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暗黒の魔剣と夕食のスープ
スポーン・カルトの森は、夜になると一段と不気味な姿を見せる。
木々の隙間から覗く月。
風に揺れる枝。
遠くから聞こえる獣の鳴き声。
そして。
昼間に散々こき使われたカルト信者たちが、あちこちの寝床で死んだように眠っている。
そんな森の一角。
粗末な炊事場では、消えかけたキャンプファイヤーの残り火だけが、ぼんやりと赤い光を放っていた。
薪が。
ぱち。
と小さく爆ぜる。
その傍らに置かれた木箱を即席のテーブル代わりにして、アズールは夕食の準備をしていた。
「えーっと……」
鍋の中を覗き込む。
「今日はスープにしようかな」
肉。
薬草。
いくつかの野菜。
そして、根菜。
「……あ」
アズールは人参を手に取った。
「これ、ちょっと硬いな」
包丁を持ち上げる。
だが。
「…………」
アズールは包丁を見る。
そして。
少し離れたところにいるツータイムを見る。
ツータイムは地面に座り込んでいた。
灰色のローブ。
黒い指なし手袋。
そして膝の上には。
ゴーストファイア・ダガー。
青白く怪しい光を放つ、見るからに普通ではない短剣だった。
ツータイムはそれを布で丁寧に磨きながら、何やら小声で呟いている。
「……闇よ」
「…………」
「深淵よ」
「…………」
「我が魂に応えよ……」
「…………」
「この刃に宿りし亡き者たちの怨嗟を……」
アズールはしばらく黙って聞いていた。
そして。
「ねえ、ツータイム」
「…………」
「ちょっとこっち来てよ」
ぴくっ。
ツータイムの肩が動いた。
ゆっくり振り返る。
「……何だ、アズール」
「手伝って」
「今、僕は忙しい」
「何してるの?」
「この漆黒の刃に眠る暗黒の力を呼び覚ましている」
「そっか」
アズールは頷いた。
「じゃあ、その暗黒の刃貸して」
「…………」
ツータイムが固まった。
「……何?」
「人参切りたい」
「…………」
「あとキュウリ」
「…………」
「包丁より切れ味良さそうだから」
「…………」
ツータイムの顔から。
すっと表情が消えた。
「…………」
「?」
「アズール」
「うん」
「今、何と言った?」
「だから、その短剣貸して」
「…………」
「野菜切るから」
数秒。
完全な沈黙。
やがて。
「なっ……」
ツータイムの目が見開かれた。
「何を言っている!?」
「え?」
「我が魂の盟友よ!」
ツータイムは勢いよく立ち上がった。
「この刃を……」
ゴーストファイア・ダガーを掲げる。
青白い光が闇の中で不気味に揺れる。
「この呪われし魔剣を……!」
「うん」
「野菜を切るために使えと言うのか!?」
「そう」
「正気か!?」
「正気だよ」
「これはッ!」
ツータイムは短剣を握りしめた。
「幾多の戦場を駆け抜け!」
「うん」
「幾千もの魂を震わせ!」
「うん」
「深淵より蘇りし暗黒の刃!」
「へえ」
「その名も――」
ツータイムは一度、溜める。
「ゴーストファイア・ダガー!!」
「知ってる」
「…………」
「いつも持ってるじゃん」
「……」
「だから貸して」
「断る!」
即答だった。
「えー」
「これは暗黒の儀式にのみ使われる神聖なる破壊の刃だ!」
「うん」
「断じて!」
「うん」
「野菜などを切るために存在しているのではない!」
「でも人参硬いんだよ」
「それは君がもっと力を込めれば――」
「じゃあツータイムが切って」
「…………」
アズールは人参とキュウリを差し出した。
「お願い」
「…………」
「ね?」
「…………」
「魔王様」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ暗黒騎士様」
「……」
「お願い」
「…………」
ツータイムは人参を見る。
キュウリを見る。
そして。
アズールを見る。
「…………」
深々とため息をついた。
「……くっ」
「?」
「運命の歯車が……」
ツータイムは額を押さえる。
「……狂う……!」
「そこまで!?」
「僕は……」
大げさに天を仰ぐ。
「もっと別の戦いをするはずだった……!」
「今日の敵は人参です」
「言うな!」
結局。
ツータイムは、アズールに押される形でまな板の前へ連れてこられた。
「はい」
「…………」
「ここ」
「…………」
「切って」
ツータイムは無言でゴーストファイア・ダガーを握った。
そして。
ふっと目を閉じる。
「……やむを得ない」
「お?」
「この暗黒の刃の真価を……」
ゆっくり目を開く。
「貴様に見せてやろう」
「……」
アズールの口元が少し緩む。
嫌な予感がする。
ツータイムは姿勢を低くした。
右手にダガー。
左手でキュウリを固定。
眼光。
鋭い。
異常なほど鋭い。
まるで目の前にいるのがキュウリではなく、世界を滅ぼそうとしている邪神であるかのような顔。
「…………」
アズールは思わず息を呑んだ。
そして。
ツータイムが呟く。
「……我が刃よ」
「…………」
「深淵の力を解放せよ」
「…………」
「その一閃をもって……」
ダガーが構えられる。
「万物を断ち切れ」
「…………」
「――暗黒裁断ッ!!」
ザシュッ!
