コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
窓の景色が、凄い速さで後ろへ流れて行く。
東京駅から新幹線で2時間半の行程は、街から山間を抜け懐かしい故郷へ続いていた。
昔に比べたら、ずいぶん近くなったものだと沙羅は目を細める。
初めて東京へ出た当時は、まだ新幹線が開業していなかった。深夜帯の長距離バスで一晩かけて東京へ出たのは、今となっては良い思い出だ。
金沢駅に降り立つと、駅舎の天井が、幾何学模様の鉄骨に支えられたガラスのドーム。その美しさに圧倒される。建物を抜ければ、荘厳な鼓門が出迎えてくれる。
10年ひと昔というけれど、懐かしい場所はすっかり姿を変えていて、まるで異次元にでも迷い込んだような感覚だ。
「なんだか、知らない街に来たみたい……」
学生の頃、駅に来るたびに買い物をしたパン屋さんは無くなり、違う店舗になっている。月日の流れを感じ、切ない気持ちにさせられた。
「はぁ、これだけ変わっていると寂しいわね」
感傷的なのは、夕暮れが近づいているせいなのかも。と、沙羅は時計に視線を落とす。
時刻は16時32分。
ひぐらしがカナカナと鳴き始めている。
通りに面した花屋を見つけ、大輪のカサブランカの花束を作ってもらう。胸に抱えると、甘い芳香が両親との思い出を呼び起こした。
あまり贅沢を好まない母が、唯一の贅沢だと笑いながら、玄関の花瓶に生けていたカサブランカ。
それは、仕事から帰って来た父が「いい香りだな」と褒めてくれるからだ。
平穏な毎日、その中の小さな幸せを大切にしながら、お互いを思いやる。
ごく普通の幸せな家庭の風景。
それは、自分が思い描いた家族の形だった。
駅前からタクシーに乗り、緩やかな坂道をのぼる。
車窓から見える景色は、ところどころ新しくなった家もあるが、以前と変わらない趣のある町並みが続いていた。
やっと、故郷に帰って来たと実感が湧いて来る。
兼六園を通り過ぎ、暫く道なりに走ると、タクシーがウインカーを立て、細い脇道へ入る。
緩やかに速度を落としたタクシーは、やがて、安慧寺の門前に辿り着いた。
車から降りた沙羅は、重厚な佇まいの門を見上げた。
記憶の中と変わらない景色は、両親を亡くした時の悲しい記憶を呼び起こさせる。
それを振り払うように頭を左右に揺らしてから、
一礼して門をくぐる。白い敷石の敷かれた境内は、お盆の時期のせいか、参拝客の姿もチラホラ見える。
敷石を踏みしめ、墓石が並ぶ小路を歩いていると、焚かれた線香の香りが鼻腔に届く。お寺独特の空気感に自然と背筋が伸びる思いがした。
奥へと足を進める。 掃除の行き届いた墓石が区画毎に並び、花台には白や黄色の菊があげられていた。中には新盆を迎えるのか、提灯が下がり、豪華な花籠が置かれている墓石まである。
両親が眠る墓石へ辿り着く。
長い間、訪れる事が出来なかった墓には親戚が来たのか、花台にあげられた花が萎れていた。
親戚といって思い出すのは、両親が鬼籍に入った際に、何もかも奪って行った伯父だ。
表面上は親切を装い、両親を失ったショックで呆然自失の沙羅にあれこれとサインをさせた。
気がつけば帰る家を失い、両親の残した預金は半分になっていた。
35歳の今なら、弁護士を雇うなどの対抗手段も思いつくが、19歳だったあの頃は、考える気力さえも失っていた。
逃げるように東京に戻ってからは、伯父を始め親戚とは連絡は取っていない。
花台の水を変え、白い大輪のカサブランカを生けると、甘く優しい香りが漂い、夕方の爽やかな風が頬を撫でる。
「お父さん、お母さん……ずっと来れなくてごめんなさい。親不孝な娘だよね。親不孝ついでに報告があります」
お線香を手向け、沙羅は静かに目を閉じた。
目を閉じた沙羅は、いままで来れなかった月日の出来事を心の中で、父や母に語りかけた。
そうすると、どうしたって、政志と過ごした思い出が溢れてくる。
両親を失い、落ち込んでいた時期に政志は沙羅を励まし続け、心の支えになってくれた。
ただの先輩、後輩の関係から恋人同士になったのは、自然な流れだった。
そして結婚。
程なくして子供を授かった。大きくなったお腹に一生懸命語り掛けたり、いくつも名前の候補をだして考えたりした。
美幸が生まれてからも、熱が出たと慌て、歩いたと喜び、子供の成長をふたりで見守って来た。
泣いたり、笑ったりしながら、それでも幸せな日々だったと思う。
このまま、穏やかに年を取り、死が二人をわかつまで一緒に居るのもだと信じていたのに……。
その願いは政志の裏切りで、脆くも崩れてしまったのだ。
「お父さん、お母さん。ここに来る前に離婚届を出しました。でも、出来れば相談に乗ってもらいたかった。私、これからどうしたらいいのか、わからないの」
叶わないと知っていても、口に出さずに居られない。
”がんばったね” ”沙羅は悪くないよ” ”大丈夫だよ”と慰めて欲しかった。
だけど、願いは届かないと沙羅は知っている。
