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新しくやって来た小児科医の診察室では泣いている子供がいれば顔を見せるだけで泣き止むと、病院内に嘘か誠か絶妙なバランスの噂が流れるようになり、その噂の主は聞かされる度に嬉しいことだが複雑だと肩を竦めていた。
子供の診察時、泣き叫ばれるよりは笑ってほしい一心から子供を泣き止ませるスキルを磨いてきたのだが、それが役に立っているのかなと、外来の診察室で看護師を見上げて問えば、もちろんと満面の笑みで返される。
それは良いことなのかと呟いたとき、今日の午前の診察終わりの時間を迎えた事に気付き、椅子を軋ませて立ち上がる。
今日は午後から市内の小児科医が集まり会合があり、あまり乗り気ではないがそちらに顔を出さなければならなかった為、一日一食の自炊のランチを持ってこなかったのだ。
「病院のカフェでおススメはあるかな?」
いつも利用しているだろう看護師に問いかけた彼、リアムは、日替わりランチがお得ですが、先生の身体に見合った量があるかどうかは分かりませんと苦笑されて同じく苦笑を返す。
身体を鍛えることは趣味の域を通り越してもはや日常のルーティーンに組み込まれているが、だからと言って大食いをするわけではないのにと自覚する食事量と他者から見たそれの差異になかなか気付かないリアムが不思議そうに首を傾げつつ診察室を出ると、ランチに向かうスタッフや診察を終えた患者やその家族らがフロアを行きかっていて、その波をものともしない力強さで進んでいくと、スタッフオンリーの札が立てかけられている廊下に辿り着く。
この病院に勤務するようになって初めて利用するカフェだが、味はどうだろうかと一抹の不安を抱いていたリアムに背後から声がかかり、顔だけで振り返るとそこにはにこやかな笑顔で手を挙げている青年がいて、つい笑顔になって身体ごと振り返る。
「ハロ、リアム。今からランチか?」
お前がこちらに来るなんて珍しいんじゃないかと笑いかけてきたのは、隣のフラットに住む同僚の杠慶一朗で、今からランチかと問いかけるとひょいと肩を竦められる。
「ランチなんだけどな…」
「どうした?」
二人が肩を並べて歩く光景はリアムが慶一朗の手術を見学したその翌日から見られるようになったもので、今では誰もそれに違和感も不満も覚えることはなく、仲が良くなったなと微笑ましい顔で見守られるほどだった。
その二人とすれ違うスタッフらが気軽に挨拶をし、二人も気軽に挨拶を返すため、他の気取った偉ぶるドクターらとは扱いが少しだけ違うのを二人も自覚していたが、偉ぶった所で手術や診察など自分だけではどうすることも出来ない事を十分理解していた。
その為、人当たりが良いと評判されるのだが、それを今も当然の顔で行った後、スタッフ専用のカフェの入口近くで慶一朗が足を止める。
「どうした?」
同じ言葉を繰り返したリアムをじっと見つめた慶一朗は、小さく首を傾げた後、何を食べればいいか分からないと呟き、リアムのヘイゼルの双眸を驚きに見開かせてしまう。
「は!?」
「・・・何が食べたいのか分からない」
「それは・・・俺にもどうすることも出来ないな」
お前の心が読めるわけじゃないからどうすることも出来ないと眉尻を下げるリアムに今度は何故か慶一朗が限界まで目を見開き、それに驚いたリアムがどうしたと三度目の問いかけをする。
「いつもお前が食べているランチが美味しそうだなと思っていたんだ」
だからそれを見て満足していたから流れでここまで来たものの何を食べればいいんだろうと呟く慶一朗の思考回路が理解できず、リアムが困惑しきった顔で頭一つ分下にある整った顔を見下ろす。
「ケイの好きなものは?」
「・・・何だろうな、腹に入れば何でも良いから、好きなものを考えた事がなかった」
「・・・」
真剣に悩む慶一朗が呟く言葉の意味が理解出来ずに今度は眉根を寄せたリアムは、もう一度言ってくれと思わず母国語で呟くと、慶一朗が首を傾げつつ腹に入れば皆同じというある意味恐ろしい言葉を同じくドイツ語で返してくる。
その言葉にリアムの脳裏に、慶一朗の手術を見学した日の夜、お近づきの印にと一緒に食事に行った時の光景が甦り、自分一人が食べていた事も思い出す。
