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七瀬ひかりは、自分のことを「演技がうまい人間」だと思っている。
俳優みたいに、というわけじゃない。
そんな大げさな話じゃなく、ただ単に、「教室で、求められている七瀬ひかりを、ちゃんと演じきれる人間」という意味で。
朝、教室のドアを開ける前に、いつも一回だけ、深呼吸をする。
口角を、ほんの少しだけ上げる。肩の力を抜く。歩幅を、半歩だけ広くする。目線を、いつもより五センチだけ高く保つ。
それだけで、世界はちゃんと、「学校一の七瀬ひかり」を受け取ってくれる。
「おはよ~! みんな、今日も生きてる?」
声を、ワントーン高く。
語尾を、ほんの少しだけ伸ばす。
笑顔を、八十パーセントの強さで。百パーセントは、警戒される。六十パーセントだと、足りない。八十が、ちょうどいい。
これで、教室の照明はだいたい、ひかりを中心に再配置される。
中学のころ、ある日ふと気づいた。
「みんなに好かれる女の子」のフォーマットには、再現性がある、ということに。
声のトーン。歩き方。リアクションのタイミング。誰の話にどれくらいの強さで反応するか。誰の冗談を、何回に一回、ちょうどいい強さで笑い飛ばすか。
全部、観察して、真似して、調整して、組み合わせれば、再現できる。
そうして再現された「七瀬ひかり」は、たしかに、教室のいちばん明るい場所に立てる女の子になった。
——なった、けれど。
「ひかり、ねえねえ、昨日のドラマ見た?」
「あー、ごめん、見れてない! でも気になってた、どうだった?」
「もうやばいの、ラスト五分でさ——」
「えー、なになに、ネタバレ?OKだよー!」
教室の中央で、女子三人と笑いあいながら。
ひかりはずっと、ブレザーの内ポケットの上に、左手の指先を、軽く添えていた。
そこには、白い、小さなワイヤレスイヤホンのケースがある。
それは、彼女が今朝、家を出てくる直前に、机の上の「神棚」から、お守りのように手に取ってきたものだった。
ケースの内側、蓋の裏には、小さな文字が書いてある。
誰にも見えない場所だ。本人ですら、家以外でこのケースを開けないから、その文字は、教室のどんな照明の下でも、いちども光を浴びたことがない。
その文字には、ひかり自身の小さな手書きの字で、こう書かれている。
————
「ヨルさんは、わたしの夜を、終わらせてくれた人。」
————
中学三年の冬。
両親の不仲がいちばんひどかった、あの冬。家の中の空気が、毎晩、薄い氷の張った湖みたいに固まっていた、あの冬。
ひかりは、自分の部屋の毛布の中で、イヤホンを耳に押し込んで、震えていた。
震えながら、たまたまおすすめに上がってきた、再生回数たった三千回の曲を、たまたま、再生した。
その曲のサビ前に、ぴたりと三秒、音が止まる瞬間があった。
その三秒の間に、ひかりは——、たぶん人生で初めて、「自分が今、ちゃんと息をしている」ということに気づいた。
息をしてもいい、と、誰かに、初めて言われた気がした。
曲の最後の音が消えたあと、ひかりは投稿者の名前を、画面の中で何度も読み返した。
ヨル。
夜、と書いて、ヨル。
————
それからの彼女は、ヨルが新しい曲を出すたびに、何百回も繰り返し聴いて、歌詞を全部書き写して、考察を鍵アカウントに書き散らして、布教ツイートを世界に向けて打ち続けた。
————
「ヨル先生の新曲、ほんとうに、今日生きていてよかったって思える曲。何回聴いても、サビ前で息が止まる。世界でいちばん優しい3秒間だと思う」
それは、ひかりが、たぶん自分の人生で書いた、いちばん本当の文書だった。
——でも、教室では、それを誰にも、絶対に、言わない。
「ひかりってさー、流行ってるものなんでも知ってるよね」
「えー、そうかな?」
「この前のあの曲も知ってたじゃん」
「あれは、たまたま! 妹が聴いてただけ!」
ぱっ、と笑って、両手を顔の前で振る。
そういうとき、ひかりは、いつも自分が、ガラスの向こう側からこちらを眺めているような、奇妙な感覚に襲われる。
ガラスの向こう側で、ちゃんと「七瀬ひかり」が笑っている。
ガラスのこちら側に、本物のひかりが、ぎゅっと膝を抱えて、息を潜めている。
二人とも、たぶん、自分だ。
ただ、教室のなかで「本物のほう」を出してしまったら、たぶん、いろいろなものが壊れる。友達も、評判も、両親が「うちの娘は学校で人気者」と言うときの、あの少しほっとした顔も。
だから、ひかりは「演じる」。誰にも、本物を、見つけられないように。
——昨日、教室で、藤宮陽人くんに話しかけた時のことを、ひかりは何度も思い返していた。
