では、しばしワシと語り合おうぞ」
すると、恒貞親王が満面の笑顔で頷いた。
「蟻が働くさまを見るのは楽しいか?」
また、恒貞親王が笑顔で頷く。
そうか、そうか、と頷いた物乞いが、遠くに目をやりながら語り始めた。
「大昔、ワシにも子がおった。
お主と同じように、前世の穢れを背負うて生まれてきた子じゃ。
名を海空丸(みそらまる)というてな、それはそれは、素直で良い子であった。
されど、愚かなワシは、体面を気にするあまり、海空丸を死に追いやってしもうたのじゃ。
いや。ワシが殺したというても過言ではない。
そして、逃げるように唐に渡ったのじゃ。
お主は、唐を知っておるか?」
恒貞親王は、素直に首を振る。
「幾万もの波濤を超えた先にある、遠い遠い異国じゃ。
ワシは、そこで密教と医術を学んだ。
そして、知ってしまったのだ。
地位や財を守らんがため、近き血筋で婚姻を重ねれば、いずれその報いは子に現れてしまうとな…
誠に浅ましきことじゃ。
海空丸は、決して穢れてなどおらんかった。
むしろ、穢れておったのはワシらの方じゃとな…
お主も同じじゃ。
あれを見よ」
そう言って、物乞いが指差した池には、美しい蓮の花が咲き誇っていた。
恒貞親王が蓮の花に目を向けて、それから、問いかけるように物乞いを見る。
「蓮の花はな、醜き泥に根を張りて、美しき花を咲かす。
ワシも含め、この世は、欲にまみれた醜き泥なのじゃ。
その中にあって、海空丸は、清らかに咲き誇る美しき蓮の花であった。
お主も同じじゃ。
己が醜き泥なのを棚に上げ、お主らを、穢れだ、うつけだと申す者など放っておけばよい。
所詮は、醜き泥の戯言にすぎぬ」
その言葉が終わらぬ内に、恒貞親王は、まるで童のように、物乞いに抱きついて泣き始めた。
「よし、よし…
美しき蓮の花が、醜き泥の中で生きるは、さぞ辛かろう」
恒貞親王は、物乞いのボロに顔を埋め、声を押し殺して泣き続ける。
「実はのう。
このようななりをしておるが、ワシは神なのだ…」
その言葉を聞いた途端、恒貞親王は涙を流しながら、まじまじと物乞いの顔を見つめる。
「嘘ではない。
ワシはな、雨神(うじん)という雨を降らせる神なのだ。
されば、お主の願いを一つだけ叶えてやろう。
何が望みだ?」
すると、恒貞親王が真剣な顔で、雨神の顔を覗き込む。
「なに、なに…
帝にはなりたくないのか?
そうか。そうであろうな。
そして、緑多き地で、母君と共に、虫を追い、花を愛で、鳥のように、風のように、心のままに生きたいと申すか…
分かった。
その願い、この雨神が叶えてしんぜよう。
たとえ、そのために醜き泥を幾人殺めることになろうともな…」
ー完ー
コメント
5件

泣けたぁぁぁぁ😭😭😭😭 素敵なお話でした!!! ありがとうございました!
わあっ、完結おめでとうございます…!!😭💕 最終話、恒貞親王と物乞い(もしかして空海…?)の出会いの場面、切なくて美しすぎました。「蓮の花は醜き泥に根を張りて美しき花を咲かす」って言葉がずしんと響いて…。前世の穢れに苦しむ少年と、同じ子を亡くした老人の心の交流に涙が出ました。帝になりたくないって願う親王の純粋さも愛おしい…。最後の願いを叶えるための不穏な一言も気になる締めくくりで、余韻がすごいです!素晴らしい物語をありがとうございました🌸✨