もしかして慶一朗は食事にあまり思い入れというか意識が向かない人間なのかとの疑問を抱きつつ、どうしたと逆に問われて小さくため息を一つ零す。
「いつもは何を食べているんだ?」
「栄養補助食品」
「あれは・・・食事とは言わないと思うな」
「そうか?」
ゼリータイプであれ固形タイプであれ、ある程度腹は膨らむから食事だろうと自慢気に見上げられてもはや何も言えずに首を左右に振ったリアムは、今思い浮かんだ食べ物は何だと、まるで患者の子供に問いかけるように声に陽気さを滲ませて腰に手を当てて上体を少し屈めると、不意に近づいたリアムの顔に驚いた慶一朗が頭を少し仰け反らせる。
「・・・ベーコン」
「BLTサンドはどうだ?」
ベーコンも入っているしレタスやトマトといった野菜も入っていると笑うリアムにみるみるうちに慶一朗の顔が曇り、まさかと小さく呟けば、野菜は天敵だと小さな声で呟かれてしまう。
Oh,No、お前は一体何歳だと呟きたくなるのをグッと堪え、野菜は嫌いかと問えば、医者に止められていると同業者にあるまじき発言をさらりとしたため、どこの世界に野菜を食うなという医者がいるんだとじろりと見下ろすと、挑発するような笑みを浮かべた色素の薄い双眸が見上げてくる。
「冗談だ。・・・BLTサンドか・・・お前は何を食うんだ、リアム?」
笑みを浮かべたまま問われて咄嗟に返事に困ったリアムだったが、チキンを食べたい気分だなと笑い、入口近くで何を話し込んでいる、早く中に入ればどうだと、後からやってきた他の同僚に肩や背中を叩かれて二人顔を見合わせ、確かにそうだと苦笑しあう。
「今日は午後から小児科医の会合があるからな」
「そうなのか?」
様々な国をルーツに持つ人たちが働く病院だからか、ランチメニューはレパートリーが多く、宗教的な理由や健康上の理由などから、野菜オンリーのメニュー、特定の食材が入っていない物などが並んでいて、BLTサンドもあったため、慶一朗がそれとコーヒーを注文する。
その後ろでリアムはお望みのチキンを使った料理を探し、今週はアジアフェアと銘打った料理があり、その一つを注文する。
「アジアか・・・そういえばケイの出身は日本だと聞いたが、ここの日本料理は食べたことはあるか?」
リアムにとってその質問は先ほどの話題と同程度の意義しか持っていなかったが、問われたほうには別の重さがあったらしく、ホットコーヒーとサンドイッチを載せたトレイが傍目に分かるほど揺れ、その顔を見ればつい今し方まで浮かんでいた楽しそうな笑みや真剣に悩んでいるのか怪しい疑問に悩む顔が別人のものかと思う程無表情になっていた。
「ケイ?」
「・・・さ、あ、日本食はほとんど食べないし、ここでランチを食うのも久しぶりだからどうだろうな」
リアムには理解できない衝撃から立ち直ったように肩を竦める慶一朗にどうしたと、本日4回目の問いを発しそうになるが、気付いたことがあり、聞かないほうがよかったかと小さく問いかけると、気にするなと言わんばかりの目で見つめられる。
「・・・ほら、早く座って食うぞ」
天気もいいからテラス席に行こうと笑みを浮かべて頭を外へと傾ける慶一朗に頷いて後を追うようにテラス席に向かったリアムだったが、聞いてはいけない事だったと己の言葉を反省し、どの言葉が慶一朗の顔から表情を奪い去ったのかと考えるが、キーワードは日本だということしか理解できなかった。
仲良くなった看護師や他の同僚達からドクター・ユズと呼んで尊敬される慶一朗の出身が日本だと教わったが、プライベートな話はこちらの大学に留学し、そのまま医者になっていまに至るが日本には双子の兄がいる、その兄は日本で物理か数学か何かの教授をしているとだけ教えられたが、それ以外の話については誰も知らないと聞かされ、プライベートをあまり公表したくないのかなとしか思わなかった。
母国について大なり小なり思うことは当然リアム自身もあるが、今のような反応をする人に今まで出会ったことはなく、ただ、慶一朗の触れられたくないデリケートな話題に無意識に首を突っ込んでしまったことも気付いて反省しつつテーブルにトレイを置くと、先に座っていた慶一朗が頬杖をつきながら上目遣いに見つめてきたことに気付き、椅子を引いた手を止めて中腰で動きを止めてしまう。
