彼に連れて来られたマンションは、理子さんの勤めている会社に意外と近く、歩いて十分ほどの場所にあった。
「はいはーい、ここが俺ン家です。マンションの最上階の、イイとこに住んでますって自慢したいんだけど、貧乏モデル出身の駆け出し芸能人なんで、三階に住んでるんだ。相田さんは遠慮しないで、エレベーターを使って。俺は健康のために階段で行くから」
言いながらエレベータの昇降ボタンを押してくれたのだが、彼に合わせて階段を使うことにした。
日頃、営業で出歩いているので、三階までの階段なんて、正直余裕だった。息を切らさず彼の後ろを無言でついて行くと、負けずキライなんだねぇと、どこか楽しそうに言いながら肩をすくめる。
「相田さんって呼ぶの何だか堅苦しいから、リコちゃんと同じく、克巳さんって呼んでもいい?」
鍵を差し込みながら窺うように訊ねられ、思わず眉根を寄せた。
初めて彼の口から自分の名前を呼ばれた瞬間、馴れ馴れしくて嫌なヤツという認識を示すべく、顔色で表してみたのに、さっきから笑みを絶やさない、彼の心情が掴めずにいる。
いったい、何を考えているんだろうか――
「エリートな克巳さん家と違って、狭いところだけど、どーぞ」
考えあぐねているところに話しかけられたので、恐るおそる入ってみると、そこは自分の家の広さと違いのない、1DKの部屋だった。
「俺、エリートじゃないですし、家の広さも同じくらいですよ稜くん」
向こうが名前で呼ぶなら、こっちも呼んでやれ。
思いきって告げた言葉に、印象的な瞳を一瞬だけ見開いて、くすぐったそうに笑った顔が、さっきまで浮かべていた笑みと違うなと思った。心の底から笑ったと表現すべきなのか、それとも素直な笑みというか。
芸能界という華やかな場所で仕事をしているから、笑うなんてことは造作のない行為だろうが、テレビで見ることのできないその笑みが、何故だか心に残ってしまった。
「へえ~、同じくらいなんだ。有名銀行にお勤めだから、てっきりすごいトコに住んでいるんだと思ってた。ああ、そこのソファに座ってて下さい。今、コーヒー淹れますね」
「……おかまいなく」
彼から視線を外し、指定されたソファに座るべく躰の向きを変えた途端に、それが目に飛び込む。
「……お花、すごい数ですね」
部屋のあちこちに、花瓶がたくさん置かれている状態に固まってしまう。リビングにはテレビとテーブル以外ないため尚更、華やかさを与えていた。
「ああ、それね。モデル時代からのファンの子が贈ってくれたんです。CM出演のお祝いにって。これでも半分以下なんですよ、ほとんど事務所に置いてきちゃった」
圧倒的なその量と花の香りに、呆然と立ち尽くすしかない。
「俺の苗字、葩御の葩(はな)って、花びらという意味なんですよ♪」
キッチンでコーヒーを淹れてる彼が、唐突に話し出す言葉に違和感を覚えた。どちらかというと俺の目に映る彼の姿は、儚い花びらよりも艶やかな華だろうなと思ったから。柔らかく微笑みながら、ポーズをとっているだけで、必然的に目を奪われるような何かを放つ人。
自分とは違う世界に住んでる、対極の存在――どんなに頑張っても、俺はこんなふうにはなれない。
「切花ってお水をあげないと、すぐに枯れてシワシワになって、花びらが散っていくでしょ。その感じが、哀愁漂っていて好きなんですよね。俺も枯れないように、頑張らなきゃなぁって」
「何か……変わってますね」
俺もどうかしている。この場に立ち尽くしたまま、彼とこんなふうに和やかに話をしているなんて。不思議と、彼のペースに乗せられてしまった。
しばらくすると、コーヒーを淹れる芳醇な香りが、部屋の中に充満し始めた。
「ふふふ、よく言われます。でもやっぱりきちんとお水をあげて、長生きさせなきゃ、かわいそうですよね。枯れさせるようなことはしてませんよ。あ、克巳さんコーヒーは、ミルクひとつにお砂糖2つでしたよね?」
(――どうしてそんな、細かいことまで知り尽くしているんだ、コイツ……)
「気持ち悪いですね。いろいろお調べになったようですが、そんなことまで知っているのは、正直怖いです」
「言ったでしょ? 相手を知らなきゃ戦略が立てられないって。しかもあのリコちゃんが好きになった人がどんな人か、すっごく知りたいって思ったら、止まらなくなっちゃいました」
悪びれた様子を見せず、コーヒーカップを両手に持ち、俺の傍に佇みながら、じっと顔を見つめる。
「克巳さん遠慮しないで、座って待っていたらいいのに」
「いや、その……」
突き刺さるような視線をやり過ごすべく俯くと、手に持っていたコーヒーカップをローテーブルに置いてから、俺の背中を押して無理やりソファに座らされた。
