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金沢駅兼六園口から徒歩5分のところにある、「寿司割烹 平松」は地元の新鮮な食材を堪能出来ると、人気のお店だ。
4人掛けのテーブル席が3つとカウンター5つのコンパクトな店内は、大将が「自分の目が届く範囲で接客をしたい」というこだわりの作り。
格子戸をカラカラと開くと、「いらっしゃい」と声が掛かる。
慶太が行きつけの店だと言っていた通り、朗らかな笑顔で迎えられた。
店員に案内され、一枚板のカウンター席に腰を下ろす。
沙羅は、慶太と真向いに座るより横並びの方が緊張しなくて良かったと、思ったのも束の間、それが間違いだと気づいた。
おしながきを手にした慶太が肩を寄せ、それを差し出す。
「ここの料理は、どれもオススメだよ。好きなの頼んで」
と、心地の良いバリトンボイスが耳のそばで聞こえた。
慶太は普通に接しただけなのに、沙羅は耳ばかりでなく、心までもこそばゆい感じがして、落ち着かない。
そわそわする気持ちを誤魔化すように、おしながきに視線を集中させる。
少しクセのある毛筆のおしながきは、店主が毎日の仕入れに応じて、書いているのだと言う。
心の籠もったおしながき、そこには、旬のお刺身や握り寿司だけでなく、金沢の郷土料理で、すだれ麩を使っている治部煮があるのを見つけた。
「治部煮、頼んでもいい?」
「もちろん。他には?」
「ごりの天ぷらも食べたいです」
沙羅からのリクエストに慶太は嬉しそうに目を細め、大将に注文をだす。
お通しとお酒が運ばれてくる。お通しは、加賀野菜の金時草とトマトの酢の物だ。
石川の地酒、「獅子の里 純米吟醸 旬」は、柔らかな甘口で海鮮との相性が良い。久しぶりの再会に乾杯をした。
「地元でしか味わえない料理ってあるよな」
「ずうずうしくって、ごめんなさい。東京だとすだれ麩も乾燥した物しか手に入らなくて、生すだれ麩の食感の方が好きなんです」
「故郷の味は格別だよね。こっちに帰って来たのは、何年振り?」
自然な会話の中で、不意に訊ねられ、沙羅の顔は一瞬こわばる。
「ちょっと、訳あって15年……帰って来てなかったの」
「それって……もしかして、俺の母のせいなのか?」
沙羅は自分に向けられた、真っ直ぐな瞳から逃れるように、視線を泳がせた。
慶太の母、聡子に会った時の事が沙羅の脳裏によみがえる。
あれは、大学受験を控えた高校3年の頃、しんしんと底冷えのする冬の日だった。
塾を出た所で、聡子の秘書だと言う人に声を掛けられた。
連れ行かれたのは、近くの駐車場。沙羅でも知っているエンブレムが付いた有名な高級外車のドアが開き、聡子が降り立つ。
上質なカシミヤのコートに身を包み、染みひとつない陶器のような白い肌の持ち主は、冷たい黒い瞳で、沙羅を上から下まで値踏みをするように一瞥した後、おもむろに口を開いた。
「お初にお目にかかるわ。あなたが、慶太と付き合っている岩崎沙羅さんでお間違いないかしら?」
「……はい」
「せっかくだけど慶太には、然るべき所から妻を迎えるつもりなの。シンデレラを夢見てもあなたに傷が付くだけよ。わかるでしょう」
権力者が持つ威圧的な雰囲気に、逆らえる|理由《わけ》もなく、沙羅はうつむいた。
灰色の冷え切ったアスファルトが、体温を奪っていく。
「それに、あなたの恋愛事情で、ご両親の仕事が失くなったら、進学はおろか、暮らしていくのも困るでしょうに」
その言葉にハッとして、顔を上げた沙羅の瞳には、たおやかに微笑む聡子が映る。
地元企業のサラリーマンの父とホテルレストランでパートをする母の仕事を奪う事など、地元の政財界に顔が利く聡子にとって、赤子の手を捻るより容易い所業だ。
「まあ、わたしも鬼じゃないわ。進学をあきらめろと言っているわけじゃないのよ。だから、こうして大学受験の願書提出の前に話しをしているのだから、ね。わかるでしょう?」
月の無い空は暗闇に埋め尽くされていた。