「ケイ?」
「・・・日本の出身だけど、食事に興味がないから日本食がうまいかどうかは分からない」
さっきも言ったが、いつも俺が食べているのは栄養補助食品ばかりだと笑われ、確かにそういっていたと頷きつつ腰を下ろすと、だからお前がそんな顔をする必要はないと小さく呟かれて目を瞬かせる。
「そんな顔?」
「この世の罪を一身に背負ったような顔」
お人よしのマッチョマン、お前が背負うべきはお前自身の罪だけだと伏し目がちに呟かれ、その顔に無意識にリアムが息を飲む。
さっきのような、お前は何歳だと言いたくなる子供じみた言動や表情、笑顔などはリアムの目を惹きつけていたが、一瞬見た無表情と今見せられた顔は目ではなくリアムの心を鷲掴みにしたようで、端正な顔に浮かぶ全ての罪を背負ったような笑顔に拳を握ってしまう。
人には気にするな、そんな顔をするなといいながら本人がそんな顔をするのはどうなんだと問いたくなるのをグッと堪え、ありがとうと礼を言うと、心底不思議そうに見つめられるが、食べるものに興味がないと言った男にしては綺麗な指がリアムのトレイに載っているカオマンガイのチキンを一つ摘まんでいく。
「あ!」
「・・・初めて食べたけど美味いな」
己のBLTサンドに手を付ける前にリアムのランチのおかずを掠め取っていった指を舐めた慶一朗がにやりと笑い、リアムも思わず口の端を下げるが、美味しいのなら良かったと肩を竦めて気分転換するように笑みを浮かべ、今日の午後の会合について話しつつ食べ始める。
己の言葉に頷き時には疑問を挟みつつ返してくれる慶一朗だったが、結局コーヒーを飲むだけでBLTサンドの袋を破ることすらせずにランチタイムが終わり、今日は午後からはゆっくりと仕事ができると伸びをしトレイを片付けようとしたため、それは食べないのかとつい問いかけてしまい、良かったら食うかと小さく笑みを浮かべられる。
「金は払う」
「気にするな」
嫌な気持にさせたお詫びだから食ってくれと笑うその顔がリアムの脳裏に焼き付いていて、後々、何故あの時こんなにも気になったのかと振り返るまでそれは消えることはないのだった。
世界のすべての罪を背負っている、そんな言葉を聞かされるとは思わなかったリアムの脳裏に焼き付いた、罪悪感の滲んだような笑顔。
先日見たそれが忘れられなかったからか無意識に考えていたからかは不明だが、自宅の二階にあるベッドルームのベッドに日課のトレーニングを終えて汗を流し、心地良い疲労からそろそろ寝ようかと天井を見上げた時、小さな悲鳴のような声が聞こえた気がし、勢いよく飛び起きる。
この辺りの治安については引っ越してきた際に慶一朗から悪くはないと聞かされていたが、それでも時折今のように悲鳴かと思える声が遠く聞こえてくることもあった。
その声に覚えた一抹の不安から階下の全てのドアや窓の戸締りがされていることを確かめようとベッドルームのドアノブに手を掛けた時、今度は遠くではなくすぐ近くから何かが壊れる物音が響き、ドアノブを掴んだまま身体を竦めてしまう。
平和な住宅街のそろそろ真夜中になろうかという時間、突如響く破壊音は流石のリアムにも恐怖や不安を覚えさせるもので、ドアノブを握る事でその恐怖に打ち勝とうとするように手に力を込め、音が聞こえる方へと顔を向けると、その物音はベッドを置いた反対側のクローゼットの奥から聞こえているようで、隣の部屋から聞こえていることに気付き、それが意味する事にも思い当たって目を限界まで見張ってしまう。
今、破壊音が聞こえて来た壁の向こうの部屋に住んでいるのは、つい今し方までリアムの脳裏で何故考えてしまうのか理解できない笑みを浮かべていた慶一朗で、彼の部屋で何かがあったと気付くが、クローゼットの奥から聞こえてくる音は激しさを増す一方で、もしかして強盗でも入ったのかと考えた瞬間、それ以上は何も考えられなくなるほど頭に血が上り、目の裏が赤く染まる。
壁の向こうで何が起きている、どうしたんだという疑問が脳内で渦を巻き、慶一朗は無事かという言葉もその渦の中に巻き込まれて行く。