一閃。
キュウリが切れた。
薄い。
均一。
しかも。
めちゃくちゃ綺麗。
「…………」
ツータイムは止まらない。
ザシュッ。
ザシュッ。
ザシュッ。
キュウリが次々と薄切りになっていく。
その動きは恐ろしく正確だった。
一定の厚さ。
無駄のない軌道。
一切の迷いなし。
まな板の上に。
綺麗に。
綺麗に。
キュウリが並んでいく。
ツータイムの顔は。
真剣そのもの。
眉間には深い皺。
瞳には殺気。
全身から放たれる圧。
まるで今から魔王軍の幹部を処刑するかのような緊張感。
そして。
切られているのは。
キュウリ。
「…………」
アズールは。
黙っていた。
数秒。
十秒。
十五秒。
「…………」
ツータイムは真剣に切り続ける。
「…………」
アズールの肩が震え始める。
「…………」
まずい。
笑う。
笑ってしまう。
「…………ぷ」
ツータイムは気づかない。
「…………っ」
「…………」
ザシュッ。
最後の一枚。
ツータイムがダガーを止める。
「……終わった」
まな板の上には。
完璧に均一に切られたキュウリ。
ツータイムは満足そうに頷いた。
「見たか」
「…………」
「これが暗黒の力だ」
「…………」
「この刃の前では、いかなる存在も――」
「ぷっ」
「……?」
アズールの肩が震える。
「…………」
「アズール?」
「……っ」
「どうした」
「いや……」
アズールは口元を押さえる。
「……なんでもない」
「そうか」
「…………」
「では次は人参を――」
「ぶっ!」
「……?」
「ぷはっ!」
「…………」
「ははっ……!」
アズールがついに吹き出した。
「あははははははっ!!」
「…………」
「無理!!」
「…………」
「ちょっと待って!!」
アズールは腹を抱える。
「あはははっ!」
「…………」
「何その顔!!」
「僕の顔がどうした」
「めちゃくちゃ真剣じゃん!!」
「当然だ」
「キュウリ切ってるだけなのに!!」
「料理とは戦いだ」
「言うと思った!!」
アズールはその場にしゃがみ込む。
「あはははっ……!」
「笑うな」
「だって!」
「これは戦術的調理行動だ」
「戦術的調理行動!?」
「そうだ」
「何そのパワーワード!!」
「敵の食材を効率的に処理するための――」
「敵じゃないから!!」
アズールはとうとう床に手をついた。
「ははははっ!!」
「…………」
ツータイムの耳が赤くなる。
「……そんなにおかしいか」
「おかしいよ!」
「僕は真剣に――」
「その手袋でキュウリ切ってるのがもう無理!」
「…………」
「しかもめちゃくちゃ綺麗に切れてるし!」
「…………」
「何なの!?」
アズールは涙を拭う。
「家庭的すぎるでしょ、魔王様!」
「だから魔王ではない!」
「キュウリの魔王!」
「違う!」
「野菜裁断の覇者!」
「違う!!」
「暗黒の主婦!」
「やめろ!!」
ツータイムの顔が真っ赤になる。
だが。
アズールは止まらない。
「次は人参だよ、魔王様!」
「…………」
「お願い、暗黒裁断して!」
「…………」
「スープに入れたい!」
「…………」
ツータイムはしばらく黙っていた。
やがて。
「……仕方ない」
「おっ」
「この程度の根菜など……」
人参をまな板へ置く。
「我が暗黒の力の前では無力だ」
「ふふっ」
「笑うな」
「はいはい」
ツータイムは再び構える。
「…………」
「…………」
「……暗黒裁断」
ザシュッ。
人参が。
綺麗に切れた。
アズールはまた笑いそうになる。
だが。
今度は必死に耐えた。
「……すごい」
「そうだろう」
「本当に綺麗」
「当然だ」
「ありがとう」
「…………」
その一言に。
ツータイムの表情が少しだけ緩んだ。
「……礼には及ばない」
そう言いながら。
彼は切り終えた野菜を鍋の方へ押し出す。
アズールがそれを受け取る。
「じゃあ、入れるね」
「ああ」
「ツータイム」
「何だ」
「次も手伝ってくれる?」
「…………」
少しだけ考える。
「……暗黒の力を必要とするならな」
「ふふっ」
「ただし」
ツータイムは真顔で付け加えた。
「次に切るものがジャガイモなら、僕は――」
「ジャガイモ」
「…………」
「あと玉ねぎ」
「…………」
「きのこも」
「…………」
ツータイムが遠い目をした。
「……僕の運命とは、いったい何なのだ」
「野菜を切ることじゃない?」
「違う」
「ふふっ」
アズールは笑いながら鍋へ野菜を放り込む。
その横で。
ツータイムはゴーストファイア・ダガーを眺めた。
「……」
そして。
小さく呟く。
「……まあ」
ほんの少しだけ。
口元を緩める。
「悪くないか」
「何か言った?」
「何でもない」
キャンプファイヤーの残り火が、二人の横顔を赤く照らしていた。
森の夜は静かだった。
カルトの不穏な空気も。
明日への不安も。
昼間の過酷な労働の疲れも。
今だけは少し遠い。
鍋から立ち上る湯気。
薪の爆ぜる音。
そして。
「ツータイム」
「何だ」
「そのダガー、ちゃんと洗ってね」
「…………」
「野菜切ったから」
「…………」
「まな板も」
「…………」
「あと手袋も」
「…………」
ツータイムは静かに目を閉じた。
「……暗黒の戦士に、家事をさせるな」
「はいはい」
「僕は本来――」
「はいはい」
「……世界を滅ぼす側の存在なのだぞ」
「じゃあ世界を滅ぼす前に、鍋混ぜて」
「…………」
長い沈黙。
やがて。
「……分かった」
ツータイムは木べらを手に取った。
そして。
鍋を混ぜ始めた。
その姿は。
どう見ても。
世界を滅ぼす暗黒の魔王ではなく。
夕食のスープを作る、ちょっと中二病な料理担当だった。