聡子は微笑んでいるのに瞳だけは冷たいまま、見下ろされた沙羅は、体中の体温が奪われていくように感じられた。
親の庇護の元で暮らしている状態で、聡子に返す言葉の選択肢はひとつしか無かった。
視界が涙で歪み、やっとの思いで口にする。
「わかりました……東京の大学に行きます」
「物分かりの良い子は、嫌いじゃないわ。それともう一つ、この事は他言無用よ。うかつに話さないことね」
泣きながら受験先を変えたのは、両親の笑顔を守りたかったから。
その後、慶太に責められらたのに、言い訳さえもできなくて、そのまま疎遠になったのは辛かった。
でも、15年も前の出来事だ。
あの時に別れていたからこそ、慶太との恋は、綺麗なまま青春の思い出として、胸に刻まれている。
それに、故人となった母親の悪い話しを慶太にするのも憚られた。
「帰って来なかったのは、両親が亡くなった時に親類といざこざがあったから……」
沙羅の答えに、慶太は納得がいかずに口を開きかけた。けれど、それを飲み込み、謝罪の言葉を口にした。
「そうだったんだ。変な事を聞いて悪かった。ごめん」
「ううん、それより、進学の時に約束も守れずに酷い事して、ごめんなさい。あの時は家庭の事情でどうしようもなかったんです」
「いや、俺もあの時は感情的になり過ぎた。沙羅を責めて、泣かして……いっぱしのつもりでも無知で無力な子供だった」
「あの頃は、必死で考えて行動したはずなのに、いま思い返すともっと良い選択があったんじゃないかって、思ってばかり……」
「お互い若かったな」
「子供でしたね」
振り返れば、後悔ばかりが先に立つ。
でも、慶太と過ごした時間を思い返すと、並んで歩くだけでもドキドキと胸を高鳴らせたり、デートの約束をすればワクワクとして眠れなかったりと、楽しい思い出もたくさんある。
テーブルの上には、注文した料理が所狭しと並んだ。
お待ちかねの治部煮やごりの天ぷらを始め、新鮮なお刺身に舌鼓をうつ。
「はぁ、美味しい。なんだろう、お魚の旨味が濃いような気がする」
沙羅が頬を押さえ、満足気な顔をしている。
お互いのわだかまりも取れた今、お酒も進み、言葉使いも砕けた様子だ。
「わかる。東京にも美味しい物はあるけど、海鮮は地元が一番美味しいと思うよ」
「いろいろあったけど、やっぱり、地元はいいな」
少し寂しげな沙羅のつぶやきに、慶太は水を向ける。
「帰えりたくなった?」
「うーん、帰りたい気持ちはあっても、娘も居るから難しいかな」
その言葉に慶太の動きが一瞬止まる。
沙羅が幸せならそれでいい。そう思っていたはずなのに、心の奥でジクジクと鈍い痛みを感じた。
「娘さん……居るんだ」
「両親が亡くなって、天涯孤独になってしまった時に支えてくれた人と結婚したの。23歳の時に出来た子だから、もう12歳よ」
「そうなんだ。12歳だと良い話相手になる年頃だね。……ご主人は、どんな人?」
沙羅の結婚相手がどんな人物なのか、知りたいのに知りたくない。慶太の心境は複雑に揺れ動く。
しかし、沙羅はさっきまでの明るい表情から一転、今にも泣きそうな顔で唇を引き結ぶ。
潤んだ瞳から、堪えきれずに一粒の涙が落ちた。
沙羅の瞳から溢れた一粒の涙が、慶太の心にポトリと落ち、小さなさざ波を立てた。それは、波紋となって広がり、胸の奥に仕舞い込んでいた感情を揺り動かす。
「主人とは、離婚したばかりで……。今回は、両親のお墓参りをかねた傷心旅行なの」
「立ち入った事を聞いて、ごめん」
優しい声に、沙羅は頬に伝う涙を拭い、首を横に振る。
「私こそ、泣いたりしてごめんなさい。メンタル弱っているみたいで涙腺が壊れてるの」
「いろいろと大変だったね」
「ううん、大変なのはこれからだと思う。仕事を探さないといけないのに、たいした職歴も資格もないアラフォーを雇ってくれる会社なんて、このご時世に皆無よね。頑張らないと」
沙羅は、無理に笑顔を作り、胸の前で小さなガッツポーズをして見せた。