不安と心配に支配されそうになりつつも何処か冷静な己もリアムの中には存在していて、複数人が暴れているような物音ではない事、一人の人間が暴れているような雰囲気をその音からも感じ取っていて、外部からの侵入者がいるわけではないと判断をしていた。
何故慶一朗は、時折混ざる悲鳴じみた声をあげながら、物を壊す程暴れているのだろうか。
仕事ではいつでも穏やかだったりふざけたような笑みを浮かべ、同僚の医師や看護師達からも患者からも評判の良い男が、暴れなければならない理由はなんだと考えた時、ふと脳裏に浮かんでいた罪を背負った者のような笑顔がクローズアップされ、日本という単語と結びつく。
大学からこちらだと聞いたが、リアム自身もこちらのハイスクールに入学する年に親戚を頼ってドイツから一人でこの国に移住し、それ以来ドイツには不定期で帰ることしかしなくなっていた。
そもそもオーストラリアという国は移民の多い国だから出身が何処であろうと特に目立つことも無く、学校を卒業してもこちらで就職することも珍しくもなかった。
だから今まで気にすることも無かったが、もしかすると己と同じように母国に帰りにくい何かがあるのだろうか。
次第に静かになってきた破壊音を遠くに聞きながら慶一朗について己が知り得る限りの情報を脳内で組み立て、何があったんだろうなという、本人に聞かなければ理解できないという結論に達する。
その時、ドアが乱暴に開閉される音が小さく聞こえ、バタバタと階段を駆け下りる足音、そして階下で玄関と鉄のフェンスの開閉音が静寂の夜の中に響き渡り、その音に思わず首を竦めるリアムの耳に、車のエンジン音とタイヤが急発進に抗議するように上げるスリップ音が聞こえてくる。
そして、今まで響いてきた音が嘘のように静寂が戻り、呆然と何があったと呟くが、それに答えられるものなどおらず、早くなった鼓動を鎮めるために水を飲もうとようやく一階のキッチンに向かう。
冷蔵庫から取り出したボトルの水をグラスに注いで飲み、安堵の溜息をこぼしてシンクに寄りかかるように背中を預ければ、脳裏に自然と慶一朗の穏やかな笑顔が浮かんでくる。
初めて慶一朗を見かけた時に目を奪われたのは、己の患者である子供のような笑顔で、その後いくつかの笑顔を傍で見た気がするが、やはりランチタイムのカフェで見たあの笑顔が忘れられず、何故そんな顔で笑うのか、もっと屈託なく笑えるはずなのにと、いつも診察をする子供たちに抱くものと同じようで違う顔をした感情が芽生えたことに気付く。
たった今芽生えた想いに何と名付ければいいか分からないが、この日以降リアムの胸の中でひっそりと息づき、名付けられる時を待つことになるのだが、それが満開の花のように咲き誇るのはあまり遠い未来ではなかった。
だが、先のことなど予測出来るはずもないリアムは、壁の向こう、つまりは慶一朗のフラットで暴れていたのが慶一朗本人であれば、あんな大きな音が響くほど何を壊したのだろうと手の中でグラスを回転させるが、脳裏の慶一朗はただ罪悪感の滲んだ笑みを浮かべるだけで答えなど教えてはくれなかった。
「・・・あんな笑顔、見たくないな」
どうせならば初めて出会った時や手術を見学した後に見せてくれた笑顔を見せてほしいと呟き、己の言葉がどこから出てきたのかが理解できずに呆然としてしまう。
出会ってまだひと月ほど。
偶々引っ越してきた町のベーカリーで出会い、家が隣同士だと分かった次の週には職場も同じだと分かるだけではなく、仕事では尊敬できる人だと分かってまだひと月。
その間、友人と呼べる関係になり、時々飲みに出かけたりしていたが、己の心に焼き付いた、罪を背負った人の様な横顔に対して今のような想いを抱いたことなど過去の人間関係ではなかった。
何人かいた元彼女や友人達から色々な相談事をされ、それに律儀に返事をしている時でさえも屈託なく笑って欲しいと思った事などなく、友人と言ってもまだ壁があるように感じる関係の慶一朗にそう思うのは何故だと自問し、答えが出てこない質問ばかりするなと己に自嘲してしまう。
手の中で弄んでいたグラスをシンクに置き、一体何があったのか明日聞けるようならば聞いてみようと溜息交じりに呟き、そろそろ寝ないと仕事に差し支える時間であることに気付いたリアムは、胸に焼き付いた笑顔を理由もわからずに抱え込んだままベッドルームに戻り、勢いよく飛び乗って何の罪もないベッドに悲鳴を上げさせるのだった。