自分でも、なぜあんなことを聞いたのか、わからない。
「藤宮くんって、音楽聴くの好きだよね」
「ボカロとか、聴く?」
理由はある。ある、けれど、それを認めるのは、いまの自分には、まだ、ちょっと、こわい。
最近、ひかりは、ある「気づき」を、ずっと、心の奥のほうに沈めている。
藤宮陽人くん。
教室のいちばん後ろ、エアコンの真下、廊下側の席。半年間、誰とも話していない、と女子たちが噂している、影の薄い男子。いつも、机の下で、こっそりスマホをいじっている男子。
——その男子のスマホの画面に、先週、たまたま、廊下ですれ違ったときに、ほんの一瞬、見えてしまった、白い波形のような画面。
DAW、というやつだ。作曲ソフトの、画面。
ヨル先生がインタビュー記事のなかで、ぽろっと「使ってる」と言っていたのと、同じUI。
退屈そうに机をトントンと叩いていた、あの指先のリズム。
なんてことのない癖だと思っていたそれが、新曲のメロディと、信じられないくらいに瓜二つだったこと。
それと、もうひとつ。
藤宮くんの、左手の中指の、爪の生え際のあたりに、ピアノを長年弾いている人特有の、軽い角質のあとがある、ということ。
いや。
それは、本当に、本当に、偶然の話で。
世の中には、DAWを使っている男子高校生なんて、たぶん、たくさんいる。
ヨル先生の曲を聞いてる男子だって、たくさんいる。
深夜まで起きていそうな目をしている男子だって、たくさんいる。
教室で誰とも話さない、影の薄そうな男子だって、たくさんいる。
たくさんいる。
たくさん、いる、はず、なのに。
————
「ヨル先生って、たぶん、教室では誰とも話さないタイプの人だと思う」
「『別に、誰にも知られなくていい』って、インタビューで言ってた言葉、あれが本当に本心の人」
————
——自分が、何ヶ月も前に、鍵アカに書いたツイートを、ひかりは思い出していた。
頭の中で、何かが「カチッ」と、嫌な音を立ててハマろうとしていた。
それは、ひかりが、いちばん認めたくない仮説だった。
なぜなら、もしそれが正しかったら。
自分はこれから、毎日、毎時間、毎分、毎秒——「ヨル先生」と同じ教室の、同じ空気を吸っていることになる、から。
そんなの、心臓がもたない。
「ね、ひかり。トイレ行こ」
「あ、うん、行く行く!」
立ち上がる瞬間、ひかりは、もう一度だけ、教室のいちばん後ろの席を、視界の端に、ほんの0.2秒だけ、入れた。
藤宮くんは、机に肘をついて、相変わらず窓の外を眺めていた。
ワイヤレスイヤホンの片方だけを耳に挿し、もう片方は手元のケースに入っている。
ひかりの中で、また、心臓が、変なリズムで一回鳴った。
そのイヤホン、ヨル先生が、こないだのインタビューで「最近、これに変えました」って書いてた、新しいモデルだ。
新発売の。わりと、マイナーな。
発売されたばかりで、まだ街でほとんど見ない、あの。
「ひかり? どしたの、ぼーっとして」
「あ、ごめんごめん、なんでもない!」
ぱっ、と、八十パーセントの笑顔。
ワントーン高い声。
半歩、広い歩幅。
教室の照明は、ちゃんと、ひかりの動きを追って、再配置される。
——大丈夫。今日も、ちゃんと、ガラスは割れない。
トイレに向かう廊下を歩きながら、ひかりは、ブレザーの内ポケットの上を、もう一度、そっと指で押さえた。
ケースの中には、ヨル先生と「同じイヤホン」が、入っている。
一週間前から入れている。
それを、教室の誰にも、絶対に、見せない。
「ヨル先生のおすすめ」だから揃えた、なんてことを、誰かにバレたら、たぶん、自分はもう、教室の「いちばん明るい場所」には、立てなくなる気がする。
そして、もし、藤宮くんが、本当に、ヨル先生だったら。
——彼にだけは、もっと、絶対に、バレてはいけない。
なぜなら。
「学校一の陽キャ美少女が、自分の熱狂的なフォロワー」だなんて。
そんなの、ヨル先生からしたら、たぶん、いちばん、めんどくさい話、だから。
ひかりは、そう思っていた。
廊下の窓の外、午後の光が、彼女の栗色のセミロングの毛先を、淡く透かしていた。
その光のなかで、ひかりはほんの一瞬、自分でもよくわからない笑みを、口の端にこぼした。
教室のなかで「七瀬ひかり」を演じているときの、八十パーセントの笑顔ではなく。
鍵アカウントで、ヨル先生の新曲を再生する直前の、誰にも見せない、夜の自分の笑顔のほうだった。
そして、それを、廊下のいちばん端の窓越しに、たまたま、ひとりの男子が、見ていた。
幼馴染と一緒に、屋上手前の踊り場から、教室に戻る途中の——藤宮陽人だった。
ひかりは、まだ、それに気づいていない。