その強がる姿に、慶太は、どうにかして手を差し出したくなる。
「|金沢《こっち》で仕事を探すなら、力になれると思うけど」
「ありがとう。でも、娘の学校の問題もあって、できれば東京で暮らしたいの」
「そうか……。何か困った事があったら連絡して、東京にも仕事で行く事が多いから、相談に乗れると思う。これ、俺の名刺。裏にはプライベートの電話番号も入っているから」
渡された名刺は、石川県の伝統工芸のひとつである二俣和紙で作られ、小さな四角の紙なのに、温かな気づかいが伝わってくる。
でも、沙羅は受け取るのをためらってしまう。
「心配させてごめんなさい。でも……パートナーの方が気を悪くするといけないから受け取れない」
昔、慶太の母・聡子に言われた「然るべき所から妻を迎えるつもりなの」その言葉を忘れてはいない。
慶太に相応しい妻を迎えているはずだと、沙羅は思った。
TAKARAグループ代表取締役社長 高良慶太。
その肩書を知ると、男女問わず、それに擦り寄り利用しようと考える人が多い。
特に女性は、こちらの都合などお構い無しに、甘ったるい香りを纏い、色仕掛けで近寄って来るのだ。
だが、沙羅は慶太を利用する以前に、気を遣い、線を引こうとしている。
それは、TAKARAグループの高良慶太ではなく、ただの高良慶太として、接してくれているからだ。
自分自身を見てくれているという事実に、慶太の心に温かな光が灯される。
「残念ながら、この年になるまで縁が無くてね。まだ、独り身なんだ。だから、余計な心配はいらないよ」
慶太の言葉を聞いて、沙羅はそわそわと落ち着きをなくす。耳が紅く染まっているのは、お酒のせいだけではないだろう。
「えっ、あ、そうだったんだ。じゃあ、遠慮なく、名刺頂きますね」
沙羅は、名刺を受け取ると直ぐに、バッグを手元に引き寄せ、口を開けた。
バッグの中に仕舞ってしまったら最後、沙羅がいつ電話してくるのか、何の保証もない。慶太は一計を案じる。
「その名刺の裏の番号に、いまここで電話してくれる?」
「いま?」
「そう、いま直ぐに」
慶太がクスクスと笑いながら、きょとんと目を丸くしている沙羅を急かす。
「ほら、スマホ出して、電話して」
「う、うん。ちょっと待ってね」
沙羅は慌てて、バッグからスマホを取り出し、慶太に言われるがままに、名刺の裏のプライベート電話の番号を打ち込んだ。
スマホの画面が呼び出し中のマークになる。
ほどなくして、慶太のスマホが振動を伝え、画面をスワイプした。
すると、沙羅のスマホ画面が通話マークに切り替わる。
『おかえり、沙羅』
スマホからも、直接耳にも、横にいる慶太の声が届く。
「……ただいま」
ずっと帰りたかった故郷。
帰る家を失ってしまった自分に「おかえり」と言ってくれる人が居る。
嬉しくて、少し切なくて、沙羅の胸は郷愁を想う気持ちに埋め尽くされて行く。
そんな沙羅を受け止めるように、慶太が昔と変わらない笑顔で微笑む。
「いつまで、|金沢《こっち》に居る予定なの? 宿は取った?」
「1週間は自由なんだけど、お墓参りも済んだから、いつ東京へ戻ろうかと悩んでいるの。今日は、とりあえず駅前のビジネスホテルに泊まる予定。後は何も決めてなくて」
「そうか、明日は?」
「明日は、久しぶりに美術館にでも行こうかと」
昔、美術館にデートでよく行ったのを思い出す。無料ゾーンの広い芝生の中にある、銀色のモコモコした不思議な形のオブジェを眺めながら、暗くなるまでの時間、ふたりで色々な話をしたものだ。
「うん、いいね。俺も久しぶりに行ってみたくなった。一緒に行ってもいい? 車出すよ」
「お仕事、忙しいんでしょう。大丈夫なの?」
「大丈夫。だから誘っているんだ」
横に座る慶太の少し低めの声に耳をくすぐられる。
遠慮の言葉を口にしても、本心は一緒に行きたいと思っている沙羅は、自分を甘やかす事にした。
「ありがとう。明日は宜しくお願いします」
その言葉に、慶太は甘やかな微笑みを浮かべる。
「明日、迎えに行くよ」