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「あそうそう、B社の見積もりを作り直しておいてくれる? 去年の四月の見積もりを参考に。サービスで手数料二割減額しといて。それから、……」すこし考え込む仕草をすると、「正午に第2会議室の予約を入れてくれる?」
てきぱき指示を出す上司に聡美は、「はい。どなたか来客ですか?」
「ううん」聡美の上司である叡山(えいざん)三津子(みつこ)は首を振ると笑みを頬に乗せ、
――たまにはランチミーティングと行きましょうよ。
「――あたしね。シングルマザーになるの」
突然に切り出され、開いた口が塞がらない聡美。「……え。え……とどういう」
「ああ、心配しないで」茫然とする聡美に向けて手を振る三津子。「九月に出産で、前後三ヶ月お休みを頂くつもり。産前で認可外保育園て予約出来るのねえ。十一月から預けるつもりよ」
ご迷惑をおかけします。
深々と、目下の自分のために頭を下げる三津子の姿に聡美は恐縮した。「そんな。顔、あげてください……。わたしのほうが、長くお休みを頂いたので、迷惑をかけたのはむしろわたしのほうです」2014年4月下旬。この春に職場復帰したばかりの聡美は、ようやく慣らし保育を終え、通常勤務を開始したところである。一年近くも産休育休を取得した自分の穴埋めとして、会社は、臨時でパートを雇い、営業職を勤める三津子のサポート役に充てた。
ゼロ歳児は度々熱を出すもので、お陰で、聡美は半月も出社出来ていない。この調子だと有休も使い切ってしまいそうだ。使い切ったら時給計算で給与からさっぴかれる。今年の冬は懐も寒くなってしまいそうである。……この冬には。
目の前に居る叡山三津子は母となっている……。
サーモスの水筒に口をつけると聡美は、「……立ち入ったことを聞いてもいいですか」
「なんでも構わないわ」と促す三津子に対し、
「……赤ちゃんのお父さんは、その……」
「やっぱそこよねえ」聡美の疑問を見抜き、にやりと笑う三津子。「みぃーんな、やーっぱそこが気になんのよね、うん。……
女なら誰でもいいから抱かれたい夜ってのがあるじゃない? ……そんでまあ。
なりゆきで。
……相手の男は、海外転勤で、嫁さん連れてくみたい」
……ということは、不倫か。
不思議と。嫌悪感は湧かなかった。聡美とてひとりの母親なので、三津子の気持ちはよく分かる。妊娠が判明したとき、堕ろすなんて考えもしなかった。安藤美姫が同じ年に出産しており、聡美は彼女の選択に共感する。妊娠した途端、女は母親としての本能に目覚めるのだ。
「このことは、比嘉(ひが)さん以外には話してないの。内緒にしておいて」
しぃっ、と指を一本立てる三津子に対し、「勿論です」と答える。……不安がないといったら嘘になるけど。
「頑張るっきゃないよね。この子を守るためだもの……」
慈愛に満ちた表情で、まだ目立たないお腹を撫でる姿は、母そのものであった。
会議室を先に出たところで糸部(いとべ)と出くわした。
既に閉まったドアを振り返り、聡美は、「その、糸部くん、いまの話……」
「彼女がシングルマザーになるって話はみんな知ってますよ」立ち聞きをしていた気まずさを振り払うがごとく、糸部は、「でも。肝心なところはなにも聞けていません」
顔も耳も赤くした糸部の想い人が誰なのか、それこそ皆が知っている。だが聡美は、守秘義務があるからなあ、と悩む体で、
「本人に直接聞いてみたら?」
「それが出来れば苦労しないっす……」肩を落とす糸部。「おれ、年下ってだけで全然相手にされてないんすもん……」
確かに。
三津子は、第一線でバリバリ活躍する女性。ドラマに出てくるような有能な四十代前半の女性だ。かたや、糸部は……。
女社長比嘉のサポートをするのが役目。
ひとの良さそうな、悪くいえば世間知らず感の否めないお坊っちゃんだ。聞くとやはり、実家で暮らしているという。それでは、これからママになり、仕事を続けるという女性の信頼を得るのは厳しいであろう。
一通り思考を一巡させた聡美は、
「先ずは、自分がしっかりした男だってのを理解してもらうことじゃない」と自分の意見を告げる。「マングローブ、気丈に振る舞ってるけど、ほんとはすっごく心細いと思うよ……頼れるひとが欲しいんじゃないかしら」
するとしかめっ面で糸部は、「マングローブなんて言わないでください三津子さんのこと」
「だって本人が」
「あたしが……なに?」
壁に耳あり障子に目あり。
笑顔でドアを開いたのは、噂の種となっていた叡山三津子そのひとであった。