「はい、どーぞ♪」
すかさず隣に座り込み、コーヒーを勧めてくる彼に、顔を引きつらせる。俺の躰に寄り添うように、ピッタリとくっついてきたからなんだが――
「……戴きます」
ソファの淵ギリギリまで躰をさりげなく移動し、彼との距離を取って、ローテーブルに置かれたコーヒーを一口だけ飲んでみせた。
(む、結構苦い――)
「あ、いつもより濃く落としちゃったかも。ごめんなさい、苦いですよね?」
同じタイミングでコーヒーを口にした彼が、心底済まなそうな顔をして、カップを下げようと手を差し出す。
「いえ、おかまいなく。これくらいの濃さがあった方が頭が冴えて、話し合いがスムーズに終わりそうです」
言いながら、彼の手を制した。あまりにも済まなそうな顔をするので、もう一口だけ飲むと、気を遣わせてすみませんと一言謝罪し、しっかりと頭を下げる。何故だか上目遣いの探るような視線で、こっちを見ながら――
「……克巳さん、ちょっと聞いていい?」
「何ですか?」
「リコちゃんのどこを好きなのかなぁって、気になっちゃって。こればっかりは、どんな手を使っても、調べることができないものでしょ?」
頭の中にニッコリと微笑んだ、理子さんの姿を思い浮かべる。
「そうですね……自分の考えをしっかり持っているところや、かわいくて優しいところです」
最後の方はワクワクした表情で訊ねてくる彼に、内心ドン引きしながら、重たい口を開いた。
「ああ、すっごいわかる! 昔から変わらないんだなぁ、リコちゃんって」
「小さい頃、結婚しようと約束したんですか? 理子さんはまったく、覚えていないようでしたけど」
そう言ってやると、彼は寂しそうな笑みを口元に湛えた。
「俺ね、ずっと母親とふたり暮らしをしていたんだ。俺が小学校に上がる前に引っ越すことになって、その時リコちゃんと指切りしたんだよ。大きくなったら、有名人になって迎えに行くから結婚してねっていう約束を、しっかり交わしたんだけどな」
誓約書でも書いておけば良かったかなぁと、ちょっとだけ笑いながら、コーヒーを口にする。
彼女のことを心底好きだっていう想いが、彼に言ったセリフからひしひしと伝わってきたのだが。
「君がどんなに理子さんを想っても、俺たちは別れる気はないし、渡すつもりはない!」
小さい頃の約束を果たして、目の前に現れた彼。理子さんを想ってる自分の好きという気持ちより、彼の想いが上回っているだろう。だけど彼にどうしても負けたくなかったから、気持ちをしっかりと込めて、強い口調で告げてやった。そのせいか、鼓動がいつもよりドキドキする。
「でも俺はずっと理子ちゃんだけ想って、今まで頑張ってきたんだ。……って、あれ克巳さん何だか、顔が赤いけど大丈夫?」
(顔が赤い――?)
ポケットからハンカチを取り出し、額から投げれ出る汗を慌てて拭った。
変化は顔だけじゃなく、なんだか躰全体まで熱くなってきている。こんな急激な変化は、何かのウイルスにでも感染してしまったのだろうか? ライバルの家で、無様に倒れるワケにはいかない。
必死に平静を装っていたが、躰の奥から熱が上がってきた。そのせいで、呼吸がどんどん荒くなる。これはヤバいかも――
そんな俺を、彼は心配そうな表情を浮かべながらじっと見つめ、目の前から消えた。すぐさま戻ってきて、手にしていたペットボトルを、目の前に揺らしながら掲げる。
「これ新製品で貰った水なんだけど飲みますか、克巳さん?」
「あ? ああ、済まない……」
躰の熱を何とかしたくて、ペットボトルに手を伸ばしたのに、彼はさっと取り上げながら意味深な笑みを浮かべ、じっと見下ろしてきた。
「欲しければ、くれてやるよ?」
瞳を細めて、艶っぽく微笑みながらキャップを開けて口に含むと、俺の頬を両手で包み込み、唇を合わせる。拒否しようにも、躰が痺れたように動かない。それこそ、指一本も動かせない状態だった。
一瞬の出来事だったが口の中に、甘くて冷たい水が勢いよく流れ込んできた。急病のせいで、ぼんやりとしていたとはいえ、何やってるんだ!?
「……んんっ、うっ」
目を白黒させながら、彼から与えられる水を全部飲み干すと、唇がやっと解放された。
「ああ、もぅ零してるね」
その言葉に、口を拭おうと右手を上げた瞬間、すぐさま顔を押さえつけられ、彼の舌が濡れた口元から顎のラインを下から上へ、ペロリと舐めとっていく。その舌使いが妙にイヤラしい――
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