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緊張が途切れて、急に力が抜ける。
さっきの若菜が頭をまわる。
「なんでもない」と言った若菜の声。
車を降りた際の弱々しい笑顔。
“湊が30歳になったら……。30歳になってもまだ結婚してなかったら、どうするの?”
あれは、俺に約束を意識してほしいということなのか?
生まれた時から若菜はとなりに住んでいたけど、進学して、就職して、お互い何か月も会わない日があったこともある。
でも若菜とは心は近くにあると思えていた。
その状態から変わる。
きっと原田とどうにかなって、あいつのとなりにいる男は原田になる。
若菜に一度も「大事」だとか、そういったことを伝えたことはなかった。
言わなくても相手が感じ取れるくらいには傍にいたし、たぶん若菜もわかってくれていると思っていた。
好きとか好きじゃないとか、そういうことすら、若菜に思ったことがなかったかもしれない。
俺にとって若菜は若菜だし、わざわざ言葉にするまでもなく特別だったから。
だから……若菜には幸せになってほしい。
もし俺が若菜を幸せにできる自信があったり、もしくは幸せにできる道筋を立てられてたら―――。
「……結婚しようって、言ってた、かな」
若菜も俺も恋人がいない状態で迎えた、若菜の30歳の誕生日。
あの日俺は約束を守りたいと言おうとしていた。
でも俺は相手を幸せにできる自信がないと、言えない。
俺と結婚して笑っているところを想像できたら―――幸せだと笑ってくれると信じられたら、淀むことなく言えるけど、あいつが大切だから、なおさら。
自分と結婚して苦労させるとか、大変だと思わせるなんて―――若菜に苦労させて、結婚しなければよかった、と思われたらと思うと、怖くて凍り付いたようにその言葉が言えなくなる。
……原田は若菜のことちゃんと好きみたいだし、俺より若菜を幸せにできる。
若菜の家もきっと俺より原田とまとまるほうがいいだろう。
(でも)
でも……若菜がもし俺のことを好きでいてくれるなら……。
あいつが俺を選んでくれるなら、と思ってしまう自分もいる。
そんな考えは都合がいいのに、何度だってよぎるのは……。
「若菜が……、好きだからか」
今まで思わなかったことを心が思うと、閊えていたなにかがすとんと落ちてきたような気がした。
……そうだ。俺はあいつが好きなんだ。
“好き”なんて言葉、あいつへの気持ちに当てはまらないと思っていたけど、でも……そうなんだ。
若菜のことがすごくすごく好きだから、世の中に溢れている“好き”と同じにしたくなくて、わざとあてはめないようにしていただけなんだ。
頭の中は停止して動かない。
「俺……。若菜が好きなんだ」
声に出せば、その思いがより強く自分の中に焼き付いて、意識から離れなくなる。
でも、かといって、それだけだ。俺たちを取り巻く状況は変わらない。
「仕事、行かなきゃな……」
カーナビの時計は、控えめにだが現在時刻を知らせている。
俺はため息をついて座席に座り直した。
昼ピークを過ぎてからの出勤は久しぶりで、店長にお礼を言った後、持ち場について仕事に取りかかった。
体は楽なはずなのに、精神的にやられているからか、のしかかるような疲れが抜けない。
それでも一日の業務を終え、戸締りを確認すると店を出た。
遅番の俺は最後まで残っていたため、店長もバイトもだれもいない。
時刻は午後11時過ぎ。
スマホを見れば若菜からメッセージが入っていた。
「今日はありがとう。仕事は間に合った?」
淡泊なメッセージに、ふっと苦笑いが零れた。
若菜とのメッセージはたいていこんな感じで色気なんてないし、気心知れた相手からの、ただの連絡だ。
それでもいつも連絡が来る度、自分でも気づかないくらい小さく心が動いて、普通に返事をしていても、心の奥の奥では喜びや嬉しさを感じていた。
「間に合ったよ。そっちは?」
いつも通り淡泊に返しながら、あいつは今日どんな気持ちでいたんだろうと思う。
車に乗ってエンジンをかけようとしたところで、若菜から「大丈夫だったよ。お疲れ」と返事があった。
今自分が車の中だからか、数時間前、若菜と車内でした会話が頭をよぎる。
30歳になっても、俺がまだ結婚してなかったらどうするかを尋ねた、若菜の表情や声。
若菜に返事をしなかった俺。
あいつが車を降りていなくなった時の虚無感や、やるせなさ。
異動まではあと数日だ。
それまで俺に休みはないし、バタバタしたままここからいなくなるだろう。
若菜ともこのままでいいのかという思いが湧きあがり、その思いに押されて脇に置いていたスマホを手に取った。
若菜からのメッセージにもう一度目を通し、なにを打とうか迷う。
―――――――――――――
まだ起きてる?
―――――――――――――
送った後、変な緊張で鼓動がどんどん速くなった。頭は回らないし、変な動悸も中学生みたいで嫌になる。
一分ほどして「起きてる」と返事がきた。
鼓動は一層速くなるし、頭の中はぜんぜんまとまっていない。
でもこのままなりゆきに任せたら、きっとあっという間に数日過ぎて、俺と若菜は離れ離れになる。それは……嫌だ。
ぐちゃぐちゃの頭で通話ボタンを押すと、数秒で電子音が切れ、若菜の声が聞こえた。
「もしもし?」
若菜の声には驚きが混ざっていた。
そりゃそうだよな、と思うと、勢いで電話をかけた自分に苦笑いが零れる。
「お疲れ。今仕事終わった」
「うん、お疲れ」
努めて普通に振る舞いながら、なにを話したいのか、言える言葉は何か、自分の中で探していた。
離れたらどうなるか考えて焦っているのに、言葉は出てこない。
若菜に気楽になんでも話せていた俺はどこに行ったんだろう。
言いたいことは、言えばどうなるか考えてしまって―――今までの関係すら崩してしまいそうで、若菜と普通に話せなくなるのが怖くて、自分の中で渦を巻いている。
「あのさ」
「うん」
「木曜日、夜あいてる?」
「え?」
「仕事終わり、メシでもいかないかと思って」
木曜日は月末だ。
翌朝俺は○○県に行くけど、そのことを伝えていなくても、今月末で俺が異動なことを若菜は知っている。
元々すこし緊張気味だった、若菜から伝わってくる空気がさらに硬くなる。
その日会う約束をしたところで、俺がなにを話すかは今まだ考えられていない。
でもこのままなにもなしで、若菜と別れるのは嫌だと、それだけは思っていた。