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篝火

79
婚約者が来た日。
屋敷の空気が、明らかに変わった。
静かで、整っていて、どこか張り詰めている。
「――こちらへ」
使用人の声に導かれて、ひとりの男が現れる。
柔らかな金の髪。 穏やかな目元。
上品な立ち振る舞い。
綺麗だと思った… 思ってしまった。
悔しいほどに。
「久しぶりですね」
婚約者は、静かに微笑む。
まっすぐに――彼へと。
「ああ」
彼も、応じる。
いつもより、少しだけ落ち着いた声で。
「無事でよかった」
「そちらこそ」
自然なやり取り。
違和感なんて、ひとつもない。
まるで――
最初から、そこにある関係みたいに。
「……」
息が詰まる。 見ていられないはずなのに。
目が、離れない。
「彼が?」
婚約者が、こちらを見る。
穏やかな視線。 優しい声音。
「浜で拾った」
また、その言葉。 軽くて、簡単で。
―― 胸に、刺さる。
「そうですか」
婚約者は、少しだけ近づいてくる。
怖いわけじゃない。
でも、 足が動かなかった。
「……喋れないと聞きました」
頷く。
それしか、できない。
「大変でしたね」
その言葉は、本当に優しかった。
嘘じゃない。
だからこそ―― 苦しい。
何も奪う気なんてない人だと、わかるから。
責めることもできない。
「この方は、昔からこうなんです」
婚約者が、少しだけ笑う。
「困っている人を放っておけない」
「余計なこと言うな」
彼が、少しだけ顔をしかめる。
でも、 そのやり取りは――
どこか、柔らかかった。
自分には向けられないもの。
自分が知らない時間。 知らない距離。
―知らない関係。
全部が―― ここにあった。
その日から
“当たり前”が、変わっていく。
食事の席。
隣に座るのは、自分じゃなくなった。
向かい合って、話している。
笑っている。 視線が交わる。
それだけで、成立している世界。
そこに、自分はいない。
「……」
手が、震える。
スプーンが、かすかに音を立てた。
「どうした?」
彼が、こちらを見る。
一瞬だけ。 ほんの一瞬だけ。
その視線に、縋りたくなる。
大丈夫だと、言ってほしくなる。
ここにいていいと。
それでも 声は、出ない。
何も、言えない。
「……いや」
彼は、それ以上は何も言わなかった。
すぐに視線が戻る。
婚約者の方へ。
それが、答えだった。
夜。
眠れなかった。
胸が、うるさい。
痛い、 苦しい。
どうして、 こんなに―― 息ができない。
「……」
部屋を出る。
足が勝手に動く。
どこへ向かっているのかも、わからないまま。
ただ
気づいた時には、 彼の部屋の前にいた。
光が漏れている。 声が、聞こえる。
ふたり分。
扉に手をかける。
開けることなんて、できないのに。
それでも―― 離れられなかった。
「……無理はするな」
彼の声。
「分かっています」
婚約者の声。
穏やかで、静かで。
「あなたこそ」
「俺は平気だ」
「嘘ですね」
少しだけ、笑う気配。
「昔から、無理をする」
「……うるさいな」
そのやり取りに
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
知らない。
こんな彼、知らない。
自分の前では見せない顔。
見せてもらえない距離。
「……」
手が、扉から落ちる。
そのまま、力が抜ける。
座り込む。
音を立てないように、必死に。
呼吸が、乱れる。
苦しい。
どうして…
どうして、こんなに
欲しくなってしまったんだろう。
最初はただ、 そばにいられれば
それでいいと思っていたのに。
それだけで、満足できるはずだったのに。
今は―― それじゃ、足りない。
足りない… 足りない。
「……っ」
声が出ない。
泣いているはずなのに、音がない。
ただ、涙だけが落ちる。
静かに。
誰にも気づかれないまま。
その時。
ふと、 違和感に気づいた。
手のひらが 濡れている。
涙じゃない。
もっと―― 軽い。
「……?」
目を落とす。
そこには、 小さな泡が浮かんでいた。
ひとつ。
またひとつ。
自分の手から、零れていく。
水なんて、ないのに。
なのに
泡が、消えていく。
「……」
理解するのに、時間はいらなかった。
これは―― 代償だ。
声を失っただけじゃない。
もっと、何か
削られている。
消えていく。 少しずつ。
確実に。
まるで―― このまま、全部 泡になるみたいに。
怖い、とは思わなかった。
不思議と。
ただ
「……」
彼のことを、思った。
もし 全部、消えてしまったら。
この気持ちは、どうなるんだろう。
残るのか。
それとも…
何もかも――
一緒に消えるのか。
廊下の奥で、扉が開く音がした。
慌てて、顔を上げる。
彼が、出てきた。
「……何してる」
低い声。
驚きと、少しの苛立ち。
当然だ。
こんな時間に、こんな場所で。
説明なんて、できない。
声がないから。
でも――
それだけじゃない。
言葉があっても、きっと言えなかった。
この気持ちは。
この痛みは。
伝えたところで―― どうにもならない。
「……戻れ」
短く言う。
それだけだった。
近づいてはこない。 手も、伸ばさない。
ただ、 距離を保ったまま。
それが―― すべてだった。
「……」
頷く。
それしか、できない。
立ち上がる。 痛い。
でも、もう慣れている。
歩き出す。
彼の横を、通り過ぎる。
触れられる距離。
でも―― 触れない。
触れられない。
それが、現実だった。
部屋に戻って、 手のひらを見る。
また、泡が浮かんでいた。
静かに。そして 確実に。
消えていく。
――終わりが、近づいていた。
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