カナカナ カナカナと遠くで、ひぐらしが鳴いていた。
沙羅はあきらめたように細く息を吐き出し、立ち上がる。
「今度来る時は、娘の美幸も連れて来ます」
両親に語り掛けたところで、不意に名前を呼ばれた気がした。
「沙羅……?」
声のする方へ振り返る。
沙羅の瞳に映ったのは、会いたくても会えないと思っていた高校時代の元カレ、高良慶太だ。
「どうして……ここに」
沙羅は手を口にあて、信じられない思いで圭太を見つめた。
ブレザーの学生服は、歳を重ねた今、洗練されたされたスーツに変わっている。それでも、切れ長の優しい瞳は当時のままだ。
「沙羅……ひさしぶり。今日はご両親の御参りに?」
「おひさしぶりです。け……高良さんは?」
|慶太《けいた》と呼びかけた名前を苗字に言い換えた。
今、ふたりの関係は、友達でも恋人でもない、ただの昔の知り合いだから。
現在、高良慶太は、地元の経済界を牽引する程の力を持つ、TAKARAグループのトップの地位に居る。
TAKARAグループは、高級リゾートホテルを始め、レストランを全国に展開している。特に高級リゾートホテル「TAKARAリゾート」は一度は泊まってみたい憧れの宿として、旅行会社の特集には必ず取り上げられる人気のホテルだ。
東京で暮らしている沙羅が、あえて検索せずともネットニュースで見かけるような成功者の高良慶太。
たとえ、高校の頃に接点があったとしても、庶民である沙羅とは、天と地ほど住む世界が違う。
「今年、母が新盆でね」
慶太の言葉を聞いて、沙羅の瞳が大きく見開く。
TAKARAグループの前社長、慶太の父である高良健一、その妻・聡子は、表立った役職は専務だったが、沙羅の知る限りTAKARAの影の経営者で実質的トップとも言える人物だった。
聡子が、黒だと言えば、たとえ白い物でも黒だと、皆が口をそろえるほどの力があった。
「あの、お母様が……⁉」
「母と会ったことがあるのか?」
慶太に問われ、沙羅は焦ったように首を振る。
「い、いいえ。お会いした事などありません」
もちろん、それは嘘だった。
「……そうか」
心の中では納得していない慶太だったが、沙羅の必死な様子に、これ以上の追求はしなかった。
けれど、過去に起きた出来事の疑問が、これで説けたと思った。
沙羅と付き合っていた高校3年の当時、大学の進学先を慶太は関西の大学に決めていた。そして、沙羅も学部こそ違えど、同じ大学を受験するはずだった。
しかし、受験日当日、沙羅は試験会場に現れなかった。後日、慶太の心配をよそに沙羅は東京の大学へ進学すると告げた。
何の相談も無く進路変更をした沙羅を「約束が違う」と問い詰めたのは、若かったから。
沙羅は、泣いて、泣いて、ただ「ごめんない」と繰り返していた。
沙羅に裏切られたという思いに囚われたまま、ふたりの道は別れてしまったのだ。
沙羅の|頑《かたく》なな様子を見た今ならわかる。母親が、自分と別れさせるために何かしたのだと。
それは、慶太にとって、パズルのピースがはまった瞬間だった。
だからと言って、いまさら当時の事を掘り返しても、過去に戻れない。
せめて今、沙羅が幸せなのか、知りたいという衝動が慶太を突き動かす。
「この後、予定は? 良かったら、積もる話もあるし夕飯を一緒にどうかな?」
沙羅は、戸惑い視線を泳がせた。速る鼓動を抑えるように胸に手を当てる。綺麗なピンクのグラデーションに彩られている指先、その左手の薬指には、指輪は無かった。
かつて、自分の本意では無かったとはいえ、裏切ってしまった慶太から食事に誘われた沙羅は、緊張で喉がカラカラに乾いて、声が小さくなってしまった。
「あの……お誘い嬉しいですが、高良さんは、お忙しいのでは?」
慶太は、誘いを断られなかった事にホッとして、嬉しそうに目を細めた。
「大丈夫だから誘っているんだ。美味しい物を食べに行こう。何かリクエストある?」
「高良さんに、おまかせします」
「行きつけの店でいい?」
「はい」
「じゃあ、移動する前に、沙羅のご両親の許可を頂かないと」
慶太は、沙羅の両親が眠る墓石に向き直ると、神妙な面持ちで手を合わせた。
慶太にとって特別な行いでは無いのかも知れないが、沙羅には両親を大切にしてくれたように思えた。
寂しさで埋め尽くされていた心に、温かな感情が流れ込む。
「ありがとう」
「ん、ご両親の許可もらえたから、安心して」
そう言って、慶太は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
その笑顔につられて、沙羅にも笑みが溢れる。
穏やかな風が吹き、供えられたカサブランカが甘く香る。
まるで、両親が笑顔で送り出してくれているように感じられた。
見上げた空は、やわらかな茜色に染まり始めている。
「行こうか」
「はい」
沙羅が手桶を持ち上げると、慶太が手を差し伸べた。手桶を受け渡す時、慶太の大きな手がわずかに触れ、気恥ずかしさで、頬が熱くなる。
高校生だった頃のように、慶太の広い背中を見ながら、少し後ろを歩き始めた。