翌日、いつもの様に電車で病院へと出勤したリアムは、ロッカールームやカフェなどでも慶一朗と会う事が出来ず、忙しいのかそれとも避けられているのかと一瞬不安になるが、避けられる理由が思い当たらないと自嘲する。
今日の診察を全て終えてやるせない溜息を零すリアムに、一体どうしたと看護師らが心配そうに声を掛け、誰かドクター・ユズを見なかったかと問えば、今日からお休みだと聞いたと教えてくれ、思わずデスクに手をついて立ち上がる。
「休み!?」
「そう聞きました」
時々長期休暇を取る事があるがそれじゃないのかと、過去の記憶を覗き込む顔で看護師が呟いた言葉に顎に手を当てたリアムだったが、今日この後皆で飲みに行くが先生もどうだと誘われ、このまま家に帰っても何やら得体の知れないモヤモヤを胸に抱えたままだと気付き、一度家に帰ってから店に行く、集合時間と場所を教えてくれと伝え、ではまた後でと手を振って診察室を出ていく。
慶一朗が長期休暇を取っている。
その事実に何故か信じられないほど心が掻き乱され、何故と自問し、理由など分からないと自答する。
慶一朗に関する事象で心が目まぐるしく働く時、いつもは明晰なはずの脳味噌が見事なほど動きを止め、弾き出す答えは分からない、理解できないの一点張りで、今までこんな事はなかったのにと、己のことながら呆れ果ててしまう。
何故慶一朗との関係について、己が今まで経験して来た言葉で答えを導き出せないのか。
その何故という気持ちを抱えたまま病院を後にし、電車に揺られて自宅フラットに帰ろうとしたリアムだったが、冷蔵庫やパントリーの中を思い浮かべ、食材が少なくなっていることを思い出すと、駅から自宅を通り過ぎた場所にあるスーパーに長い足を向ける。
近所のスーパーはすっかり顔見知りになった店員がいて、今日は何がオススメだと問いかけながら買い物を手早く済ませたリアムは、両手でスーパーの袋を抱えて帰路につき、自宅フラットのゲートを開けて中に入る。
飲み会の集合時間にはまだ余裕があった為、一汗流してから行くかと思案しつつ階段を登り、鉄のフェンスを開けて玄関のドアに鍵を突っ込む。
その時、隣のフラットのドアが開く音が聞こえて中から人が出て来たことに気付き、今日から休みなのか、昨日夜中に随分と大きな物音がしたが何かあったのかと、病院で会えば聞こうと思っていた疑問を出て来た慶一朗に捲し立ててしまうが、どんな類の言葉も帰ってこないことから身体ごと向き直って頭一つ分下にある端正な顔を見下ろす。
「・・・・・・」
ここにいるのは慶一朗の筈だったが、いつもとは違って眼鏡を掛けていて、目が悪かったのか、いつもはコンタクトレンズを使っているのかと頭の隅で考えるが、それにしては今向かい合っている慶一朗はいつもとどこか雰囲気が違う気がし、ケイと友人付き合いを始めてから呼ぶ様になった名を短く呼べば、色素の薄い双眸が眼鏡の下で限界まで見開かれる。
今まで何度も呼んでいるのに何故そんな驚いた顔をするのか、それとも病院で考えた、己は何かお前の気に食わないことをしてしまったのかとの言葉が喉元まで迫り上がってくる。
「ケイ?」
何か言ってくれと思いつつもう一度名を呼ぶと、眼鏡の下の双眸が一瞬だけ柔らかなものになるが、望む様な言葉は一言も流れ出す事はなく、何処に出かけるのか分からないが、リアムの横を無言で通り過ぎ、階段を下って行くのだった。
小さくなるその足音を聞きながら本当に何があったと、突然無視される理由も分からずに滅多にない険しい表情を浮かべたリアムだったが、無視をされたことへの怒りよりも、慶一朗に一体何があったという、友人や元彼女達に良くも悪くもあなたは人が良すぎると言われた様に、己の心に傷をつけかねない行為をする相手の心配をしてしまうのだった。
その後、職場の飲み会に顔を出したリアムだったが、玄関前での慶一朗の態度とまるで初対面の人同士の雰囲気の理由が理解できず、また納得も出来なくて、ついついいつも以上のペースでビールを飲んでしまい、翌日、頭痛と吐き気に襲われながら激しく後悔しつつも、やはり慶一朗のことばかり考えてしまうのだった。