ごほんと咳払いをし、聡美は、「叡山さんが、自分からマングローブ呼ばわりを好むのはどうしてかと、そういう話をしていました」
「だって格好いいじゃんミッツ」けろりと言ってのける三津子。「知性と教養もあって素晴らしいじゃんあのひと。女として尊敬するわ」
……て男だっけ。
舌を出す三津子に、糸部が、
「おれじゃ、……父親になれませんか?」
おおっと。
月9劇場が始まるところらしい。そそくさと聡美はその場を去ろうとするのだが……、
「あんたじゃー無理。世間知らずのお坊っちゃんだもの」
予想通りの結論が聡美の背に届いた。
「それでさー、ほぉんとびっくり。
肩で風を切って歩くみたいな都会のバリキャリが、いきなしシングルマザーになるって言うんだもん。
男なんて興味なしって感じなのに」ふぅ、と聡美は息を吐き、「やっば女って男が居ないと生きていけないのかなあ……」
あんた離婚しとるがになにを言っておるんかいね。
鼓膜を震わす母の声。三津子から衝撃の告白を受けたその日の夜に、そそくさと必要最低限の家事を済ませ、待ってましたとばかりに田舎の母に電話をする聡美である。
離婚。シングルマザーなんて。
ドラマや漫画だけの絵空事だと思っていた。まさか自分の周りにだけでなく自分の身に降りかかろうとは。
しかしながら聡美の中途採用で入社した会社は、社長自身が二人の子持ちということもあり、積極的に女性を採用している。よって離婚のたぐいは珍しくない。
なお、聡美の勤める会社では、結婚後に旧姓で通すか新しい姓にするかは個人の判断に委ねられる。三津子の営業事務を担当し、ちょくちょく取引先と連絡を取り合う彼女としては、都度氏名変更を伝えるのも手間だと思い、旧姓で通すことにした。いま思えばその判断は正しかった。
「叡山さんにも幸せになって欲しいんだけど……糸部くん本当いいひとだし」
いいひとだけで父親は勤まらんわいね。
的確なる母の指摘に聡美は笑みをこぼす。確かに。見方を変えれば元夫だっていいひとそのものであった。妊婦を気遣える面においては。ただし。
だからといっていい夫になれるかといえばまた話は別である。それに、いい父親というのも……。
いい夫であるのが大前提。夫婦関係がしっかりしていないと子育ては難しい。夫婦という基盤のうえに、子育ては成り立っているのである。
土台を作れなかった聡美としては、最初からシングルの道を選ぶ三津子のことが心配であり、他方、まぶしくも見えた……。最初からひとりきりで子どもを育てる覚悟を持つその姿がどこまでも美しかった。
お母さんそろそろ寝るわ。
と、母の声。六十歳を過ぎた辺りから仕事がきつくなってきたらしい。旅館業を営む母は毎朝五時に起きる。時計を見れば二十二時を過ぎていた。頃合いだ。
「ありがとうお母さん」ふわぁ、と彼女はあくびをし、「お互い、無理しすぎないように頑張ろうね。またかけるね。ありがとう」
おやすみぃ。
……母の声を聞き電話を切った。
しぃん、とした静寂が彼女のこころに差し迫る。……結局ひとりぼっちなのかと。いや違う。……あたしは。
(ひとりなんかじゃない)
携帯でトークをする母の声に惑わされず眠りを貫く我が子の姿。……本当に、大きくなった。もう間もなく一歳のお誕生日を迎える。なにを買ってやろうか。彼女の目下の関心ごとはそれである。アンパンマン辺り、喜ぶであろうか……。
歯ぎしり対策のマウスピースをはめ、布団に入る。シングルの布団。この部屋は狭くてこれくらいの布団しか敷けないけれど、このくらいが心地いい。
すやすや寝息を立てる天使の寝顔。……
「生まれてきてくれてありがとう、なぎちゃん」
それは彼女が毎晩口にする魔法の言葉。どんなに辛くても苦しくても……、この子が一緒だから耐えられる。保育園に預ける当初は、果たして自分が仕事とたったひとりでの育児とを両立出来るのか、不安もあったけれど、……この子は順調に適応している。
預けられた当初はやはり、天井や壁などの周囲を気にする様子が見られたが、やがて、先生にも笑顔を見せるようになったとのこと。その話を聞いて彼女はこころから安心した。保育園に預け始めたお陰で、肩の荷が下りた気がする。
――お母さん。ひとりで悩まないでね。
悩みを抱え込みがちな聡美にかけてくれた園長先生の言葉は、胸の奥のスペースに大切にしまわれている。いつどんなときでも、穏やかな気持ちで取り出せるように……。
ぱちりと。ミニライトを消す。真っ暗闇が彼女を出迎える。……が。
彼女のこころはほんのりと、あたたかな存在と言葉群であたためられていた。
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